令和3年7月18日
天文台を地域資源と捉えた活用の提案
三鷹市議会自由民主クラブ 幹事長 宍戸治重
令和3年度予算概要p70 16 国立天文台と連携したまちづくりの推進(国立天文台連携まちづくり事業費)
天文台との協定の活用について
天文台は、中央線と甲州街道の間に挟まれ、何一つ近代的施設なく、日露戦争後の反動による不況下に電灯もない平凡な純農村としてランプのもとで味気ない生活を送っていた三鷹地方の人々にとっては、天文台という高度の文化施設が来るということは、村の生活に光明と発展を約束するものとして、大変な魅力であり願望であった。
「最高学府の営造物の建設は、独り三鷹村の光栄のみならず、近郷発展の原因なり」と、天文台誘致の請願書を提出し、三鷹村村長箕輪権右衛門を先達として、地元三鷹村はもとより、近隣有志の東奔西走(とうほんせいそう)の努力により誘致は実施することとなった。予定敷地内に、八幡神社・長久寺・民家11軒の移転費が誘致者である地元の責任負担に課せられることとなり、調達は村人より寄付を募り、一世帯当たり5百円合計5500円の移転費用が支払われた。この寄付金の応募者の数は総数339の多きに達し、その大口寄付者は、神代村 浅田為蔵・浅田与三郎、調布町 宮川半助・中村重右衛門・井上平左衛門、武蔵野村 秋元喜七、三鷹村 宮川源七(大沢)・高麗幸太郎(新川)等が名を連ねている。この誘致運動がいかに挙村的な大規模なものであり、また隣接の調布・神代・境等でさえ天文台による発展を期待してことが想像できるが、結果に於いては期待に反するものとなった。待望の天文台の建設はなかなか進捗せず、開館は大正13年となった。敷地内に官舎ができて、付近には商店、住宅一つ建設されず期待した土地の発展は全く見られなかった。
わずかに調布、甲州街道と武蔵堺駅を結ぶ府道(天文台通り)ができたが、これも村の青年の勤労奉仕によるものであった。
村役場にとっても免税地が増加し、何ら村に寄与するところがなく、天文台に努める人々は官舎に入ってしまって村人との交渉なく、まったく別世界の住人であった。
結局村人の大きな期待と願いは全く当てが外れた形となった。(三鷹の歴史より引用)
買収時、国分寺崖線を含まれたことは、緑地の確保、横穴墓群、古墳など、歴史遺産の保存につながったことは、大きな意義があったと考える。また、時代が進み、村人との交渉も進み、近所に定住する人も多くなり、文化的な交流が行われるようになった。天文台は世界的に発展し、研究成果は世界の最先端で行われている。天文台は歴史、文化、人財、まちづくりの三鷹の資源であり、後世に残された先人の遺産であるとも言えます。これからは、当時の誘致運動をした人々の思いや目的を実現する良い機会となると考える。
三鷹の大切な資源を生かした取り組みをする必要があると考えます。
◎天文台の歴史、世界最先端の研究・成果を市民が再認識し、共有し、施設整備に取り組む必要がある。「天文台のあるまち三鷹」を全国、全世界に発信する必要がある。
◎この資源を、産業、商業・工業・教育等に活かす構想を策定すべきであり、三鷹市のまちづくり、市内産業の活性化、駅前再開発や企業誘致、市内産業の活性化等にも活かして取り組む計画の策定が必要だと考えます。
◎この資源の持続可能性を高めるために天文台の森の再生に取り組む必要がある。
天文台の誘致当時は国分寺崖線とその上にあった民家や畑で平坦なところに立地された。
崖線部分は、湧水も多く、横穴墓が存在し、古くからの既存の樹木でおおわれていたものと考えるが、平坦な部分はのちになって植栽、されたものと考えられる。ほぼ落葉樹が多く、薪の切り出しように使われたものと考えられ、現存するものは大変な巨木となっているものもある。
- 天文台構内のタケの伐採(8月に伐採すれば翌年筍は出ないと言われる)と荒廃した天文台の森の再生(クヌギ、子なら、菓子などのドングリを秋に虫害が起こる前、落下と同時に拾い集め、砂にうずめ貯蔵、翌春に種まきを行い、2~3年育苗し、植林を行う)を計画的に行う必要がある。
- 崖線上部は古くから聖地として存在していたものと考えられるが、遺跡の宝庫とも考えられる。遺跡調査、古墳の修復と調査、横穴墓の保存の強化に取り組む必要がある。