撥雲館道場と常喜館

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撥雲館道場と常喜館

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常喜館(牟礼剣柔道場)

明治の始め板橋恒吉氏により開かれた。板橋恒吉氏は田宮流抜刀術を、先代藤右衛門は槍術を習得する。牟礼の高橋佐吉郎は近藤門下に入門、嘉永7年10月近藤秀介より天然理心流の切り紙をもらう。佐吉郎の父三郎兵衛は北辰一刀流の千葉周作に入門した。

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北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)は、江戸時代後期に千葉周作成政(屠龍)が創始した剣術と薙刀術の流派。千葉家家伝の北辰流、北辰夢想流と、小野派一刀流を千葉周作が統合して北辰一刀流が創始された。よって剣術の組太刀(形)は小野派一刀流のものとにている。千葉周作が加えた極意の大目録伝に伝わる口伝術と星王剣(星王とは北極星のこと)に千葉家の北辰信仰の影響がわずかに見られる程度である。竹刀と防具を用いた打ち込み稽古を中心に行い、現代剣道に最も近い古流と評される。騒動で周作自身は名を挙げたが、北辰一刀流は上野から撤退した。周作は江戸に帰り、1822年(文政5年)秋、日本橋品川町に玄武館という道場を建てた(後に神田於玉ヶ池に移転)。

浅草寺に掲額された門人名が6千人を超えるほどとなった玄武館は、練兵館(神道無念流)、士学館(鏡新明智流)とともに幕末江戸三大道場の筆頭に数えられた。また周作の弟・千葉定吉政道の道場も、桶町千葉として名があった。 これまでの剣術がしばしば仏理を併せて学ばせ、神秘性を強調して来たのに対して、玄武館は合理的な剣を解いた。儒者・東条一堂の塾「瑶地塾」の隣にあったので、周作は門弟に瑶地塾で朱子学を学んで合理精神を養うことを奨励したこともあり、北辰一刀流には漢詩に巧みな者が多かった。また、玄武館は天神真楊流柔術開祖・磯正足の道場の斜め向かいにあったので、天神真楊流柔術を併習する者も多かった。お玉が池には佐久間象山の象山塾もあり負けず嫌いな佐久間象山は玄武館と門弟の数を競った。佐久間象山は塚田孔平の道場、虎韜館の道場額も書いている。入門からわずか5年で皆伝を得た海保帆平、玄武館四天王と呼ばれた稲垣定之助、庄司弁吉、森要蔵、塚田孔平(虎韜館)などの高弟を輩出した。幕末の志士では坂本龍馬、毛利荒次郎、清河八郎、新選組では、藤堂平助、山南敬助、伊東甲子太郎、服部武雄、吉村貫一郎らが北辰一刀流を学んだといわれる。また、玄武館は、旗本や各藩からの剣術指導委託も積極的に行ったため、30余りの藩から藩士が集まった。周作及び子の奇蘇太郎、栄次郎、道三郎、多門四郎は水戸藩に仕え、水戸三流の一つとして北辰一刀流を指南した、玄武館四天王が水戸の天狗党を支援したため幕府よりとがめられ玄武館は一時閉館させられた。周作の後は、長男・奇蘇太郎孝胤が肺病で早世していた為、次男・栄次郎成之が継承した。栄次郎は片手上段の構えを得意とし、「千葉の小天狗」と恐れられる天才であったが、彼もまた早世した。その後周作の三男・道三郎光胤が玄武館を継いだが、1872年(明治5年)に没する。四男・多門四郎政胤は小児のとき水戸藩主・徳川斉昭の前で演武し、将来を嘱目されたが、奇蘇太郎と同じく肺病で早世している。道三郎の長男・勝太郎勝胤(「剣法秘訣、北辰一刀流開祖千葉周作作述」を出版)も剣の英才教育を受け実力を発揮したが、眼病のため失明。玄武館は閉鎖された。

1883年(明治16年)、山岡鉄舟ら玄武館旧門弟らの後援により、栄次郎の遺子・周之介之胤が神田錦町に玄武館を再建。1887年(明治20年)からは警視庁撃剣世話掛を務めた。周之介は、1913年(大正2年)没する。その長男の栄一郎は、剣道を行わなかったが、後に『千葉周作遺稿集』を出版した。 剣術道場の門弟が減る中で、小千葉道場も相撲の興行を真似して撃剣興行を行うも、しばらくして明治政府より武士道の武士(もののふ)が芸人まがいの撃剣興行は士道あるまじき行為として禁止させられた。

明治・大正期は北辰一刀流を修めた剣士が残っていたが、大日本武徳会によって竹刀剣術流派が統合されていく中で、北辰一刀流もその多くが現代剣道化していった。平成現在、水戸に伝わった北辰一刀流の道場が茨城に2箇所、東京に1箇所、徳島県に一箇所(吉野川市/寶壽館道場)現存する。また、小樽に伝わった北辰一刀流を継承する道場が東京に1箇所現存している。

田宮流

出典: 日本古武道協会 田宮流居合術ホームページ

田宮流(たみやりゅう)は、居合の始祖と言われる林崎甚助重信(林崎甚助)の五大高弟の一人、田宮重正が開いた居合と剣術の流派。田宮重正は奥州出身の林崎甚助に従い、居合の奥義を会得。当時の柄の平均的な長さよりも三寸程長い長柄の刀を考案、推奨した。重正の息子である田宮長勝は、紀州藩初代藩主徳川頼宣に仕え、田宮流と称して千人以上の弟子に広めた。長勝の後は、平兵衛長家(長勝の嫡男) – 三之助朝成 – 次郎右衛門成道と続き、紀州藩での田宮流は、直系の五代目までを「古田宮流」、養子相続の六代目以降を「紀州田宮流」とも呼ぶ。天保12年(1841年)、旗本の窪田清音が田宮流居合を将軍・徳川家慶に上覧した。安政3年(1856年)に幕府が講武所を開設すると、窪田清音は男谷精一郎と共に頭取に就任、門下生の戸田忠道が剣術師範役、戸田忠昭が剣術教授方に就いている。幕府講武所頭取として当時の武術界大御所であった窪田清音は門人が兵学3000人、武術600人、「剣法略記」など剣術、兵学の専門書を130冊著したことから、田宮流は全国に広まった。*古田宮流

林崎甚助重信→田宮対馬守重正→田宮対馬守長正→田宮兵衛尉長家→田宮三之助朝成→田宮次郎右衛門成道*新田宮流

田宮平兵衛業正→三輪源兵衛→和田平助政勝*窪田派田宮流 

林崎甚助重信→田宮対馬守重正→田宮対馬守長正→田宮兵衛尉長家→田宮三之助朝成→斉木三右衛門清勝→露木伊八郎高寛→塚原十郎左衛門昌勝→平野匠八尚賢→窪田助太郎清音

田宮流は廃藩置県後も多くの地域で伝承されていたが、多くは失伝したと考えられている。紀州田宮流と、窪田派田宮流の真貝忠篤とその息子の真貝寅太郎から教えを受けた者が現存している。

槍術

槍術の初期では、兵法の一科として槍を使用している。代表的なのは新当流で、飯篠盛近により広められている。

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安土桃山時代に入ると槍は薙刀よりも広く普及し始め、槍術も専門流派が出始めた。素槍では無辺流・五坪流・伊岐流・本間流・竹内流、鎌槍の宝蔵院流、鍵槍の内海流・佐分利流、管槍を創始した伊東流などである。江戸時代に入ると槍は武士の家門を表す道具となり、槍術は飛躍的に発達、新流派が勃興した。元和年間から寛文年間にかけて、主な流派が出揃っていった。しかし元禄期以降、槍術は古格を重んじて閉鎖的・守勢的な状況になり、流派を形式を存続させることに主眼が置かれ、独自の技術や新流派の発展は見られなくなった。この時期に剣術と同様に稽古用の防具が製作されたが、実践的な稽古に使うものではなかった。また他流試合も無かった。

明治維新により江戸幕府が倒れると、他の武芸と同じく槍術も打撃を受けたが、その影響は特に深刻であった。武士の名誉の証となっていた槍は、武士の消失とともにその立場を失い、さらに長大な得物が体育実技として不向きで無用の長物とされ、一般に広く普及しなかったのである。また、槍術はその戦闘力の高さから主に上級武士のみが身につけていたため、元々習伝者の数が少なかったと言う理由もある。大日本武徳会にも多数が参加していたが、指導者の高齢化のため槍術中心の流派は、明治から昭和にかけて多くが失伝、断絶した。現代に残ったのは、貫流(尾張貫流)、佐分利流、風傳流、宝蔵院流高田派等のみであった。

ただし、槍術中心ではないものの、槍術を含む総合武術の流派は香取神道流や馬庭念流などが残っている。また槍術は銃剣術に取り入れられた。明治20年(1887年)、日本陸軍は、宝蔵院流や佐分利流などの日本の伝統的な槍術を元にした日本式の銃剣術を制定し、それまで行われていたフランス陸軍式銃剣術を廃した。旧日本軍の銃剣術は、太平洋戦争後に競技武道の銃剣道となり、現在も陸上自衛隊と航空自衛隊において、自衛隊銃剣格闘とともに訓練されている。

稽古方法

稽古は竹刀稽古と組太刀稽古(形稽古)とに大別される。入門者はまず組太刀稽古から始める。一刀流系の流派は基本の構えは星眼(正眼)としているが、北辰一刀流では状況によって自由に構えを変えてよいとしていた。

竹刀稽古

特に右に2回打つ「切り返し」、「掛かり稽古」の訓練をやらせた。周作は竹刀稽古で使う「剣術六拾八手」を編み出しまとめた。この中には現在の剣道で使われる技はほぼ出揃っており、現在の剣道では使われない技も多数含まれている。この様に、彼の剣術指導は、現代剣道に多大な影響を与えた。

組太刀

千葉周作遺稿によると、他の小野派一刀流系の流派と同じく、「一ツ勝」から始まる太刀の組太刀43本(小野派、中西派とは本数の数え方が違う)をはじめ、小太刀組、相小太刀、刃引など、小野派一刀流の組太刀とほぼ同じものを伝えている。打太刀は鬼籠手という厚い籠手を装着する点も同様である。 また、千葉家の家伝の北辰流流祖千葉常胤より伝わる長刀(薙刀)の形も初代・千葉周作が体系化し伝えている。北辰一刀流の薙刀術は女使いを主にしていたので小振りの薙刀を用いた。

伝位

小野派一刀流の伝位は八段階であったが、これを『初目録』、『中目録免許』、『大目録皆伝』の三段階にした。剣術に限らず当時の武術や芸道では、伝位が上がる度に師匠・先輩・同輩に礼物を贈る慣習があったため、貧乏な人間は実力があっても昇段しにくい弊害があった。このため、このお金のかからない簡略な目録制度は門弟に大いに喜ばれた。 鈴鹿家蔵の資料によると大目録免許皆伝では『露の位』『鍾の位』『石火の位』と家伝の北辰流居合8本、伊藤一刀斎小太刀之次第5本、柔術5本、千葉周作独自の考案『蓮折』、『長短の矩』 『捨目付』 『星王剣』などの奥義が伝えられている。このほかに正眼伝授『北辰一刀流兵法箇条目録』 がある。[要出典]

天然理心流(てんねんりしんりゅう)とは、日本の古武道の流派。剣術、居合術、小具足術(小太刀術)を含み、その他柔術、棒術(棍法と称する)も伝えた総合武術である。

概要

江戸時代後期の剣客近藤内蔵之助が寛政年間(1789年 – 1801年)頃に創始した流派で、古武道としては比較的新しい。

剣術と居合は鹿島神道流(鹿島新当流)、柔術や小具足術、棒術は竹内流の系統である。門弟は剣術、柔術を別に学ぶ事が出来たようである。(つまり、剣術のみの皆伝、柔術のみの皆伝などもあったという事である)。棍法では、棒、半棒、中段の三種類の長さの棒を使った。なお、二代近藤三助や三代増田蔵六の出した伝書の表書きが『天然理心流棍法』になっているが、伝書の中では『棒』『半棒』と書かれており、棒、半棒、中段の技術を総称して棍法と呼んだようである。また棍法ではなく天然理心流棒術として伝えた系統もある。

技量に応じて入門から切紙、目録、中極意目録、免許、指南免許、印可と進み、指南免許を得ると独立し門人を集め道場を開く事が出来た。但し指導自体は免許等を得た時点で行われていたようである。

幕末期に近藤家四代目(試衛館)の近藤勇が新選組を結成した事で知名度を上げた。

歴史

初代及び二代開祖近藤内蔵之助は遠江国出身といわれ、江戸に道場を構えたが、近隣の農村へ出向き指導したため、門下生の数は大変多くなった。二代目を近藤三助が継ぎ、江戸はもとより、現在の多摩地域や埼玉、神奈川まで広範囲に普及した。近藤内蔵之助には近藤三助以外の高弟に小幡万兵衛、主に柔術を伝承した戸田角内がいる。

初代及び二代開祖近藤内蔵之助は遠江国出身といわれ、江戸に道場を構えたが、近隣の近藤三助以降、二代目の近藤三助は、天然理心流の最後の免状である指南免許や印可を誰にも与えず46歳で早世した。そのため決まった後継者がいなかった。免許までを受けていた高弟たちは、その後天然理心流を各地で教授する事となった。また近藤三助の高弟の一部は、初代近藤内蔵之助の高弟である小幡万兵衛に改めて指導を仰ぎ、指南免許を受ける事となる。

各地で天然理心流を教授した近藤三助の高弟には以下のような人物がいる。

漆原権左衛門

桑原永助 – 漆原と同じく、三助の死後、小幡万兵衛より指南免許を受けたと言われる。

島崎周助 – 後の近藤周助。剣術免許。

増田蔵六 – 八王子千人同心。近藤三助門下の中で実力随一といわれ、剣術、柔術、棒術の免許を受ける。戸吹および八王子近辺にて多くの弟子を育てる。指南免許は小幡万兵衛より受けた。明治4年没。

明治維新以降

近藤家の系統[編集]

天然理心流は、師から口伝や免状を受ける事によって伝承するが、前宗家から免状を受けたのは四代目の近藤勇までである。近藤家五代目は近藤勇の婿養子である近藤勇五郎が継承し、1876年(明治9年)に撥雲館道場を開いた。

現在伝わる天然理心流の会派では、近藤勇五郎は、その当時存命であった多摩在住の師範より天然理心流を学んだとされている。ただし、現在の研究者間ではこの伝承には疑問が呈されている。現在残っている記録から、近藤勇五郎は天然理心流の形稽古はほとんど行わず、おもに竹刀稽古(撃剣)を行っていた事がわかっている。

近藤勇五郎の撥雲館道場に通っていたという(撥雲館の正式な門人ではなく三鷹の剣友会の所属であり、たまに撥雲館に来ていただけに過ぎないとも言われる)加藤伊助の系統は現在5派に分かれている。その内、門人会を主催する平井正人と、近藤勇の生家である宮川家子孫で勇武館を主催する宮川清蔵がともに近藤系宗家を名乗っている。また、同系の荒川治が剣究会を、中島陽子が撥雲会をそれぞれ主宰している。

近藤家以外の系統

近藤家以外の多くの天然理心流の系統が、関東各地で第二次大戦前まで稽古されていたことが記録に残っている。例として昭和初期の古武道演武会には天然理心流の師範が出場した記録がある。

松崎和多五郎の系統は戦後も稽古が行われており、天然理心流最後の指南免許師範と思われる小谷田洞水(明治8年~昭和30年代初頭)や昭和中頃に天然理心流保存会を結成した松崎幸三郎(昭和61年没、松崎和多五郎の孫)などを輩出していた。

また、埼玉県浅羽村(埼玉県坂戸市浅羽)では戦前まで木下家水月館で、剣術の全伝の伝承がおこなわれていた記録が残っている。この系統は、二代目近藤三助の弟子、桑原永助の弟子、横田右馬助(?~明治24年)の系統である。

現在活動している会派としては、松崎和多五郎から井上才市へ伝承された天然理心流剣術の全伝を伝える心武館を大塚篤が主催している。また、同系の高鳥天真が試衛館を主宰している。

祭りの棒術

現在、東京都近辺の祭りで行われる棒術(棒の手)には天然理心流の棒術と伝承されるものがいくつかある。その多くは芸能化しており、武術としての棒術とは内容が変化しているが、中には記録に残る江戸時代の天然理心流棒術とほぼ同じ内容を伝えるものも存在する。

伝系図

天然理心流の歴代の伝系図は天然理心流伝系図に詳しい。

近藤家の伝承[編集]

初代 近藤内蔵之助 長裕

二代目 近藤三助 方昌

三代目 近藤周助 邦武(近藤勇の宗家四代目就任後、通称を周斎と改める)

四代目 近藤勇 昌宣

五代目 沖田総司(塾頭)

近藤勇五郎 信休(撥雲館道場を開く)

六代目 桜井金八 義祐

七代目 近藤新吉 正行

八代目 加藤伊助 修勇

九代目 宮川清蔵 勇武

九代目 平井泰輔

十代目 平井正人

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初その他の系統、初代 近藤内蔵之助 長裕、二代目 近藤三助 方昌、二代目より多くの師範の系統に分かれる。

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