世田谷ボロ市(東京都指定無形文化財)へ行く。

ボロ市の始まりは、世田谷城主吉良氏朝の城下町・世田谷新宿に天正六年(一五七八)に楽市(市場税を一切免除し、自由な行商販売を認める)を開設。北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、徳川家康が江戸に幕府を開くと急速に衰え、世田谷城が廃止され、世田谷新宿が城下町としての存在意義がなくなり、楽市はなくなった。

その後伝統は引き継がれ、近郷の農村の需要を満たす農具市(荒物(火鉢・桶・笊等)・履物(下駄・雪駄等)・金物(鋤・釜・鎌・斧・鶴橋)等・空樽・豆類・穀物・古着市・正月用品市として毎年12月15日開かれる歳の市として長く保たれてきている。徳川時代となって農家の作業衣の繕いや草鞋に編み込むボロ布が安く売られるようになったことからがボロ市の名の由来となっている。

農具、日用品などが道の両側に並ぶだけで無く、昭和の初めごろから店もの小屋や芝居小屋までかかり、商品の売買とともに娯楽の場であり、親戚、知人の旧交を温める場となっていた。大正から昭和にかけての出店者数は900件から2000件と増加したが、交通路の整備、交通量の増加により現在は600から700件程度に減少し、以前の農家の為の商品は減少し、玩具、骨董・古道具、漬物、雑貨・装身具、植木類などへと変化している。

学生時代(昭和40年時代)に一度遊びに行ったことがあったが冬至は、20万人もの人出があると言われ、歩くのにもままならず、まだ農家のための雑貨類、正月用品の販売店も多かったが、今日の景色は、雨が降っていたためか人でも多くなく、興味を引く店も少なかった。たまたま目についた御櫃(おひつ)5合のご飯が入れることができる大きさのものを買い求めた。(以前の位置では二宮尊徳の薪を背負い、読書をする像を買い求めた。)名物には、丸餅3個を竹串に通し押しつぶした代官もちが有名。

位置が開かれる沿道に国指定重要文化財代官屋敷がある。大場家が代々大観を務め、明治維新に至るまで235年間引き継ぎ、住居兼役所として使用された。屋敷はかやぶき、寄棟造り、元文2年(1732)に建て直されたもので、役所機能のほか、庭には罪人を取り調べる白州跡がある。何時の日かゆっくりと見学したいものである。

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