歳時記(8月の行事・農作業)

8月写真

8月 葉月

このページは、歳時記(8月の行事・農作業)をテーマに記載しています。

目次

行事一覧

七十二候 大暑

2~6日 大暑 末候 大雨時行 (たいうときどきにふる)

時として大雨が降りやすい時期。

7~11日 立秋 初候 涼風至 (すずかぜいたる)

涼しい風が吹き始める季節。

12~16日 次候 寒蝉鳴 (ひぐらしなく)

「蜩」が鳴き始める季節。蜩は日暮れに鳴く意味するが、朝早く、曇った薄暗いときにもなく。鳴き声は、「かなかなかな」木々の間をこだまするように響き、他のセミとは違った風情を醸し出す。

17~22日 末候 蒙霧升降 (ふかいきりまとう)

深い霧がまとわりつくように立ち込める季節。

二十四節気 処暑

「処」は止まるの意味があり、暑さが止まるの意。朝晩の涼しさを感じる日が増える季節。

23~27日 処暑 初候 綿柎開 (わたのはなしべひらく)

綿の花が開く季節。綿の花は、「タチアオイ」に似た淡い黄色の花で、美しい花である。「柎」(うてな)は、花の萼(がく)を意味し、「綿」を包む萼(がく)が開き始める季節。

28~9月1日 次候 天地始粛 (てんちはじめてさむし)

ようやく暑さも収まり弱まる季節。「粛」には、縮む、静まる、弱まると意味する。

1日 八朔(はっさく)

8月朔日、他に身の祝いとも言い、農家の祝い日であり、農休日。1590年(天正18年)徳川家康江戸城入府を記念し祝い、贈り物をしあったことが始まり。
お盆初日、新盆参り

2日 お盆送り火

実家で過ごした御霊を極楽浄土へ送り出す。

3日 お閻魔様の日

菩提寺長久寺地蔵堂参り
藪入り

6日 広島原爆の日

原爆ドーム

広島市への原子爆弾投下(ひろしましへのげんしばくだんとうか)による犠牲者に心からの哀悼の誠を捧げる日 黙祷

7日 立秋

二十四節気の一つ、暦では立秋から秋になる。朝夕は秋の気配が感じられる季節。

9日 長崎原爆の日

平和記念像

二十四節気の一つ、暦では立秋から秋になる。朝夕は秋の気配が感じられる季節。

11日 山の日

山の日(やまのひ)は、日本の国民の祝日。2014年(平成26年)に制定された。祝日法 (昭和23年7月20日法律第178号)2条では、「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」ことを趣旨としている。日付は8月11日。2016年(平成28年)1月1日施行の改正祝日法で新設された。

13日 月遅れ盆迎え火

14日 日本降伏

日本は1945年8月14日に連合国軍に降伏した。

14日 月遅れ盆

他地域の親類の家に盆参り

15日 終戦記念日

終戦

戦争犠牲者の上に、今ある日本の発展の礎となっていることを忘れてはならない。心 からの哀悼の誠をささげ、黙祷
月遅れ盆送り火

23日 処暑

24節気の一つ、涼風が吹く初秋の季節。暑さも徐々に収まり、収穫がまじかとなる。
二十四節気の中の立秋、残暑はさらに厳しさを増す、日差しも衰えそうもなく、夏の暑さが続くと感じるころである。空を見上げると、入道雲がもくもくと立つが時折、鱗雲や筋雲が秋を予感させる。

暮らしの記憶

朝食・料理

朝食は、小麦粉に卵を溶いた生地皮を作り、前日から小豆をゆでて作っておいた餡子をくるみ、蒸かして作る「蒸かし饅頭」と茹でて作る「茹で饅頭」の饅頭を作る(来客にも茶菓代わりに出された)。仏壇にお供えし、家族の朝食となった。料理は精進料理で前日に作り置きしたものを食べ、昼には、うどんを茹でて、ナス、インゲンの素茹でを糧として、青シソ、いんげん、カボチャの天ぷらお供えし、昼食とした。来客にも出された。

うどんづくり

うどんは前もって水車で製粉をお願いし、当日か前日に、粉を水でこね、数時間もしくは一晩寝かせ、こねなおし、ござにくるみ足で踏む、踏むことをしっかり行うことにより、腰を出すことが行われ、踏む仕事は子供たちが行った。

我が家には仏壇がなかった。

お祖父さんが、天学教(てんがく教)を信仰していたため、仏壇がなく「霊人様」と言う祭壇が置かれ、御本尊を最も奥に祀り、その前に縁のあったご先祖の「御柱」が収められていた。年に一度菩提寺の住職さんは、何も言わず、お盆に読経に参られ、供養をしてくださっていた。私が結婚してすぐに仏壇を整えることとし、大日如来坐像、空海座像、不動明王像、お祖父さん夫婦のお位牌、水子のお位牌を納め、菩提寺の住職に入魂をしていただいた。我が家に仏壇が設置された。「天学教」の祭壇は隣に設けお移り頂いた。

8月1日

お盆である。母が元気でいる時は、朝早くから起きてまんじゅうを作っていた。うどん粉に卵を落とし重曹を加え生地を作り、昨日より作り置きをした小豆餡子球に雉を被せたものを蒸籠で蒸かして作り、仏壇にお供えした。檀家寺の住職が盆の経を挙げに、午前8時ごろ見えたので、間に合うように作り上げていた。茶とお茶うけにまんじゅうを並べ、「上」と書いたお布施を、住職と、お供に手渡した。何年か前から檀家が増え、回り切れないので「新盆」の家だけを希望により回るとなった。朝食はその万頭を、昼はナス、インゲンの素茹でを糧とし、ネギ、みょうが、大葉を薬味としうどんを食べた。 

8月2日

料理とお土産ダンゴ

母は、朝早くから、ぼた餅を作っていた。米に持ち米を混ぜて炊き上げ、ご飯茶碗に一杯ほどのお握りを作り、一昨日より準備していた小豆餡をまぶした。仏壇にお供えし、皆は朝食に食べ、昼はナス、インゲンの素茹でを糧とし、ネギ、みょうが、大葉を薬味とし、うどんを食べた。最近ではキュウリを糸状に切り糧としている。

今日は、仏様の送り火です。お別れ団子を7つお供えしました。夜、雨が降り始め、合間に送り火をした。

迎え火、送り火は、子供の頃に麦わらがあったころは、麦わらを2段つなぎの長さ3尺程度のたいまつを作り、火をつけて、「どの仏様もこの火の案内で家におかえりください。」または「どの仏様もこの火で送ります。」などと言いながら賑やかに行った。

盂蘭盆会の最後の日である。母は、朝早く起きて、うるち米にもち米を少し加えて炊き上げ、粘りが出るまですりこぎで搗き、案をまぶし、牡丹餅を作り仏壇に供え(来客にも茶菓代わりに出された)、皆で燈明をあげ、手を合わせた。その後朝食となる。昼にはうどんを茹で、ナス、インゲンの素茹でを糧として、青シソ、いんげん、カボチャの天ぷらお供えした。朝食が終わると米粉で「お土産団子」を7つ作りお供えする。

「送り火」

先祖の霊が無事に極楽浄土に戻れるように願う習わしであり、「迎え火」の逆に行い、仏壇の灯明から麦わらのたいまつに火を焚き送る。送りはなるべく遅い時間がよいとされている。

供養に来てくださる方への振舞

盆は先祖の霊を迎え、生活を共にするというもので、お供えや、食事はお迎えした霊と家族が同じものを食べ、毎日違うものをお供えし供養することとされている。また、親類やご近所の人が訪れる事が多く、土産話、世間話、持って下さるお供えされた、お供え物やお土産が楽しみな日でもあった。

お参りに来て下さる訪問客には、昼にはうどんを茹で、ナス、インゲンの素茹でを糧として添えた。父は大きなスイカを切って御馳走の一つとし、必ず手打ちのうどんを、昼にうどんを茹で、ナス、インゲンの素茹でを糧として添えたものを「凌ぎです」と言い振る舞い、大変喜ばれ、帰りには大きなスイカを、手土産に持たせて帰した。

8月3日

「お閻魔様の日」

お閻魔様の日、蒟蒻、ニンジンの千切り、蒟蒻、油揚げ、のの字蒲鉾、シイタケなどを煮込み、酢飯に混ぜ、大葉や茗荷、卵焼き、キュウリの千切りを散らした五目鮨を仏壇にお供えした。

あの世で亡者の裁きをする閻魔大王に仕える「奪衣婆」は、三途の川の手前にいて亡者の衣服を剥ぎ取り、罪の重さを計る役目と言われ、又地獄行きの裁きが下された亡者を追い立てると言はれ、閻魔様とご縁のある奪衣婆に病気などの悪(灰汁を固めて作る蒟蒻)を取るという蒟蒻をお供えすることとしている。お帰りになった先祖の墓参りを行う。

墓参りの帰りに菩提寺の地蔵堂にある閻魔様にお会いしようと訪れたが、カギがかかって会うことができず外から手を合わせて帰宅した。(今年は、少し端折って作った五目寿司。)

 

お盆の次の日はお閻魔様の日と言い、送り火でお送りした「先祖の霊」がお墓に帰り着くとお礼参りとして墓参りをする人決まっていた。その帰り道に菩提寺の焔魔堂に詣で手を合わすこととしていた。

小さい時から「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる」と怖いものと頭に叩き込まれた閻魔だが一方では閻魔は地蔵菩薩と同一で地蔵菩薩の化身ともいわれ慈悲心をたたえた存在とも言われている。隣に衣婆奪(だつえば)、オニババアというのが定説だが、閻魔大王に仕え、三途川を渡る亡者から衣服をはぎ取り罪の軽量を計るとされ、右手には亡者からはぎ取った衣が握られている。また、奪衣婆が剥ぎ取った衣類は、懸衣翁という老爺によって衣領樹にかけられる。衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって死後の遇を決めるとされた。

お閻魔様の日のご馳走はちらし寿司

「閻魔様の日」ちらし寿司は酢飯に季節の物(ちくわ、蒟蒻、ニンジンなどを短い千切りにしたものを味をつけ煮込む)きゅうりの千切り、ナスの一夜漬けを載せいただくこととし、朝食とした。昼はナス、いんげんの素茹でしたものやトマト、キュウリ、メロンの一夜漬け、みょうが、大葉の薬味などを糧としてのつけうどん。

盆棚のかたずけ

本尊様、お位牌を基の仏壇に安置し、仏壇にちらしずしをお供えし閻魔大王に手を合わせる。寺に行き閻魔堂に行き手を合わせ、健康長寿、家内安全を祈願し手を合わせる。

「藪入」「閻魔様の日」

古くからこの時期の季節の端境期に、お盆が農休日を兼ねており、女性たちの食事の労力を少なくすることとした。閻魔様の日は「藪入」の日と言われ、江戸時代から、小正月の1月16日とお盆の7月16日は「藪入」と言い、他家に嫁いで行った女性も正月と盆には実家に帰ることを許され、実家は、嫁いだ娘や方向に行っている息子や娘たちが勢ぞろいしにぎやかとなった。この日は働くことを忌み嫌い、それまでの労働による疲れをとり、癒す

懸衣翁(けんえおう)とは、死後の世界の三途の川のほとりにある衣領樹(えりょうじゅ)という木の上、または川辺にいる奪衣婆の隣にいるといわれる老人である。

奪衣婆と共に十王の配下で、奪衣婆が亡者から剥ぎ取った衣類を衣領樹の枝にかけ、その枝の垂れ具合で亡者の生前の罪の重さを計るとされる。

罪の重い亡者は三途の川を渡る際、川の流れが速くて波が高く、深瀬になった場所を渡るよう定められているため、衣はずぶ濡れになって重くなり、衣をかけた枝が大きく垂れることで罪の深さが示されるのである。また亡者が服を着ていない際は、懸衣翁は衣の代わりに亡者の生皮を剥ぎ取るという。

奪衣婆(だつえば)は、三途川(葬頭河)で亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼。脱衣婆、葬頭河婆(そうづかば)、正塚婆(しょうづかのばば)姥神(うばがみ)、優婆尊(うばそん)とも言う。

多くの地獄絵図に登場する奪衣婆は、胸元をはだけた容貌魁偉な老婆として描かれている日本の仏教では、人が死んだ後に最初に出会う冥界の官吏が奪衣婆とされている。奪衣婆は盗業を戒めるために盗人の両手の指を折り、亡者の衣服を剥ぎ取る。剥ぎ取った衣類は懸衣翁という老爺の鬼によって川の畔に立つ衣領樹という大樹にかけられる。衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって死後の処遇を決めるとされる。

経典での奪衣婆の初出は、中国の経典『仏説閻羅王授記四衆逆修七往生浄土経』をもとに、日本で12世紀末に成立した偽経『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』である。奪衣婆は鎌倉時代以降、説教や絵解の定番の登場人物となり、服がない亡者は身の皮を剥がれる、 三途川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る など、さまざまな設定や解説が付け加えられた。

懸衣翁(けんえおう)と奪衣婆(だつえば) 新義こよみより

7日 広島原爆の日

広島市への原子爆弾投下(ひろしましへのげんしばくだんとうか)による犠牲者に心からの哀悼の誠を捧げる日 黙祷
広島市への原子爆弾投下(ひろしましへのげんしばくだんとうか)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)末期の1945年(昭和20年)8月6日(月曜日)午前8時15分、アメリカ軍(米軍)が日本の広島市に対して世界で初めて原子爆弾「リトルボーイ」を実戦使用した出来事である。 これは、人類史上初の都市に対する核攻撃である。
欧州での第2次世界大戦は1945年5月、ドイツの降伏によって終わったが、アジアでは日本が連合国軍と戦い続けていた。日本が最後の通告を無視したことから、アメリカは原爆を投下で日本の降伏を早めるため、8月6日、アメリカ軍は「リトル・ボーイ」と呼ばれる原爆を広島に落とした。原爆が初めて戦争で使用、大規模な爆発で広島市は焼き払われ、少なくとも7万人がその瞬間に殺された。その後、放射能汚染によって、死者数の記録は推計だが、広島市の人口35万人のうち14万人が命を落とした。

9日 長崎原爆の日

長崎市への原子爆弾投下(ひろしましへのげんしばくだんとうか)による犠牲者に心からの哀悼の誠を捧げる日 黙祷
日本がすぐに降伏しなかったため、アメリカは3日後の9日に、「ファットマン」という別の原爆を長崎市に投下した。長崎では少なくとも7万4000人が原爆で亡くなったとみられている。歴史上、実験以外の理由で原爆が投下されたのは、この2回のみだ。戦後、広島は平和の街として復興し、世界中で核廃絶の運動を行っている。

日本降伏

原爆投下により、アジア圏での戦争は唐突に終わった。日本は1945年8月14日に連合国軍に降伏した。
しかし、日本はこの前にすでに降伏寸前だったという指摘や、原爆があまりに多くの市民を殺したという非難の声もあがっている。戦後、広島は平和の街として復興し、世界中で核廃絶の運動を行っている。

11日 山の日

山の日(やまのひ)は、日本の国民の祝日。2014年(平成26年)に制定された。祝日法(昭和23年7月20日法律第178号)2条では、「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」ことを趣旨としている。日付は8月11日。2016年(平成28年)1月1日施行の改正祝日法で新設された。

14日 降伏

日本は1945年8月14日に連合国軍に降伏した。

15日 終戦の日

戦争犠牲者の上に、今ある日本の発展の礎となっていることを忘れてはならない。心からの哀悼の誠をささげ、黙祷
原爆投下により、アジア圏での戦争は唐突に終わった。日本は1945年8月14日に連合国軍に降伏した。しかし、日本はこの前にすでに降伏寸前だったという指摘や、原爆があまりに多くの市民を殺したという非難の声もあがっている。

日本人が戦争に踏み切るきっかけ

「絶対に戦争はしない」と誓って大統領に当選したルーズベルト、国民を騙して戦争に引きずり込んだ。
日本は終戦まで、アメリカに何度も何度も和平提案を送っていた。それを完全に無視し続けた上での原爆投下、瀕死の日本に、どうしてそこまでする必要があったのか。「原爆が正義だ」という狂気のデタラメを生み出した世界の力関係とは何であったのか。太平洋戦争よりもずっと昔の明治時代から仲の良かった日本とアメリカが、日本人も中国人もアメリカに移民していたのに、「排日移民法」が成立して日本人だけが排除されたのは何故だ。この差別の裏にあった「妬み」とはなにか。日本人が戦争に踏み切るきっかけとなった「ハル・ノート」。なぜ、そんな重要な内容を私たち日本人は教えられないのか。なぜ戦わなければならなかったのか。日本が戦争に踏み切らざる得なかった理由を探求・解明し、改めて歴史を学び、教訓とし二度と同じ轍を踏まぬよう、日本国民が判断を間違えることの無いよう、激動の時代に果敢に向き合って、日本国の独立維持のために取り組む必要がる。

独立国家の日本人として、自覚を持つ

当時の社会情勢は計り知れないものがあるが、しっかりと戦争に突入した理由を明確にし、勝者の論理だけがすべてでないことを再吟味し、日本人としてのアイデンティティを持ち独立国家として、日本人としての自覚を強く持つ必要がある。

終戦記念日(しゅうせんきねんび)や終戦の日(しゅうせんのひ)

日本政府は、8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日(せんぼつしゃをついとうしへいわをきねんするひ)」とし、全国戦没者追悼式を主催している。一般にも同日は終戦記念日(しゅうせんきねんび)や終戦の日(しゅうせんのひ)と称され、政治団体・非営利団体(NPO)等による平和集会が開かれる。
日本において第二次世界大戦(太平洋戦争)が終結したとされる日については諸説あり、主なものは以下のとおりである。

  1. 1945年(昭和20年)8月15日:正午からラジオで放送された玉音放送により、前日に決まったポツダム宣言受諾及び日本の降伏が国民に公表された日。帝国政府が軍に武装放棄と連合軍への投降命令を発し、連合国もそれを受け戦闘を止めた。
  2. 1945年(昭和20年)9月2日:日本政府が、ポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した日
  3. 1945年(昭和20年)9月2日:日本政府が、ポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した日

8月の農作業

盆が過ぎると秋野菜の播種の準備

夏果菜の収穫残滓の片づけから始まる。スイカ、キュウリ、瓜などは根を引き抜き、この時期は乾燥も強く、放置し1週間ほど乾燥させ、敷き藁にしていた麦わらなどとともに焼却処分を行った。

秋野菜の播種準備

なわずり

各種秋野菜の播種時期

播種時期は、8月15日過ぎに白菜(45センチ間隔に踏み跡をつけ播種する。)、その後、大根(30~45センチ間隔に踏み跡をつけ播種する。播種時期は種類によって、収穫時期によってずらす。)カブ(畝幅が45センチメートルとし、間引き終了後3センチ間隔に均等に発育するように、種粒が小さいため播種するのが苦労であった。粒と同じ大きさの砂と混ぜ播種を行った。収穫期を長期化するために15日ずらして播種。)9月の中頃から、小松菜、ほうれん草の播種、15日間隔で播種し、出荷期を伸ばした。10月15日以降の播種分は年内には収穫できなかった。次年度の収穫用の播種は10月中に終了した。父はキャベツと折り合いが悪かったために、作付けすることはなかった。

間引き、追い肥

大根、白菜は適時に1か所1本になるように間引き、カブは間が3センチ間隔になるように間引きを行った。生育状況を見、適時に追肥をおこなった。

立秋

二十四節気の中の立秋、残暑はさらに厳しさを増す、日差しも衰えそうもなく、夏の暑さが続くと感じるころである。空を見上げると、入道雲がもくもくと立つが時折、鱗雲や筋雲が秋を予感させる。

ゆっくりと季節が引き継がれていく中で、いつしか空の青さが増し、高くなり、吹く風も透明感を増し、日暮れには涼しい風を感じる季節となる。

夏果菜の収穫残滓の片づけ

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