旧甲州街道社寺

金山彦神社

東京都調布市下石原にある入り口は2間ほどで(神社維持のために境内にマンションを建設されたものと思われる。)、細い参道があり、石の鳥居をくぐると、本殿を隠してしまいそうな御神木があり、右側に社務所(マンションに一室)がある。

その奥に上屋のかけられた祠がある。本殿前には狛犬があり、本殿は小さいながらも確りとした造りとなっている。さらに南に行くと下記の古木がある。

御祭神は、日本神話の神様である金山彦命(かねやまひこのみこと)で、鉄の神様や刃の神様。鍛冶屋や金工職人、金物商など鉄に深く関わる職の神様である。

創建は江戸時代の初期で、具体的な経緯などは不明だが、その時期に刀鍛冶により創建されたといわれている。

現地説明板には、金山彦神社

由緒 江戸時代の初期・慶長(一六〇〇)の頃より刀鍛冶に従事祭神 金山彦命(かなやまひこのみこと)ー鉄の神ー

祭典 毎月八日に月次祭・十二月八日に例祭(みかん祭)・六月三十日に芽の輪くぐり・十二月三十一日に大被式 他に厄除・方災除去・交通安全・地鎮祭など諸祭を受付け奉仕

(説明版には、近藤勇新撰組 馬止めの地と添え書きされている。新宿を出立した一行八十四名は、明治元年三月一日午の刻、下記の木の元で隊列を整え、出身地上石原に寄り、府中宿に宿泊)

神向山華光院 常演寺

中興上人を良賢という。

当山の山号を神向山と称するは、旧甲州街道をへだてて八幡神社と正対する由。

古来より仁王護摩供を伝え仁王像は田比首羯摩作である。

又、天台高声念仏の祖、但唱上人ゆかりの寺で境内に上人供養塔がある。

又当山は元深大寺末寺のひとつで武蔵国司蔵宗の乱の時深大寺とともに逆賊降伏の修法の念仏道場としてさかえた。

又、当寺院は元来旧鎌倉街道辺にあったのを三代将軍の頃、甲州街道が出来ると同時に移転された。多摩川33ケ所観音霊場の内17番札所にもなっている。

天台宗東京教区 公式サイト

西光寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、西光寺(さいこうじ)とは東京都調布市上石原にある天台宗の寺院、山名は長谷山聖天院。本尊は阿弥陀如来三尊。三十三応現身像(寺は「観音三十三身像」と表記)。

西光寺の創建年代は不詳、聖天院と號す修験道の寺院だった。

聖天坊応永三十四年(1427年)云々と記載のある書が江戸時代にあったといいます。

慶安年間(1648-1651)には江戸幕府より寺領14石2斗の御朱印状を拝領、辨盛法印(延宝元年1673寂)が寛文年間(1661-1672)に天台宗に改めたと言われる。多摩川三十三ヶ所観音霊場3番、調布七福神の大黒天です。

西光寺の阿修羅身像は本来弓と矢を持つ二臂が空をささえる表現を取っている。

この阿修羅身像は日月を持っているため四臂が空に向かって掌を広げている(残りの二臂は合掌している)。すぐれた表現美のため調布市ホームページではスケッチ画ながらも三十三応現身像の代表として載せている。

なお、西光寺の三十三応現身像は「江戸の彫刻の中でも最高級の彫技がみられる」という。

旗本の長谷川氏が「天下御泰平国土御安全」のために、元禄11年(1698年)に寄進したという。

文化財

  • 仁王門
  • 観音三十三身像(市指定文化財)
  • 木造大日如来坐像(市指定文化財)
  • 鐘楼仁王門(市指定文化財)
  • 西光寺(上石原)

旧甲州街道に面している。

長谷山聖天院と号し天台宗、市内深大寺末である。

<本尊>阿弥陀如来(二尺一寸)。行基作と伝えられる立木像で、左右側立観音勢至。

本寺の開山は明らかでないが、大國魂神社宮司、猿渡家所蔵の『私案抄』に記載されている聖天院供養塔碑文の終わりに、「聖天坊法印、応永三十四年丁酉十月二十日敬白」とあるところから、応永年間(一三九四~一四二八)、聖天坊法印によって建立されたものといわれる。また永正年中(一五〇四~一五二一)法印実海という説もある。

「調布百年史」より、昔は聖天院という修験寺で、真言宗に属していたが寛文(一六六一~一六七三)年間、弁盛法印が現在の天台寺宗に改めた。これより先、慶安(一六四八~一六五二)年間、徳川家光より寺領一四石二斗の御朱印を賜わり、旧幕時代は境内除地九八〇坪の御朱印寺であった。

宝暦(一七五一~一七六四)年間、時の住職恭弁法印の有縁にあたる旗本、長谷川五兵衛尉正明が当地に領地を賜ったとき、四恩報謝のため、堂宇建立を願い、恭弁とともにこれを完成した。

当時は本堂(九間に七間東向)・庫裡・観音堂(本堂の前西向、三間に三間半)・薬師堂(二間に二間半)・楼門・表門・稲荷祠・土蔵などを備え、威容を誇っていたが、惜しくも明治一二年一月一七日、本尊阿弥陀如来、観音勢至の側立十一面観世音、薬師如来の仏像および楼門・表門・土蔵を残し、大部分が焼失してしまった。

このとき残った表門と楼門は修理を加えられ現存(もとは草ぶきであったが、明治二七年鉄板に改造された)している。楼門は北に向かい、二重垂木二手先造りの勾欄つきで、表の左右には金剛力士が置いてある。楼上には径二尺五寸余りの梵鐘があり、朝夕つかれる梵鐘の音は親しまれたもであった。これは享保二年(一七一七)古鐘を改鋳したものといい、銘文があるが省略する。

仮本堂は昭和二二年の新築で、庫裡は類焼の後ただちに建築されたものである。

寺蔵のものには前記の仏像のほか、大聖歓喜天(享和元年-一八〇一-作)、涅槃像大軸(文久二年-一八六二-当山瑞明作)などがあり、境内には六地蔵・庚申塔・小観音堂・板碑(康永・明応・永正など)燈龍などがある。寺に続く墓地には『新編武蔵風土記稿』などにも見える旧家や名家の墓もある。

新編武蔵風土記稿による西光寺の縁起

(上石原宿)西光寺

境内除地、九百八十坪、宿の中程南側にあり、長谷山聖天院と號す、天台宗、郡中深大寺末なり、慶安年中寺領十四石二斗餘の御朱印を賜はれり、客殿九間に七間、本尊は弥陀を安ず。

木の立身にて長二尺一寸、左右観音勢至各立身身長一尺二寸、その作を知らず、當寺の昔は聖天院と號せる修験の寺なりしに、寛文の比辨盛といへる僧、天台宗に改宗せるよし、その示寂は延寳元年十二月八日なりと云、私案抄に聖天坊応永三十四年丁酉十月二十日敬白とありしは、即ちこの聖天院のことなるべし、墓所に古碑三基あれども文字浸洵して讀がたし、古き梵地なる事知らる。

観音堂。

本堂の前西に向ひてあり、三間に三間半、茅葺向拝五尺に九尺、高欄附、長谷山の三字を扁す、佐玄龍が筆なり、十一面観音木の立像にて、たけ一尺八寸、其作傳へず。

薬師堂。

本像の巽の方にて北向にたてり、二間に二間半、茅葺、薬師は木の立像にて長九寸、古色にみゆれども作を傳へず、左右に十二神将を安す、木の立身にて各長五寸許。

稲荷社。

本堂より西南の隅にあり、艮方に向へり、小祠にして覆屋あり、神體白幣なり。

楼門。

表門を距離ること三十歩許にあり、二間に三間北に向ふ、二十垂木二手先造り高欄附、表の方左右には金剛力士を置けり、長各六尺許、楼上に鐘をかく、径り二尺五寸餘、これ近比のものなりと云ふ。

表門。

両柱の間九尺ばかり、北向なり。

新編武蔵風土記稿

調布市内に残る唯一の仁王門で、年代も十八世紀初頭と特定できる貴重な建物である。

正面両脇間に仁王像を安置し、また楼上に銅鐘を釣るので、仁王門でもあり鐘楼門ともいう。寺の記録によると、西光寺中興の大僧都弁雄が宝永年間(一七〇四〜一〇)に建てたと記されており、釣鐘にも弁雄の名前が銘記されているので、この時の再建であることが明らかである。

調布市教育委員会掲示より

境内に近藤勇像が設置されている。

近藤勇は天保五年(一八三四年)武蔵国多磨郡上石原村(現調布市野水一-六)宮川久次郎の三男として生まれ、幼名勝五郎、幼い頃より武芸に親しみ、嘉永元年天然理心流近藤周助に入門、翌二年近藤家の養子となり、文久元年天然理心流宗家四代目を襲名、府中六所宮で襲名披露の野試合を行った。

文久三年、幕府が組織した浪士隊に応募、将軍上洛の警護のため京都に行き会津藩お預かり新撰組を結成、局長として洛中の治安の維持にあたる。中でも元治元年六月浪士達が画策した京都の大惨事を未然に防いだ功績で、幕府と朝廷から恩賞を受けた池田屋事件での活躍はあまりにも有名である。

然しながら世情の移り変わり激しく、慶応三年将軍徳川慶喜は大政を奉還し、翌四年の鳥羽伏見の戦いに敗れたので、傷心のうちに幕艦富士山丸で江戸に帰った。

その年三月、近藤勇は将軍慶喜から許された大名格(若年寄格)として大久保剛と改名、甲陽鎮撫隊を編成し、甲州街道を甲府に向けて出陣した。途中思い出多い故郷上石原では、長棒引戸の駕籠を降り小姓を従えて、遥か氏神様の上石原若宮八幡宮に向かって戦勝を祈願して西光寺境内で休息、門前の名主中村勘六家で歓待をうけたのち、多くの村人に見送られながら出立し村境まで歩いた。天下に知られた英雄がふるさとへ錦を飾ることはできたが、戦況利あらず勝沼の柏尾山の戦いに敗れ慶応四年四月下総流山(千葉県流山市)で大久保大和として西軍に出頭、同月二十五日江戸板橋で刑死、時に僅か三十五歳波瀾万丈の生涯を閉じた。 会津藩主、松平容保は「貫天院殿純忠誠義大居士」の法号を贈りその功績を称えている。

近藤勇座像建立委員会掲示より

大きなお狐様がいる稲荷神社

先日甲州街道淵にあった常夜灯灯篭に諏訪神社と記載がされていたので付近を探索すると、高さ1メートル50センチのお狐様が収められている、お稲荷様を発見した。仔細については解らず。標識や由来起などもないので次の機会に近隣の農家により確認をしたい。

我が家の珍訪問者 狸

午後3時ごろに帰宅すると、西日の陽だまりでうっとりとしているタヌキを発見、近所の皆さんにも知らせ観察していると、皮膚病か、けがの傷がありしきりになめているほかは、尻尾も太く、毛も確りあり綺麗に見えた。

写真を撮るために近づくと、意外に逃げず良い写真を撮らしてもらった。どこに住み着いているかはわからない。

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