
古い言葉(方言)
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古い言葉(方言)
日常的に使われてきた言葉が、都市化が進むとともに、学校教育が進むとともに地域の人は、次第に古い言葉を使わなくなった。
地域の歴史を振り返ってみると、大沢方面の古い方々は、調布、府中から、中原、北野地域の方々は調布世田谷方面から、群れ地域の方々は、吉祥寺、世田谷方面から、野崎地域の方々は、世田谷、調布方面から、まあた五日市街道を下ってきた人々、上連雀の方々は、練馬ア地域から、下連雀地域の方々は神田地域から移入してきたことがうかがえる。
それぞれの地域間の交流は盛んにおこなわれていたものと考える。さらに、婚姻関係は、市内だけでなく近隣市との関係も深かったと考えられる。これらにより、言葉の交流も同時に行われ、江戸言葉を中心に多摩地域の言葉がまじりあいほぼ同様な言葉となってきたとも考えられる。
私のお祖父さんや近所の年寄などの言葉には末尾に「べえ」を付けて会話をしていたのを覚えている。又、私も幾分それを引きずっていたことは間違いない。また特徴的なものは、「ひ」と発音しても「し」きこえる、昼飯を「しるめし」と発音するが如くであった。最近ではどの人も目立つ人は少ない。また、べーべー言葉と言われ、語尾に「べえー」「だべえ」「だんべえー」を付けて会話をしている人々がいた。
古い人々とふれあいがあったが、すでに古い知人はなくなってしまっていることも多く、直接に聞き取りは難しくなっているが、できる限り思い起こして整理をした。また近所の年上の方にもご指導をいただくこととした。また、言語学的なことは諸般の識者にお任せすることとする。
古いことば(発音) | 現代の発音 | |
あ | アメエー | 甘い |
アバヤアッコ・アベーッコ | 奪い合い | |
アオッパナ・クンバナ | 栄養不足からくる緑色の鼻汁・現在では見かけない | |
アキャネー・アキネー | 商売 | |
アサヅクリ | 朝食前の仕事 | |
アカッパラ | 赤痢 | |
アンベ― | 具合、様子 | |
アンダベ | 何だ、がっかり | |
アブル | 火にかざす、焼く | |
アンメ― | でない、否定する、ない | |
アガリカマチ | 家の上がるところにある横木 | |
い | イッチョメー | 一人前 |
イッチョウラ―(イ) | 最も良い、一つしかない | |
イッぺエー | いっぱい,沢山 | |
イイアンベー | 良い加減。良い塩加減 | |
イゴク | 動く | |
イキバル | 息を止めて力むこと | |
イイゴン | 遺言 | |
イッセイノ・セーノ | 一緒に声を合わせる掛け声 | |
イッテイ・イッテエ | 一体、もともと、だいたい | |
イブル・エブル | 炎が出ない状態、目に染みる煙が出る | |
う | ウスッペライ・ウスッペテイ | 平たい、薄い |
ウメ―・ウマイ | 上手い・旨い、美味し | |
ウント | 沢山、強く | |
ウテ― | きまりがわるい | |
ウンダー | そうだ | |
ウワットリ | 中心的、上位にある | |
ウデッコキ | 一生懸命、力の限り | |
ウッチャル | 打ち捨てる、投げ捨てる | |
ウツギ・オツギ | 地境、堺杭の代わりに空木・卯木が植えられた | |
え | エレエ、エラク、エライ、 | 大変に |
エライ、エレエ、エラク | 出世した、人間として備わった、大成した | |
え | エンダラ | だらしない |
エラ | 沢山 | |
エブ・エブイ・エブテエー | 草木を燃やすと出る煙、それが目に染みる様、煙たい | |
エーミ | 新築の際の家見・披露目 | |
エンヤコラ | 行動するときの調子を合わせる掛け声 | |
エエカゲンブシ | 適当に,あてずっぽうに | |
お | オメー | 御前 |
オッチョコチョイ | お調子者 | |
オヘンナシ | 変わった人、センスが異常な人 | |
オチャ、オチャガシ | 10時、3時の小休止 | |
オンボ・オボギ | 赤子・産着 | |
オンボ・オンボヤキ | 火葬時の火の番役・火葬 | |
オベール | 覚える | |
オッカケル | 寄りかける・追いかける | |
オーマクリャ・オオマクラャヤー | 大飯食らい | |
オサンゴ― | 神前にお供えするこくもつ | |
オロヌク・オロヌキ | 間引き・間引いた野菜 | |
オツモリ | 酒宴を中止する | |
オッペス | 押す | |
オッピショル | 折る | |
オッパラウ | 追い払う | |
オッパサム | 挟む | |
オス・オシテイク | 強引に・押し掛ける | |
オタンコナス | 変人、変り者 | |
オッカナビックリ | 不安で、核心なく | |
オッカク | 欠く | |
オッピロゲ | 開く | |
オシャマ | 年齢以上に大人びいている | |
オテンバ | 活発な | |
ビク(オトナビク) | それらしく、(大人っぽくなる) | |
オンナシ | 女性たち、女衆 | |
か | ガメル(タ) | |
カテエー | 人間的に堅物 | |
カッパラウ | 強く刈り込む、上側を取り払う、盗む | |
カッキル | 掻き切る | |
カシグ | 傾く | |
カッチィカル | 叱る、怒る | |
カッポジル | 荒ら荒しくる | |
カテ | 添え物・うどんの糧 | |
カカグル | まごまごする | |
カガミッチョ | トカゲ、カナヘビ | |
クチムキ | 百日咳 | |
ガンバコ | 棺桶 | |
カラクチ | 的確な、厳しい、余計な事 | |
カミゴーカ | 母屋の便所 | |
カタヅケル | 嫁に出す、仕事を終わる | |
カチカル・カッチカル | 怒る | |
ガス | 肯定する・そうでガス・そうです | |
カンマス | かき回す、かき混ぜる | |
カタギ | ヤクザではない、一般の普通の人 | |
カケル | 水を掛ける、敷物を被せる | |
き | キュースナウ | 気を失う |
キゲンキャー | 気が変わりやすい | |
く | クレエー | 暗い |
クデー | 諄い | |
クゲン | たいぎ・様子、状態、クゲンガ良くない | |
クッチャベル | おしゃべりをする | |
クネ | 垣根 | |
クズッパ | 落ち葉や下草類が混ざったもの | |
クサバッコ | 草が繁茂しているところ | |
クエ | 食べろ | |
クンナイ | ください | |
クベル | 火の中に入れる | |
け | ケットバス | 蹴り飛ばす・指定方向に飛ばす |
ケツマヅク | 躓く | |
ケッタオス | 蹴り倒す | |
ゲーモネ― | 無意味、必要ない、無駄なこと | |
ケエーコ・オコサマ | 蚕 | |
ケードウ、キャードウ | 街道 | |
ケール・キャロ | 蛙 | |
ケエーバ | 牛馬の餌 | |
ケール・キャロ | 帰る | |
ケーコ | 稽古 | |
ケーンベー | 帰ろう | |
ケツカル | している、行動している・シテケツカル―している | |
ケッチン | 指で強くはじく、鉢合わせをする | |
ゲンノウ | 金槌 | |
こ | コンニャロ・コンニャロメ | この野郎 |
コク | 行う、する・屁をコク | |
言う・バカコクでねー | ||
はさんでこき落す、稲、麦、茶 | ||
コレッチィンベ― | こんな少し | |
ゴモク・ゴモクメシ | 野菜の煮付けたものとの混ぜご飯 | |
コーコ | 漬物、ぬか漬け | |
コサヒク | 日陰で育つ、成長が遅れている | |
ゴッツオー | 御馳走 | |
ゴッツオサマ(ン) | 御馳走様 | |
コズケー | お小遣い | |
ダチン | 労働対価・お小遣い | |
コマッチャクレル | 年相応でなく、生意気に | |
さ | サブイ | 寒い |
ザアール | 笊・ざる | |
ザマーネー | 見ていられない、言わぬことではない | |
サクキリ | 鍬を使い畑で寄を行う | |
し | ショッペエ | 塩辛い |
シャーネ― | しょうがない、仕方がない | |
シャッコイ | 冷たい | |
シタミチ | 街道の裏道・農道 | |
ショオイ | 醤油 | |
ションベンダメ | 翔べんを入れる溜め | |
ジョーグチ | 上口・家の入り口から母屋の玄関までの通路 | |
ジャンケン | ||
シャリクリケール | おしゃれをする | |
ションゴル・ショーグル | おしっこのように出る | |
シクサル | 実行する、やる | |
シイナ・シイナス | 発育不全・未発達・未熟な種 | |
ジットスル・ジットシテイル | 静かにする | |
ジュンニ | 順番に | |
ショッピク | 連れていく | |
シルメシ | 昼飯 | |
ショウ・ショイ | 背負う | |
シメ― | おわり | |
シノギ | 取り敢えず、代わりに、 | |
シンドイ | きつい、疲れる | |
シャッキリ | すっきり、明確に、はっきりと | |
シチャカメチャカ | でたらめ・乱雑に、滅茶苦茶に | |
す | スッペエ | 酸っぱい・酸味が強い |
スク | 布団、むしろ、紙など広げて敷く | |
セナ | 兄 | |
スッコロブ | 転ぶ | |
スズメボッチ | 畑に稲や麦を穂先を結束したてる | |
スットンキョ | 場に合わない、思いもよらぬ | |
スポンポン | 衣服を着ていない | |
スッテンテン | 何も持っていない、一銭も金を持たない | |
スッカラカン | 空っぽ | |
スッコンデロ | 引っ込んでいろ、出てくるな | |
スッタモンダ | 意見が違い揉める、 | |
せ | セッツク | はっぱをかける、急がせる |
ゼネ | 銭 | |
セド | 裏の家 | |
そ | ソンデ、ソンデモッテ | そして、それから |
た | タテメエ | 上棟.建て前 |
タッペ | 霜柱 | |
デャアードコ | 台所・土間 | |
タップリ | 十分に | |
ダボラ、ホラ | 在りもしないことや実現不可能なことを言う | |
タガ | 樽の箍(たが)(タガが緩む、外れる) | |
ダチン | 礼、代金 | |
タント | 沢山・正しく | |
ち | チョンギル | 切り落とす |
チィチェエ | 小さい | |
チョオドエエー | 適当、ちょうどよい | |
ヂベタ | 地面 | |
チョウチョバッコ | 蝶 | |
チィットンッベー | 少し、少々 | |
チンバ | バランスが良くない | |
チィット・チィットンべー | 少し | |
チ(家) | 家・彼んち(家) | |
チィッター | 少しは | |
つ | ツンモス、ツンモエル | 荒々しく、適当に燃やす、燃える |
ツッパシル | 一目散に駆ける | |
ツッカケ | 簡単な履物 | |
ツンノメル | 突っかかる、倒れる | |
ツンドク | 積んどく、積んで置く | |
て | テメー | 手前・相手のこと・自分のこと |
テーラ | 平らに | |
デッパシャグ | 先頭に立って燥ぐ、だれより先に | |
デップリ | 太っている | |
デッケエ | 大きい | |
デエク | 大工 | |
デエー | 奥座敷 | |
テンコモリ | たっぷりと盛る | |
テエゲエ | 普通・テエゲエは、普通は | |
テンデニ | 個々に | |
テイゲイ | 普通は、大方は | |
デージョウブ | 大丈夫 | |
ケエッテ | 反って、 | |
テショ・オテショ | 小皿 | |
テッペン | 頂上、一番上 | |
デエッサマ | 大師様・深大寺元山大師 | |
デンデンムシ | 蝸牛(かたつむり) | |
デカク | 大きい、成長する | |
テッポウウチ | 猟師 | |
と | ドヅク・ドウヅク・ | 強く突く |
ドロボッケヤー | 泥だらけ | |
ドロドロ・ドロンコ | 泥のように、泥を付けた | |
ドロボー | 他人の物を盗む | |
トモりぇー・トモレイ | 葬式 | |
トンダコト | 大変なこと | |
トンボグチ | 家の裏口、大戸についた小入口 | |
ドンブ | とんぼ | |
ドンヅマリ | 突き当り | |
ドップリ | 目いっぱい | |
トコロマンザラ | ところどころ | |
ドッコイショ・ドッコラショ | 座るときなどにかける掛け声 | |
トラバコ | 留置場 | |
な | ナデコム | 騙しこむ、解らない様に人を欺く |
ナーシテ | 何して | |
ナウ | 編む、綯う、縒り合せる・縄を綯う | |
ナワズリ | 縄を両側から引き合い、畑に印をっつける | |
に | ニエル・ニエテル・ネール | 煮えている、茹っている |
ニダンゴ | すいとん | |
ニュウメン | だし汁、具と一緒にうどんを煮る | |
ニヤケタ | 変にめかしこむ、男らしくない | |
ぬ | ヌクトイ | 暖かい |
ヌカル、ヌカルム | 水を含み糠みそのようになる | |
ね | ネンゴ・ゴネンゴ | 年貢・御年貢 |
ネズミチョ | ねずみ | |
ネール | 煮える | |
ネショウベン・オネッショ | 小用を漏らす | |
ネンジン | ニンジン | |
の | ノメッコイ | 人当たりが良い |
尖っている、動きが良い | ||
ノーテンキ | 何も考えない、何も感じない、周りに気を使わない | |
ノンベンタラり | だらしなく,はっきりとしない、行動しない | |
ノミチ | 農道、舗装していない道路 | |
ノタリ・ノッタリ | 時間をかけて | |
は | バッチィイ | 汚い・汚れている |
ハランベー | 腹ばいになる | |
ハッコクル | 打つ、殴る | |
ハシッコイ | 機敏、早い | |
ハラックダシ | 下痢する | |
バシル・ニヤケバシッタ | 状態がハッキリしている | |
ひ | ヒッチャブク | ひどく破く、無理に、強く |
ヒッククル | 結束する | |
ヒッコヌク | 引き抜く | |
ヒッサク | 引き裂く | |
ヒンマガル | ひどく曲がる | |
ヒダルイ | 腹が減る | |
ヒノノキ | 日中 | |
ヒッペガス | 引き剝がす | |
ヒョッコリ | 突然に | |
ヒッケエス | 引き返す | |
ヒャール | 入る | |
ヒックリケエル | 倒れる、逆に | |
ふ | ブッカケル | 荒々しく・いい加減にかける |
ブッチギル | 荒々しく千切る | |
ブッチガエル | 交差する | |
ブッキル | 荒々しく切る | |
ブタタク | 強く殴りつける | |
ブットブ | 強く飛ぶ | |
フンジバル | 適当に縛る | |
ブッコム | 荒々しく入れる | |
ブットバス | 相手を荒々しく攻める | |
フンゴム | 踏み込む | |
ブショッテエー | 古い、時代遅れ、無精 | |
フンバル | 耐える、我慢する | |
フテーヤロウダ | 無礼な、どうしょうもない | |
ブザマ | 様になっていない・かっこ悪い | |
ブッテル | その気になっている、恰好つけてる | |
ブチョウホウ | 不便な、自分にない、用意していない | |
ビク・オトナビク | 年相応以上に、大人になっている | |
オテンバ | より、運動感が良い | |
フカス | 大げさに言う,在りもしないことを言う | |
フレル | 知らせる、伝える | |
フクレル・フクレッツラ | 怒っている、怒っている顔、思い通りにならないで気分が良くない | |
へ | ヘッツイ | 竃 |
へー | 稗、ハエ,灰 | |
ヘンモグ・ヒンモグ | いい加減に、荒々しくもぎ取る | |
ベー、ダベー、ダンベー | ベイベイ言葉の語尾につける。 | |
ヘッピリゴシ | 腰の入っていない、及び腰 | |
ほ | ホウル・ホール・ホッポル | 投げる |
ホーデー | 静止が効かない・云いてえホーデー、やりてーほでー | |
ボッチ | 稲、麦わら、豆などを山状に積むこと | |
ボタモチ | もち米を混ぜた米飯に小豆餡をまぶしたもの・春はボタモチ、秋はおはぎ | |
ボーチ | くるり棒という道具で穀類を脱粒させた作業をいう | |
ホータロ | 蛍 | |
ボッコス | 打ち壊す | |
ホザク | 話す、しゃべる | |
ホーキ | 竹ぼうき、草箒 | |
ボンクレカンジョウ | 盆と暮れの年2回の請求と支払い | |
ホッカムリ・ホッカブリ | 頬っ被り・頬っ冠り・手ぬぐいなどを頭から頬にかけて包むように被(かぶ)り、あごの下で結ぶこと。顎の辺りで結ぶ。 | |
ほーけー | そーか、そーですか | |
ま | マーリ | 回り、周り |
マミヤ | 眉毛 | |
マッタク | 正に、 | |
マッピルマ | 昼最中 | |
マゼル | 混合する | |
み | ミベーガイイ | 見栄えが良い |
む | ムイカラ | 麦の脱穀が終わった、残りの軸・茎 |
ムキャーケ | 吐き気 | |
め | ミャー | 前・ミャーのうち |
メッケル | 見つける | |
メンコイ | 可愛いい | |
メッポウ | ひどく、甚だしく | |
メノコシ | 見ているのに取り残してしまう | |
メリコム・メリコンデ | 減り込む、深く入り込む、はまりこむ | |
メッソウモネー | とんでもない、 | |
も | モグ | 捥ぎ取る |
モウカル | 儲けが出る、利益を上げる | |
や | ヤッパシ | やはり、 |
ヤベエ | 律儀に反する | |
ヤブッコ | 草藪の所 | |
ヤンベ― | やろう、しよう | |
ヤッカラヨー | やるから | |
ヤッケ― | めんどくさい | |
ヤット・ヤットコ・ヤットコセ― | ようやく、 | |
ヤニッコイ | 若い、未完成 | |
ヨカンベー | 良いだろう | |
ヤタラニ | 構わず、考え無に | |
ゐ | ||
ゆ | ユーべー | 言う |
ゑ | ||
よ | ヨッピイテ | 夜を通じて |
ヨバル | 呼ぶ・よばってこ― | |
ヨナベ | 日が落ちてからする仕事 | |
ヨッカケル | 片側を高く寄りかける | |
ヨンベー | 呼ぼう | |
ヨスンベー、 | 止す,止める | |
ヨッコラショ | 行動を起こす前にかける掛け声 | |
ヨバッテコー | 呼んで来い | |
ヨタモン、 | 不良 | |
ヨリアイ | 集まり、集い | |
ヨツンバイ | 手足を使い動く | |
ら | ラッパフク | 威勢を付ける |
ラチモネー | だらしない・云ったことか | |
ラクデー | 落第 | |
り | リコー | 利発 |
リョーケン | 考え、覚悟 | |
る | ルスイ | 留守番 |
れ | ||
ろ | ロクデナシ | 人として良くない、苛めをする |
わ | ワザト・ワザット | あえて・故意に |
ワッカ | 輪 | |
ワリト | 思っている以上に | |
ワキッパラ | 脇腹 | |
ワキャネエ | 訳なく、簡単 | |
ワケ | 事情、、理由 | |
ワケ―モン | 若い人 | |
ワタイレ | 綿を中に入れた冬もの衣類 | |
ワリエーニ・ワリト | 思いのほか、比較的 | |
ワンサ | 沢山 | |
ワリカシ | 思っている以上に | |
ワビイレル | 謝る、詫びる | |
ワッパ | 腕白小僧 | |
ワガハイ | 自分、私 | |
ワカラズ・ワカラズヤ | 物事の道理が解らない |
代参・おひまち
代参
野崎の地域に古くから社寺への代参が行われ崇敬する講があり、講元・世話人(講中の中で輪番で決められていたようである)が中心となり、講中から毎年、幾人か選出(毎年交代、希望者、くじに依る所が多い)し、講中の代表で古峯神社に参拝し、御祈祷の御札を受けて、参拝に当らなかった講員に御札を配る。
参拝に関する費用(割り当てもしくは参加者の実費負担、金員でなく米を供出など)や総ての運営をその仲間の人々達で行った。代参者が戻ると講元に講中全員が集まり、参拝に当らなかった講中に御札を授与する。毎年交替で全講員が代参人となります。
他の代参行事も同様に行われ、春または秋に行われることが多く、娯楽の少ない時期時節に、農家の娯楽の一つとして刊行され、情報の少ない中、科学の進捗も進まぬ中で、定住型の農耕民族とし、自然を崇拝し、畏れ敬う生活の中で、生活を脅かすものへの恐れから、神仏を頼るしかない、神仏に救われることを願う行事習慣として長い間行われてきた。
時代の変遷、科学の進歩や生活の変化に合わせ、縮小、形骸化するものもあり、廃止されたものもある。
おひまち
候下では、集められたコメなどで粥を焚き、みそ汁に、沢庵などの香の物を添えてふるまった。
時には徳の高い者の酒の提供もあったと聞く。
底では、参拝の土産話や世間話などが花を咲かせたとも言われ、情報交換の良い機会であった。現在では行われていない。
古峯ヶ原(こぶがはら)古峯神社(ふるみねじんじゃ)
野崎の地域に古くから社寺への代参が行われ通称「こぶがはらの代参」とし、古峯ヶ原(こぶがはら)古峯神社(ふるみねじんじゃ)を崇敬する講があり、講元・世話人(講中の中で輪番で決められていたようである)が中心となり、講中から毎年、幾人か選出(毎年交代、希望者、くじに依る所が多い)し、講中の代表で古峯神社に参拝し、御祈祷の御札を受けて、参拝に当らなかった講員に御札を授与する。
当神社は栃木県鹿沼市草久古峯ヶ原(こぶがはら)に鎮座しており、大神様が鎮まっておられます。標高は約700メートルの地点にあり、古峯神社(ふるみねじんじゃ)と言い、こぶがはらさま、などと愛称されている。
御祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)をお祀りし、別名小碓尊(オウスノミコト)・倭男具那命(ヤマトオグナノミコト)と言い、第12代景行天皇の皇子である。
幼少より、特に心身共に人並み外れて勝れ、天皇より詔勅(御命令)を拝受し、天皇の御分神として国民の幸福と平和とを願いつつ、西国の熊襲と東国の蝦夷を制し国家の統一に大きな業績を遺された神様です。
日本武尊の御神徳は、焼津の原(現在の静岡県)での火難を除かれた故事により、火防の神として、また走水海(現在の静岡県から千葉県にかけての一帯の海)での、海神の怒りを鎮めたという故事から、海上安全、大漁満足、或いは五穀豊穣の神として、農村・漁村の人々より熱烈なる信仰も集めている。今を去る1300余年の昔、隼人というお方が京都からこの地に移り、尊(御祭神・日本武尊)の御威徳を慕いつつ、京都よりこの古峯ヶ原の淨地に遷座(創祀)申しあげたのが始まりといわれております。
このように人智人力の及ばない処に、古峯の大神の弥高い御神威が得られるとされ、国家安泰はもとより、家内安全・商売繁盛・交通安全・当病平癒・身体健全などの、総ての開運・除災・心願成就の神として崇られるに至り、関東随一の稀に見る霊山・古峯神社として現在では一段の信仰を仰ぐ的となっている。
その後、古峯ヶ原は、日光を開かれた勝道上人という僧侶の修行の場となり、3ヶ年の修行の後、天応2年(西暦782年)日光の男体山に初めて登頂し大日光開山の偉業を成しとげられました。この縁起にもとづき、年々古峯ヶ原(古峯神社を中心)に登山、深山巴の宿で祈願を込め修行する慣わしとなり、その修行は明治維新に至るまで、千余年の永きに亘って行なわれた。
古峯神社はこのような古峯大神のご利益の顕著を以って全国稀にみる霊地として、火伏信仰、天狗信仰などの信仰を集め、明治初年には太政官布告により、神仏分離が行なわれ、古峯神社となり、現在にいたっている。
「大天狗」、「烏天狗」
当社は別名「天狗の社」とも呼ばれ、神社内参籠室や廊下には所せましと天狗の面、或いは、扁額・威儀物(火ばし、下駄、わらじ、天狗人形)が掲げられており、これは熱心な崇敬者から心願成就の暁に奉納されたものばかりです。
天狗はご祭神のお使いとして、崇敬者に災難が起こった時、直ちに飛翔して災難を取り除いてくれる(災厄消除・開運)偉大なる威力
の持主として広く根深い民間信仰を集めている。
顔が赤く鼻の長い天狗を「大天狗」、黒いくちばしのある天狗を「烏天狗」という。
講中・代参
当神社には、講組織をもち、交替で代参を行う附属の講中があり、その数は約二万を数え、崇敬者は全国二百万を越します。春秋の代参時には、こうした参拝者が全国より集まる。
講中とは、古峯神社を参拝するため、崇敬する人々が集まって組織する仲間のこと。講元・世話人が中心となり、古峯神社参拝に関する費用や総ての運営をその仲間の人々達で行います。
古峯神社社務所ホームページより移記
代参・参拝地を巡る
古峰ヶ原
「代参・おひまち」で村の代参による参拝と娯楽を兼ねた旅行が行われていたが、都市化による近郊農業の斜陽化に伴い昭和30年代後半にいつしか行われなくなった社寺を訪ねることを思い立ち、順に参拝することとした。最初に「こぶがはら」と言われていた、栃木県で代表が年に一度参拝(参拝、娯楽を兼ねる)する代参が昭和30年代まで行われていたが、現在では行われていない。先人の足跡を訪ねることとした。
栃木県鹿沼市草久古峰ヶ原(古峰ヶ原)の古峰神社に参拝に行く。)五穀豊穣、防災、家内安全などを祈願したと言われている。
また地元に帰り、講中の皆さんは、講元に集まり、集めたコメをおかゆに炊き、御しんこが添えられ、それを食べながらの「おひまち」が始まる。
神社よりいただいたお札や土産のお供物を配り終ると、代参の慰労と、情報交換などの世間話や情報交換をする宴会となり、差し入れされた酒を茶碗酒で楽しむ。

東京・JR新幹線やまびこー宇都宮―JR日光線・鹿沼(1時間30分)、鹿沼・定期バス―古峰ヶ原・古峰神社へ(1時間10分)
鹿沼でJRを下車し、定期バス・古峰ヶ原線に乗車、約1時間の乗車であったが窓の外は田圃地帯を走り、まだ紅葉には早く山は緑、田圃の稲刈りは終わっていた。
先人たちはどのようにこの道を超えていったのだろうかと思いをガラス窓の外を見ながら想像していた。
かつては旅の宿ではなかったかと思うことができる建物などがあり、道路わきの停留所に到着した。
季節外れの月曜日なのか、参拝者はそれほど多くなかった。代参の多い春先の最中、正月、春先には大変な混雑と食堂のおかみが言う。
古峰神社は天狗の宿として知られ、火防・盗難除けの神の使者として天狗の面が奉納され、長押の上に所狭しと飾られている。
また御祈祷で心清めた後、ご希望の方は直会会場にて御神酒と神饌料理をいただくことができ、宿坊として泊まることもできることになっているが、コロナ禍の中では不可能であった。
古峰神社参拝
食堂で食事を済ましいよいよ参拝だ。
ひらかれた参道を通り、大鳥居の前で、頭を下げ本殿に向かう。
正面が本堂、拝殿にてお参りする。いくつもの鳥居があり、個性豊かな狛犬が置かれている。













三井川の入口より、拝殿に入るとその広さに驚く、中央が本殿の入り口、左右に天狗の彫り物、「大天狗」「烏天狗」が飾られている。
天狗は御祭神の日本武尊の使いであり、崇敬者に降りかかる災厄を飛翔して払ってくれると考えられている。


古峯神社は、別名「天狗の社」とも呼ばれ、神社内参籠室や廊下には所狭しと天狗の面、あるいは、扁額・威儀物(火ばし、下駄、わらじ、天狗人形)が掲げられており、これは熱心な崇敬者から心願成就の暁に奉納されたもので、天狗はご祭神のお使いとして、崇敬者に災難が起こった時、直ちに飛翔して災難を取り除いてくれる(災厄消除・開運)、偉大なる威力の持主として、広く根深い民間信仰を集めている。
顔が赤く鼻の長い天狗を「大天狗」、黒いくちばしのある天狗を「烏天狗」と言います。






左わきに祈祷の受付が置かれており、御札を購入、拝殿の外に御朱印受付が置かれている。何種類もの絵柄が掲示されているにもかかわらず、希望が聴いてもらえない所であった。
待ち時間が45分と言うことで、社内を見学すると、天狗の面以外に多くの奉納されたもの、穴のあいた「50円玉」「5円玉」を鳥居型に張り付けた奉納額などが掲示されている。
また、奥には古峰神社創祀依頼灯を絶やすことの無い大きな湯釜があり、そのご神火は赤々と輝いていた。創基絶やす以来火をことの無い「古峰神社不滅の御神火」


御祭神は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)別名小碓尊(オウスノミコト)・倭男具那命(ヤマトオグナノミコト)とも言い、第12代景行天皇の皇子で幼少より、特に心身共に人並み外れて勝れ、天皇より詔勅(御命令)を拝受し、天皇の御分神として国民の幸福と平和とを願いつつ、西国の熊襲と東国の蝦夷を制し、国家の統一に大きな業績を遺された神様です。
古峯ヶ原は、日光を開かれた勝道上人という僧侶の修行の場となり、上人は古峯の大神の御神威によって、古峯ヶ原深山巴の宿において3ヶ年の修行の後、天応2年(西暦782年)日光の男体山に初めて登頂し、大日光開山の偉業を成しとげた。
この縁起にもとづき、日光全山26院80坊の僧坊達は、勝道上人の修行にあやかって、年々古峯ヶ原(古峯神社を中心)に登山、深山巴の宿で祈願を込め修行する慣わしとなり、その修行は明治維新に至るまで、千余年の永きに亘って行なわれました。
古峰ヶ原―定期バス古峰ヶ原線-鹿沼、新鹿沼―東武日光線―日光駅(2時間・乗り換え含む)
定期バスは順調に進み鹿沼まで到着したが、JR日光線が車両事故で運休となり、タクシーで新鹿沼に移動し、東武鉄道日光線に乗車、東武日光駅に到着した。
東武日光とJR日光駅は徒歩2分ほどの所にあり、大いに助かった。
ホテルは、JR日光駅の目の前にあった。
朝食の予約をしておいたが、夕飯をどこかで食べることとしていたが、コロナ禍ののなかで、店は休店としており、気の利いた食事処はなく、仕方なしに居酒屋チェーン店に入り済ました。近所を散策しようとしたが、杉林ばかりで散歩どころでなかったために、ホテルへ戻り早く休むこととした。
ホテルは古いがどこか高級感がある。部屋の中はビジネスホテルとして予約をしてあったため、ベッドはWベッドでよかったが、部屋は狭く感じた。
次の日、朝早くから準備を始め朝食に、階下のレストランであったが、意外というより大変豪華で、きれいなバイキングが用意されており、驚き、堪能した。
日光駅前―定期バスー神橋
東武鉄道日光駅前から、定期バスに乗り、大猷院・二荒山神社前まで行く予定であったが、コロナ下で参拝客が少ないために、盤裂神社神橋前で下車させられた。その停留所から、天海僧正像、板垣退助像を見学、赤く塗られた木造の橋「神橋」を見学した。商店の前に駕籠が電話ボックスになっている珍しいものを発見した。

大谷川を渡り、石段を登り右側に歩いてゆくと、湯葉料理、創作料理、喫茶のお店がいくつかあったが昼には早いために通り過ぎ、道を間違えていることに気づき、元に戻ることとしたが、おかげをもって四本龍寺に参拝することができたが、寺は十分な手が入っていないようだ。
四本龍寺は現在存在しない寺であり、大谷川を渡った勝道上人が東の空に紫雲が立ち昇るのを見て、この地に草庵を建て、この時が日光開山(西暦766年)とされ、この草庵が『紫雲立寺』後の四本龍寺です。その後西暦807年に下野国司・橘利遠によって観音堂が建立され、本尊の千手観世音が安置されました。三重塔は西暦1241に建てられ、一度焼けて失われましたが西暦1713年再び建てられたといわれている。








四本龍寺を見学し、唯心院と御旅所の間の道を進み、輪王寺三仏堂の前を通り表参道へ出た。
輪王寺1200年以上前に日光開山の祖である勝道上人が四本龍寺を建立したのが始まりで、天台宗三本山の一つで日光山全体を統合していた。

三仏堂
輪王寺の本堂は日光山随一、東日本では最も大きな木造の建物で、平安時代に創建された、全国でも数少ない天台密教形式のお堂で、現在の建物は、正保2(1645)年、徳川三代将軍「家光」公によって建て替えられた。 三仏堂の前には、推定樹齢500年という、天然記念物に指定されている「金剛桜」が植えられている。三仏堂の内陣には、日光三所権現本地仏(千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音)三体の大仏(高さ7.5メートル)と、東照三所権現本地仏(薬師如来・阿弥陀如来・釈迦如来)、二組の三尊仏が御本尊がお祀りされている。
これらを見学参拝する。
大きさに圧倒され、素晴らしさに感動する。修理をしたばかりの為金色に輝く姿は極楽そのものではないかと思える。
その後表参道を通り東照宮へと進む。
日光東照宮は、徳川家康を神格化した東照大権現をまつる神社で、左甚五郎の作品、眠り猫、三猿、創造の像などが飾られ、陽明門を時間をかけて観察した。陽


その後表参道を通り東照宮で、左甚五郎の作品などを見学したが、子供たちの見学者が多く、早々に切り上げ、二荒山神社へと進んだ。
日光二荒山神社
日光の氏神様であり、境内は団体山山頂奥宮、中禅寺湖畔の中宮祠、市内にある本社からなる。入り口には大きな石の鳥居がそびえている。その根元には右に大黒様、左に打ち出の小づちが置かれている。

下新道と西参道の交差点の先に常行堂がある。
戻り二荒山神社に向かい、階段を登る。
勝道上人が創建した神社。東照宮造営以前は、二荒山信仰により山中の中心となっていた。
ご神体は二荒山(現在の男体山)。
縁結びの神「大己貴命」(おおなむちのみこと)を主祭神として祀り、現在は、福の神、縁結びの大黒様を祭っている。
良縁・開運祈願スポットとしても人気だ。山門の手前に杉の大株の途中に他の木が生えている(多分、枝が枯れ残ったフシの中に種が入り、発芽、成長したものと思われる。
いずれにしても奇跡に違いない。)縁結びの御神木がある。
神門で手を合わせ進むと本来は茅でつくられているのだが、篠竹を使い輪にして ある茅野輪・大祓いが置かれている。
八の字に巡り祓いを行い身を清め、参拝殿に向かい、手を合わす。
境内神苑の中を見学する。入り口にライオンの狛犬が置かれていたのには驚かされた。



拝殿の裏に回り本殿を見学、朋友神社、大国殿、化灯篭、霊泉、日枝神社、神輿舎など末社、名所などを巡る。


本殿の様子。中には入ることができず、外から写真撮影。
大国殿 入り口右側には、垂仁天皇の命で、不老不死の薬を見つけ、不老不死の霊菓・非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を持ち帰ったと伝えられる田道間守(たじまもり)の石像が置かれている。
仏教の神で七福神としてもまつられる大黒天と農業・商業・医療の神の大己貴命(おおなむちのみこと)が合体したもので、正面に祀られている。
大国殿では、「打ち出の小づち」を振り、願い事を祈願する。
内部には、二荒山神社に伝わる宝刀(太刀)(太郎丸)が展示されている。
素晴らしく大きな太刀で見事なものである。
中には大黒様が収められ、奉納美術品が並ぶ。
残念ながら、工事のために社が隠れてしまっていた。


朋友神社
「朋友」は、「みとも」と読むのは「御伴(みとも)」から由来し、特に尊い神に付き従う神を言う。
小名彦名命(すくなひこなのみこと)を御祭神とし、神話では大国主命を助け国づくりを行った。
大変体の小さな神様で、「学問」「知恵」のご利益があり、「酒の神」「医療の神」「薬の神」と言われそのご利益は大きく、「生涯の良き友(伴侶)を得られる神様である。


日光火山の清冽な伏流水が湧き出す日光山内、日光二荒山神社の神苑にある二荒霊泉は、本殿背後にある恒霊山(こうれいざん)から湧き出す「薬師の霊泉」と、別宮・滝尾神社に湧く「酒の泉」の2つの泉が引き込んだもの。
「薬師の霊泉」は、眼病に効能ありという言い伝えがあり、「酒の泉」は、酒造業者が仕込み水の種水に利用する水です。
2つの泉を合流させた二荒霊泉は、若返りの泉といわれる。

日枝神社
二荒山神社神苑内にある神社で、天台宗による日光山の神仏習合の歴史を今に伝えるのがこの日枝神社で、祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)で、日光二荒山神社では「山と健康の神」として祀られ、御朱印にも健康守護と記される。


日光山大猷院


日光山大猷院とは徳川三代将軍「家光公」の廟所(びょうしょ)徳川3代将軍家光公の廟所。
世界遺産に登録された22件の国宝や重要文化財、林立する315基の灯籠が境内に佇む。
入口「仁王門」から家光公墓所の入口にあたる「皇嘉門(こうかもん)」まで、意匠の異なる大小の門で立体的に境内が仕切られており、門をくぐるたびに違った景色を楽しめるとあるが、参拝・見学はしないこととし、常行堂の奥の仁王門前の売店で御朱印を買い求めるだけとした。次の機会にはぜひ参拝をしたい。
日光の社寺は1999年12月に文化遺産に登録され、周囲の自然環境も指定された。
山岳地域なので坂、階段が多く大変疲れたために、タクシー乗り場まで歩き、居合わせたタクシーで日光駅まで乗車し、新幹線で帰途に就いた。
みたけ山講中
野崎地域に御嶽山信仰講中があって、能更新として信仰され、「大口真神様(お犬様)」の御神札が各家に貼られてあった。他の信仰講中と同様に、講元・世話人(講中の中で輪番で決められていたようである)が中心となり、講中から毎年、幾人か選出(毎年交代、希望者、くじに依る所が多い)し、講中の代表で古峯神社に参拝し、御祈祷の御札を受けて、参拝に当らなかった講員に御札を授与する。参拝に関する費用(割り当てもしくは参加者の実費負担、金員でなく米を供出など)や総ての運営をその仲間の人々達で行った。代参者が戻ると講元に講中全員が集まり、参拝に当らなかった講中に御札を授与する。毎年交替で全講員が代参人となった。
候下では、集められたコメなどで粥を焚き、みそ汁に、沢庵などの香の物を添えてふるまった。時には徳の高い者の酒の提供もあったと聞く。そこでは、参拝の土産話や世間話などが花を咲かせたとも言われ、情報交換の良い機会であった。近郊農業の衰退とともに中止された。市内には現在も継承しているところがある。
武州御嶽山信仰
候下では、集められたコメなどで粥を焚き、みそ汁に、沢庵などの香の物を添えてふるまった。時には徳の高い者の酒の提供もあったと聞く。そこでは、参拝の土産話や世間話などが花を咲かせたとも言われ、情報交換の良い機会であった。近郊農業の衰退とともに中止された。市内には現在も継承しているところがある。
本書は、御師とともに現地で修行生活を実践した著者が、講集団をキーワードにして、山岳信仰と地域社会の関係を、歴史民俗学的に研究した成果である。
前著『武州御嶽山信仰史の研究』(名著出版 1983)に、その後の調査を付加し、論文構成 や文章表現に大幅な修正を加えて刊行。多摩川の源流に位置することから水を司る農耕神として河川流域の農家から信仰され、また江戸期には「大口真神様(おいぬ様)」の御神札が広く信仰を集めたことから特に活動が盛んであった。
武蔵御嶽神社公式サイトより引用 国主命)、少彦名命(すくなひこなのみこと)が祀られています。
神社創建は崇神天皇7年(紀元前91年)、武渟川別命(たけ神占の神である櫛真智命(くしまちのみこし)、国土豊饒の神の大己貴命(おおなむちのみこと=のちの大ぬなかわわけのみこと)が東方十二道(東海道)に赴き、大和朝廷の敵対勢力を討った際、大己貴命、少彦名命を祀ったのがはじまりとされています。
鎌倉時代には、有力な武将達の信仰を集め、金峰山御嶽蔵王権現と称され、厄除・延命・長寿・子孫繁栄を願う多くの人達の参拝によって栄えました。
その後、度重なる兵火で荒廃するものの、文暦元年(1234年)、大中臣国兼が蔵王権現を鋳造・奉載し神殿を再興。
御神徳の発揚に努め、再び繁栄しました。
明治7年(1874年)、神仏分離のため社号が御嶽神社と改められ、さらに武蔵御嶽神社と改め現在に至ります。
宝物殿 日本三大鎧の一つとされる国宝、赤糸縅大鎧(あかいとおどしのおおよろい)が展示されています。 この鎧は、特に信仰の厚かった武将・畠山重忠の奉納であると言われています。この他、有力な武将達の鎧、太刀、鞍など、多くの重要文化財が並びます。
入口には、鎌倉時代の武将畠山重忠公の馬上像があります。
この像も社殿前の狛犬と同じ、北村西望の作品です。
おいぬ様
末社の盗難除け・魔除けの神「大口真神」は、江戸の昔から「おいぬ様」として親しまれ、広く信仰されてきました。
この「おいぬ様」は、犬ではなく日本狼のこと。
今は絶滅したといわれていますが、御岳山でも一昔前まで、畑を荒らす害獣を食べてくれるありがたい存在として、狼たちと共存していました。
狼が守り神となった由来が日本書紀に記されていて、御岳山では次のように伝えられています。
日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際、御岳山から西北に進もうとした時のこと。
大きな白鹿に道をふさがれた尊は困り果て、占いをしたところ、鹿が山鬼であることを知る。
山蛭を目に投げつけて退治するものの、大鹿が放った深い妖霧に道を見失ってしまう。
そこへ忽然と現れた白狼が、西北へ尊の軍を導いた。
尊は白い狼に、山に留まって火災盗難を防ぐよう命じた。 その後、大口眞神(おおくちまがみ)として、御岳山の魔物退治を仰せつかったとされています。以来、魔除け、火難除けの神として「おいぬ様」の霊験の信仰が始まり、現在では、「社頭で愛犬祈願を行うようになり、愛犬の健康を願う人々で賑わっています。
本殿の狛犬は江戸時代のブロンズ製で、天明3(1783)年の作と記されています。
お社の守りを固める狛犬といえば、唐獅子で阿吽の対になっているものが多いですが、こちらはニホンオオカミを象った狛犬です。
社殿前の威厳のある狛犬は、長崎の平和祈念像の作者でもある北村西望の作品で、昭和60(1985)年に奉納されました。
「おいぬ様」のお札は、信仰の拡大にともなって江戸時代の天保の頃から広まりました。
お札の「おいぬ様」の目に三日月がかたどられているのは、日本三御嶽を「雪月花」に例え、武蔵御嶽神社は「月」とされたからです。
他の二社は、木曽の「御嶽神社(おんたけじんじゃ)」の「雪」、甲府の金峰山の「金櫻神社(かなざくらじんじゃ)」の「花」です。
山岳信仰と地域社会:上(御岳山信仰を研究、成果を発表、御岳山信仰の講中を研究)西海 賢二 著(東京家政学院大学教授/1951年生まれ)2008年5月刊




成田山
野崎に成田講中が組織されていたが時代の変遷とともに参加者が減少し、現在は行われていない。
成田山新勝寺の不動明王の信仰は、深大寺内に不動堂があり、明治17年再建の堂宇で、本尊の不動明王ならびに二童子像は、幕末の深大寺炎上の際にその難を逃れ、 以来深大寺の仮本堂に安置されていたことが深大寺所蔵の『不動堂再建願』なる文書の記載から判明し、幕末の頃より不動堂には独自の信徒講中が組織されていたようで、堂宇の再建も信徒の力によるところが大きかったようです。
不動堂境域には、東京都の名湧水57選にも入る「不動の滝」があり、毎月28日には深大寺僧侶によって不動護摩供が修されます。
このような縁から講中が組織され、不動明王は、真言密教の最高仏と位置づけられる大日如来の成り代わった御姿です。
お不動さまは、私たちの心の迷い・煩悩を取り除き、全ての人を救うため、忿怒のお顔を示されている。
右手の利剣は「悟りの智慧」を象徴し、心の迷いを断ち切り、左手に持つ羂索の縄で、煩悩を縛って封じ、正しい教えの道へと導く教えを信仰していたものと考えられ、明治維新以降、新勝寺はお札を通じて、戦時下の人々の精神的な助けとなり、「身代わり札」は「鉄砲玉から身を守る札」として日清戦争当時から軍人らに深く信仰されていたことが、信仰の対象となり継続されたものと考えられる。
成田山新勝寺の縁起は、平安時代中期、東国で起こった平将門の乱に始まる。
朝廷は追討軍を差し向けると同時に将門調伏の祈願を大寺社や密教僧に命じた。
天慶2年(939年)、寛朝僧正も朱雀天皇の密勅を受けた。寛朝は、京の高雄山(神護寺)護摩堂に安置されていた空海作の不動明王像を奉じて総国へ下ることとし、明くる天慶3年(940年)、難波津から海路で上総国に至り尾垂浜に上陸。
陸路で下総国公津ヶ原へ入り、この地にて朝敵調伏を旨とする不動護摩供を奉修した。
寛朝が帰京しようとしても不動明王像が動こうとしないとの報せを聞き、公津ヶ原にて東国鎮護の霊場を拓くべきとの考えのもと、寛朝に開山せしめ、神護新勝寺の寺号を下賜したという。
この時、朱雀天皇から「天国宝剣」を下賜されたとされる。 成田山はその後、源頼義、源頼朝、千葉常胤、徳川将軍家や水戸藩主徳川光圀といった関東有力武将の崇敬を受けた。
永禄年間(永禄9年〈1566年頃〉と考えられるが未詳)に成田村一七軒党代表の名主が不動明王像を背負って遷座し、伽藍が建立された場所が、現在の成田市並木町にある「不動塚」周辺と伝えられ、成田山発祥の地と言われている。
その後、新勝寺は戦国期の混乱の中で荒廃し、江戸時代までは寂れ寺となっていた。
江戸時代に入って世情が落ち着くと伽藍が再建・整備され、江戸に近いことから参詣者が増えるとともに、江戸で成田不動の出開帳が度々行われた。
歌舞伎役者の初代市川團十郎が成田不動に帰依して「成田屋」の屋号を名乗り、不動明王が登場する芝居を打ったことなどもあいまって、成田不動は庶民の信仰を集め、成田参詣が盛んとなる。
明治維新以降、新勝寺はお札を通じて、戦時下の人々の精神的な助けとなった。
当寺の「身代わり札」は「鉄砲玉から身を守る札」として日清戦争当時から軍人らに深く信仰されていた。
本尊として安置されている不動明王及二童子像は、1964年(昭和39年)5月26日に国の重要文化財に指定された。鎌倉時代後期(13世紀~14世紀)の製作とされる。
2007年(平成19年)11月28日、着工から3年8か月をかけたケヤキ造りの総門(高さ15m, 桁行14m, 梁行8m)が完成。
成田山新勝寺の御本尊不動明王は、真言宗の開祖、弘法大師空海が自ら一刀三礼(ひと彫りごとに三度礼拝する)の祈りをこめて敬刻開眼された御尊像です。
成田山では、この霊験あらたかな御本尊不動明王の御加護で、千年以上もの間、御護摩の火を絶やすことなく、皆さまの心願成就を祈願してきました。
御護摩では、お不動さまの御力と僧侶の祈り、そして皆さまの祈りが一体となり清浄な願いとなって現れます。
現在も、「成田山のお不動さま」として数多くの人びとの信仰を集めています。
当山の御本尊不動明王は、真言密教の最高仏と位置づけられる大日如来の成り代わった御姿です。
お不動さまは、私たちの心の迷い・煩悩を取り除き、全ての人を救うため、忿怒のお顔を示されています。
また、ご奉仕をする心の大切さを私たちに教えるため、奴僕の姿になっています。右手に握っておられる利剣は「悟りの智慧」を象徴し、心の迷いを断ち切ってくださいます。
そして左手に持っておられる羂索の縄で、煩悩を縛って封じ、正しい教えの道へと導いてくださいます。
お不動さまがお座りになる磐石は、全ての人を救うため、あらゆる苦難に耐える決意を表しています。
お不動さまの広大無辺の慈悲に感謝して、日々お祈りしましょう。
お不動さまは忿怒の表情で、全ての人を救おうとされます。 ① 右手には心のあらゆる迷いを断ち切る利剣を握っています。
② 左手には物事を正しい方へ導くための羂索という縄を持っています。
③ お不動さまがお座りになっている磐石という大きな岩は、堅固な御心を表しています。
④ お不動さまは、あらゆる障害を焼き尽くす火焔を背負っています。
成田山ホームページより引用
弘法大師空海が一刀三礼の祈りをこめ、自ら敬刻開眼された不動明王


人々の一切の煩悩と迷いを断ち、すべての人を救うお不動さまのお姿

大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)は、神奈川県伊勢原市の大山(別名: 雨降山〈あふりやま〉)にある神社である。
「阿武利」とも表記し、「あぶり」とも読む。延長5年(927年)の『延喜式神名帳』に記載されている相模国の延喜式内社十三社の内の一社(小社)で、旧社格では県社に列している(現・神社本庁の別表神社)。
大山の山頂に鎮座する本社(奥社・前社含む)と中腹に鎮座する下社があり、下社までは大山ケーブルカーでアクセス可能である。
本社に大山祇大神(オオヤマツミ)、摂社の奥社に大雷神(オオイカツチ)、前社に高龗神(タカオカミ)を祀る。江戸期以前の神仏習合時代には、本社には本来の祭神である石尊大権現(山頂で霊石が祀られていたことからこう呼ばれた)が祀られていた。
また摂社では、奥社に大天狗、前社に小天狗が祀られていた。
大山は古くから山岳信仰の対象として知られ、山頂からは祭祀に使われたとされる縄文土器が発掘されるなどしている。
大山は山上によく雲や霧が生じて雨を降らすことが多いとされたことから、「あめふり山」とも呼ばれ、雨乞いの対象としても知られていた。
大山阿夫利神社は、社伝によると崇神天皇の御代に創建されたとされる。
延長5年(927年)の『延喜式神名帳』では「阿夫利神社」と記載され、小社に列している。天平勝宝4年(西暦752年)、良弁により神宮寺として雨降山大山寺が建立され、本尊として不動明王が祀られた。
以後、神仏習合が続く。
中世以降は大山寺を拠点とする修験道(大山修験)が盛んになり、源頼朝を始め、北条氏・徳川氏など、武家の崇敬を受けた。
江戸時代には当社に参詣する講(大山講)が関東各地に組織され、多くの庶民が参詣した。
大山詣は6月27日から7月17日まで期間に行われる女人禁制の参詣で、特に鳶や職人の間で人気があった。
大山に2つある瀧・良辧瀧と大瀧で水垢離し、頂上の石尊大権現に登り、持ってきた木太刀を神前に納め、改めて授けられた木太刀を護符として持ち帰った。
また、大山祇大神は、富士山に鎮まるとされる木花咲耶姫の父であるため、大山と富士山の「両詣り」も盛んとなり、「富士に登らば大山に登るべし、大山に登らば富士に登るべし」といわれた。
なお、一部の地域には、大山に登ると一人前として認められるという伝承があり、大山の神霊が立身出世の神とされていたことがうかがえる。
明治時代になると神仏分離令を機に「石尊大権現・大山寺」の名称は使われなくなり、旧来の「阿夫利神社」に再び改称された。
その後、大山寺はかつての女坂途中に場所を移して再建され、現在に至る。
明治6年(1873年)には国学者の権田直助を祠官に迎え県社兼郷社に列格している。
戦後、神社本庁には属さず、昭和27年(1952年)8月より阿夫利神社本庁として単独で運営されてきたが、近年、神社本庁の傘下に入った(阿夫利神社本庁も存続)。
大山(関東総鎮護大山阿夫利神社公式HPより引用)
榛名山
延喜式延長5年(927年)記録『神名帳』があり、上野国十二社の群馬郡小社として位置づけられ、「式内社」と呼ばれ、格式の高い神社と位置付けられている。
その他十世紀から十二世紀にかけて著された『三宝絵詞』『上野国交替実録帳』『僧妙達蘇生注記』などからも当時の榛名神社の様子がうかがえます。
近年、榛名神社境内で小金銅仏(地蔵菩薩立像)、寛平大宝(皇朝十二銭の一つ)、錫杖頭部、鉄釘、鉄鏃、甕、坏などの破片(土師器、須恵器など)等の遺物 が採集され、建物の礎石も確認されたことから、この遺跡は寺院跡であると考えられている。
中世の榛名神社
中世の榛名神社の動向は榛名山邨誌と頼印大僧正行状絵詞の両書によって知ることができます。
記録によれば、快良が承元四年(1210年)初代座主になり、関白道長の子孫が代々受け継いだと記されている。
座主が一山を支配し、南北朝の動乱に連動した榛名山座主職をめぐる抗争により頼印が応安四年(1371年)座主になっています。
戦国時代には座主職も置かれず、衰微の一途をたどっていたようです。
近世の榛名神社
近世に入り天海僧正の手により榛名山は復興され、慶長十九年(1614年)「上野国天台宗榛名山巌殿寺法度之事」が出され、以降、寛永寺の支配を受けるようになり、寛永寺末の中里見光明寺が学頭、榛名山満行院が別当に任命されました。後には両職とも光明寺が兼務となり、榛名山光明寺などと書かれることもあった。
学頭や別当が赴任する場所を「別当所」といい、榛名山の信仰と政治の中心であり、学頭や別当に は一山を支配する権限が与えられていたようです。
御師とは、御祈祷師の略称であり、崇敬者のために祈祷やお札を授与する人のことをい い、それぞれ宿坊を営んでいました。史料では天正八年(1580年)の文書に榛名山御師光吉の名があり、すでに御師の立場が確立されていたことがうかがえ ます。
神仏分離と榛名神社(近代)
慶応四年(1868年)三月、神仏分離令が出され、榛名神社の神仏分離の動きがあわた だしくなり、榛名神社として復活することになりました。
明治三年(1870年)五月十日、榛名神社から仏教色は一掃され、神仏分離令に引き続き、明治五年(1872年)修験宗廃止令により、呪術、祈祷が禁止され、明治七年、配札勧財取締の通達により、檀那場に配札して生活の 糧を得ていた各御師は、収入源を大幅に閉ざされました。また、別当所中心の支配構造がくずれ、求心力を失っていた榛名神社を立て直すために、「榛名神社教会」を開設、明治十四年一月十一日認可され、教会は設立されました。昭和二十七年(1952年)に宗教法人「神道大教榛名大教会」と改称され、宿 坊も講社と称して祭儀行事を行うとともに、榛名講の村々との結びつきを維持し、配札や祈祷など崇敬者の教化育成に努めています。
榛名講
榛名神社の辻札や祈祷札、午王札、嵐除、虫除、筒粥の札などを受けに毎年榛名神社を訪れる村々の講中のことで、現在でも関東一円にその広がりを持っています。
村々からは、講中全員が毎年参詣しているわけではなく、二、三人の者が代表として選ばれ参詣するのです。このことを代参講と呼んでいます。
代参 講の村で全員の登拝が完了すると、それを記念して神楽を奏上するところもあり、特に太々講と呼んでいます。
講組織には雨乞講もあり、榛名神社の「御神水」の入った竹筒を神前に供えて請雨の御祈祷をし、その御神水を村に持ち帰り、雨乞の行事を行います。
榛名神社の雨乞は非常に効力があったといいます。
榛名神社の起源(榛名山ホームページより引用)
富士山と富士講
景行天皇40年(西暦110年)、日本武尊ご東征の折、足柄の坂本(相模国)より酒折宮(甲斐国)へ向かう途中で当地「大塚丘」にお立ち寄りになられ、そこから富士の神霊を親しく仰ぎ拝され「北方に美しく広がる裾野をもつ富士は、この地より拝すべし」と仰せになりました。
よって大鳥居が建てられ、大塚丘に浅間大神と日本武尊をお祀りし、当社の創建となりました。
天応元年(781)、富士山の噴火があり、甲斐国主の紀豊庭朝臣が卜占し、延暦7年(788)、大塚丘の北方に社殿を建立しました。
これが現在社殿のある地で、ここに浅間大神をおうつしし、大塚丘には日本武尊をお祀りしました。
古代、富士のような高い山、美しい山は神のおわす山として人が入ることは禁忌でした。
よって当地は、ご神体の富士山を遥かに拝み祭祀を行う場でありました。現在拝殿を囲んでいる巨木はその神域を物語っています。
中でも大きな団体であった村上講の村上光清師は、藤原角行師の6世の弟子にあたり、享保18年から元文3年までの6年間(1733~1738)で、境内社殿の大造営を行いました。現存する社殿と境内構成のほとんどはこの時に定まり、廃仏毀釈により損失しつつも噴火の被害は受けずに、現在もなお当時のままの荘厳な趣を伝えています。
主な社殿は、仁和3年(887)より、藤原当興、北条(左京太夫)義時、武田信玄、浅野(左衛門佐)氏重、鳥居(土佐守)成次、秋元(越中守)富朝、秋元(摂津守・但馬守)喬朝、らによって造営が重ねられました。
貞応2年(1233)北条義時造営ののち、永禄4年(1561)に武田信玄が再建した社殿が現存する中では最も古く、「東宮本殿」として現本殿の東側に、また、文禄3年(1594)浅野氏重殿造営の社殿は「西宮本殿」として現本殿の西側におうつしされています。
現在の本殿は、元和元年(1615)鳥居土佐守成次殿の創建で、いずれも国指定重要文化財です。
浅間神社の御祭神
木花開耶姫命(このはなさくやひめ) 主な御神徳は安産・火防、富士山の女神。大変美しい女神であったため、天孫・瓊瓊杵尊の妻となり、猛火の中で3柱の皇子をご安産なされた故事があります。
芸能の神、酒造の神、養蚕の神としても信仰を集めてきました。
その全てにはムスビ(産霊)の御力が通じており、モノを生み出す神であるといえます。
また、水を司る神であり、転じて交通や流通の神でもあります。
彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと) 天照皇大神の孫神様で、天孫降臨をなされ、木花開耶姫命を娶られました。
三種の神器を現世にもたらしました。
神武天皇の曾祖父神様で、昔話で名高い海幸彦・山幸彦の父神様です。
姫神様と強い絆で結ばれた夫婦神として、夫婦和合・夫婦円満の霊験あらたかです。
大山祇神(おおやまずみのかみ)
木花開耶姫命の父神様。
全ての山の神様。
姫神様のご夫婦と共にお祀りされ、家族の円満を守り導いて下さいます。
あらゆるものを生み出す神霊をいい、「産(むす)霊(ひ)、産(む)巣(す)日(ひ)、魂(むすひ)、産(むす)日(ひ)、産(むす)魂(ひ)」とも表記されます。
「ムス」は生成発展する意、「ヒ」は霊または神秘的なはたらきを意味し、「ムスヒ」とは「天地・万物を生成発展させる霊的なはたらき」を意味します。
「ムスヒ」の観念は幅広く、神道においては「神々の生成をはじめ万物の生成発展にかかわる重要な概念」とされています。
また、『古事記』の神話から「衰えようとする魂を奮い立たせるはたらきをもつ」信仰があったことがわかります。
(参考『神道事典』弘文堂、國學院大學日本文化研究所編)
ムスビの神としては、高御産巣日神や出雲の結神らが名高いですが、当社御祭神・コノハナサクヤヒメ様の様々に深き御神徳もまた、この一語によってほぼ表せるといえます。
一、子の生み育て ―――― 子授け、安産、子育て…等
一、関係を生み出す ――― 縁結び、夫婦円満、良縁…等
一、産業を興し増やす ―― 起業、事業繁栄、養蚕…等
一、モノを生み出す ――― 酒造(発酵)、芸術…等
現代日本の一般的日常生活においては忘れられかけている言葉で、ご参拝の方への説明に苦労することもありますが、日本人の心の中には変わらずあり続ける概念なのです。
例えば「結ばれる」という言葉をめでたく尊いことであると感ずる、ごはんを成形したものを「おむすび」という、などが挙げられます。
「おむすび」には命を授かるものとして、お米を尊び、食べることを神聖とする気持ちが込められているのですね。
富士山信仰
古代より崇高な山であった富士山は、神体山(即ち禁足地)であり、麓にて祭祀が行われ、遥かにその御姿の見える場所からも遙拝されてきました。
時代が下り、仏教の伝来を経て、また修験道などの影響を強く受け、修行を通して超自然的な験力を得ることを目的に、室町時代には庶民の間でも信仰登山が盛んになっていきました。
近世には江戸を中心に各地域で「富士山信仰のための講 ~富士講~」が成立しました。
江戸時代、富士講はこう言われるほど爆発的な興隆を見せ、関東・中部をはじめ、東北や近畿・中国地方など全国に広がり、各地に浅間神社が祀られ、また富士塚が築かれるようになりました。
こうして本来禁足地であった富士山は、修験者の修行の山となり、やがて身近な信仰として一般の人々も参詣するようになり、信仰の霊山・聖地を訪れるために人々ははるばると旅をしました。
御師は、宿舎の提供だけでなく、教義の指導や祈祷、各種取次業務を行うなど、富士信仰の全般に亘って世話をする存在でした。御師町は、富士山の雪代や噴火の被害による移転もありましたが、現在の上吉田に整備され、入口・境界を示す「金(かな)鳥居(どりい)」が立てられました。(現、富士山駅東側)
富士講は、かつての栄華に比べてか細くなってしまったものの、今もなお古の教えを継承し、縁の祭典の折にはお焚上や塩加持等の神事、また夏期には登拝行事が行われています。
この数年富士登山者が増加していることや、国内はもとより外国からも富士に心を寄せる様を見ても、日本の象徴たる富士への信仰の念は現代においても少しも色褪せてはいないと言えます。
富士講の開祖とされる長谷川角行(藤原角行:1541.1.15~1646.6.3)は戦国時代に現れて、富士の人穴(富士宮市)や北口本宮参道の立行石等で荒行を重ねて法力を得、祈祷の力により諸病平癒などで庶民を救済しました。
「富士は世界の鎮守」、「天地の始、国土の柱、天下参国治、大行之本也」!! として、富士信仰の心を士農工商の隔てなくあらゆる人に広めることとなりました。
若き長谷川角行は、父の遺志を継いで救世済民の志を立て、覚行と名乗って修験の道に入り、岩窟で修行中、霊夢に現れた役行者の教示により富士山麓で苦行を重ね、大行を成就しました。
名を角行と改め、藤仏と名乗り、元亀3年(1572)に初めての富士登山を北口(吉田口)から行いました。
元和6年(1620)江戸に「ツキタオシ」という奇病が流行し、3日で1千人の死者を出す中で、角行師はフセギという御符を授け祈祷の力によって多くの患者の命を救いました。
このことから江戸の多くの人々に富士信仰の心が広まったといわれています。
生涯に成就した苦行は、不眠の大行18800日、断食300日、富士登山128回、御中道33回である。
他に約14cm角の柱や岩の上に爪立ちする難行や、諸国遍歴修行の旅、二荒山の湖水や内八海・外八海、人穴での修行を行っています。
他に、「風先侎(ふせぎ)」という護符を配布し、「御身抜 (おみぬき)」という軸装巻物を信徒に与え、神示によって360の文字を造り、護符や書物を著しました。「近の藤の御文」「御腺の御文」「躰堅めの御文」等は富士講の根本教義をなす聖典として、現在もなお重んじられています。
法脈は渓旺(日旺)に伝えられ、日旺の弟子となる旺心は三世、四世月旺と続き、月旺には月心と月行の弟子があり、月心は形を伝える正統派、月行は心を伝える別流(別立)と呼ばれ、二派に分かれました。
正統の五世月心の子の光清が六世を継ぎ、村上講(藤の丸講)として最盛期を迎えます。
この村上光清氏が当社の大修復工事を行いました。仁王門や鐘楼堂は明治に撤去されましたが、幣拝殿、神楽殿、随神門、手水舎、摂末社など現存の社殿および配置はこの時のものです。
江戸の技光る荘厳優美な建築からも、元文4年に大岡越前守に御褒賞を賜るほどの大事業であったことが推察できます。
(元文5年(1740)に完工)
正統派・村上講はこの後、十七代善道と続きましたが枝講を許さなかったため漸次衰え、昭和に至って講伝来の御身抜や宝物を上吉田の和光氏に譲り、東京の講は消滅しました。
月行は、正統の法派を継いだ。
伊勢国出身で、日本橋白銀町で煙草屋を営みながら修業に励む途次、若く実直な伊藤身禄に出会い、熱心に富士信仰の道を説きました。
深く感銘を受けた身禄は、月行の弟子となり行商で身をたてつつ信仰を深めていきました。
やがて身禄は元来の勤勉実直さにより莫大な資産を築きましたが、60才の時、全財産を残らず使用人に分かち与え、自身は行商人に戻り、妻子とともに質素な暮らしを始めました。
当時華やかな正統派の「大名光清」に対して「乞食身禄」とまで言われながらも三著といわれる「一字不説の巻」・「御添書の巻」・「お決定の巻」を著し、四民平等・男女平等・勤勉力行・諸事倹約等、道徳規範を中心に富士信仰を説きました。
しかし、人の心を掴むには、飛ぶ鳥を落とす勢いの正統派には及ばず、体力の衰えを感じた身禄は、ついに富士山中への入定を果たします。吉田口七合五勺の烏帽子岩の岩窟で、
富士の雪水を飲むだけの断食瞑想、入定するまでの31日間に身禄が口述した仙元の神示教訓が「三十一日の巻」として記録されました。
これがのちに富士講最高の経典となるもので、身を捨て命を捧げて示した不滅の教訓として大反響を呼び、元祖食行身禄と称えられ、「講」の形態をとる富士講の興りとなって「身禄講に非ざれば富士講に非ず」とさえ言われるまでになりました。
食行身禄の娘の流れから丸嘉講、丸参講が起こり、その後に丸鳩講、不二道孝心講、その一派に実行教、更に一山講、永田講、丸藤講、山吉講、山真講など、身禄の縁者、直弟子孫弟子により続々と富士講が組織されていきました。
浅間神社(北口浅間神社ホームページより引用)