五節句

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五節句

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明治五年(1872)十一月九日、太陰暦を太陽暦に改めるための「改歴の勅書」を出した。また、十二月三日を明治六年の一月一日とするとした。西洋諸国と対等に付き合うには太陽暦でないとだめだと考え、日本の近代化に果たした役割は大きかった。同時に、伝統文化や行事に大きな混乱を来たした。

中国では奇数の事を「陽数」と言って、おめでたい数とし、「陽数」が揃う日を節句として盛大に祝う風習があった。日本に伝わり、江戸幕府は、公的な祝日とし「五節句」を制定し、一月一日は別格として、代わりに一月七日を「人日の節句」とした。新暦であると、旧来の季節と1カ月、2カ月程度のずれが出て、本来の行事の意味、意義とが変わらざるを得なくなり、行事によっては、季節に合わせるために、月遅れで行うものが出てきた。農作業など社会生活上の目安の日とし、ハレの日(特別な日)と言われ、特別な食事や飲み物と共に祝われた。また、休養と保険の為の日として、労働を忌み労働をしない休日とし、労働する者は、「貧乏人の節句働き」と言われ、集団生活の中で協調性が求められた。

人日(じんじつ)の節句

一月七日 七草の節句 「無病息災を願う」

五節句の最初に当たる節句で、中国渡来の習俗で特に重要視され、人の日とされ、春の七草を入れた粥を食べ、邪気をはらう。

正月は、先祖の霊(祖霊)歳神を迎え、ハレの日の特別料理である、雑煮、お節料理を食べ、家族が皆で食べ祝う行事である。雑煮は栄養価に偏りがあるために、お節料理はそれらの食事の栄養のアンバランスを補うため、しきたりと縁起物といった形で、食を促す個人の知恵である。屠蘇は、山椒や肉桂などの薬草を混ぜ合わせたものを浸したみりんやお酒を飲み、邪気を払い、長寿を祝うものです。

上巳(じょうし)の節句

三月三日 桃の節句  「女児の成長を願う」​

桃の節句とも言われ、中国の習俗が日本に伝わり、宮中行事が起源となり、新暦では、雛祭りに桃の花や、菜の花を飾るには早く、人々が海や川で「磯遊び」「はま下り」「川禊」などを行い、稲作の作業を開始する前の身を清める「みそぎ」であった。また、山に遊ぶことは、山より降りてくる「田の神」を迎えるためであった。迎える厳しい農作業の始まる前日の一日、皆で心ゆくまで海や山で楽しむ行事であった。その後、庶民の習慣となった。また紙で作った人形に穢れをなでつけて不浄をはらい、川に流すという「流し雛」の行事が江戸時代にひな人形が立派なものとなり飾られるようになり、「ひなまつり」となった。徳川幕府の社会インフラの整備と減税による庶民の可処分所得の増加により、衣食住の生活が飛躍的に豊かになった。綿花栽培の増加により誰でもが綿の着物を着る事が可能となり、綿の実の油で灯油がいきわたり、夜は寝るだけの生活から、活動時間が延長し、家族の生活も「一家団欒」などの余裕が生まれてくると、雛祭りにも豪華さが増し、明治時代さらに発展し、今に至る。また、奈良。平安時代に貴族の間で行われた「曲水の宴」、女の子の遊び「雛あそび」を背景として発展し、女の子の祭り「雛まつり」と発展した。

雛壇には、白餅、草餅、桃色餅が供えられ、蛤の吸い物、桃の花、菜の花が供えられ、皆で食べ、女の子の無事な成長を願った。

端午(たんご)の節句

五月五日 菖蒲の節句 「男児の成長を願う」

端午の節句は伝統的な田植えに関係し、女たちの大事な仕事であり、田の神様を打変えて豊作を祈るために菖蒲で作った小屋にこもり、身を清めた風習と、中国から伝わった、十日思想(奇数月の月と日が重なった日を特別な日とした考え方)とが結びつき端午の節句が始まった。また、日本の梅雨はじとじとと蒸し暑く巣過ごしにくく、食中毒、体調の変化を起こしやすく、洪水に見舞われる、蝮などの蛇が現れるなど山の動物たちもうごめく季節であり、物の怪がうようよしていると考えられた。その為に、物忌みや厄除けが行われ、茎や根に香気があり病気や蛇などを追い払うと言われる菖蒲や蓬と言った植物が用いられた。女性たちがチマキ(もともとはイネ科のチガヤ「疫病よけの力がある」の葉で巻く「芽巻き(ちまき)」であった)、蓬餅、柏餅を食べ、菖蒲湯につかる、本来は物忌みの為の「端午の節句」で、田植え前のささやかな祭りの日と変わった。

農作業の中心の成る女性が、厳しくつらい稲作が始まる前に、物忌み、厄除けにチマキを食べることなどをしたことが始まりと言われている。

江戸時代に入り、人心が安定し、生活が向上すると、菖蒲が「尚武」武事、軍事を重んじる言葉に通じる事から、武士階級がとりいれ、立身出世を町人は家業の繁栄を祈り、願う行事となり、「端午の節句」は男の子の祭りとなったと言われる。武家階級は玄関に旗指物や幟、吹き流しを並べ、町人は鯉のぼりを建てるようになった。

七夕(しちせき)の節句

七月七日 七夕(たなばた)「技巧の向上を願う」

旧暦の七月七日は、今の暦では8月中旬で、空気は住みつきも上限(半月)で、星空もきれいに見える。見上げると、南北に天の川が流れ、両岸に二つの明るい星が輝いて見える。日本では織姫と彦星、中国では織女と牽牛、西洋風ではこと座のベガとわし座のアルタイである。中国で「七夕」伝説が生まれ、織女と牽牛はもともと夫婦で有ったが、天帝の怒りにふれ、天の川の東西に別れさせられ、七月七日だけ、1年に1度だけ会う事ができるとされた伝説となった。七世紀になって遣唐使によって伝えられると文化人を虜にし、多くの歌が詠まれ定着した。また、日本の古い習慣である棚機女(たなばたね)の風習から「たなばた」と読むようになったと言われている。綿を増産させ、日本人を寒さから救い、機織の技術を飛躍的に伸ばしたのは、応神天皇の三世紀ごろ、朝鮮から渡来した「秦氏」たちであった。七夕伝説も、新しい機織技術とともに伝わり、日本の伝統的な風習と結びつき変化をしてきたと言われている。また七夕は、中国伝来の「乞巧奠(きこうでん・織女が機織が極めてうまかったことから、女の子が機織の上達を織女星に祈りをささげる)」と言う行事がもとで有ると言われている。

その後機織だけでなく、栽縫(針仕事)や琴、詩歌など当時の女性の仕事や芸事の上達を織女星にねがった。さらに時代が進み、女の子だけでなく男の子も文字や詩歌の上達を願う行事となり、さらに、家事の気(クワ科の落葉高き)の葉に歌や願いごとを書くようになった。江戸時代には笹竹に願い事を書いた短冊を吊るす、今の形になった。朝、イモの葉っぱなどに降りた梅雨で墨をすり(字を書くことが上達すると言われた)、短冊に願い事を書いて飾り付け、果物や野菜をお供えし七夕の祝いを行い、終了すると川や海に七夕飾りを流した。

江戸時代以降の七夕行事は一家団欒で、短冊に願い事を書き、輪つなぎ、三角つなぎなどで七夕飾りを作り、御馳走の食事をする楽しい行事であったという。今では観光行事として盛んではあるが、家や家族の絆を再構築するためにも、本来の「家族団欒」の行事としてさらなる発展を願うものである。

重陽(ちょうよう)の節句

九月九日 菊の節句 「不老長寿を願う」

「長陽」とは、中国で古くから縁起が良いと言われてきた陽数(奇数)のうち、最大数の九が重なることから五節句の中でも特別めでたい日とされてきた。この日に菊の花を飾り、菊酒を酌み交わし、お互いの長寿と無病息災を願う風習があった。日本に奈良時代に伝わり、宮中で「菊(千人の住むところに作と言われる菊には、長生きの効能がある)の宴」として始まり、平安時代には、重陽の節句は正式な宮廷行事として定着し、臣下に菊酒と氷魚を振る舞い、儀式が終わると豪勢なお土産が配られた。江戸時代には、武家社会の中で、五節句の中で最も公式な行事となり、菊の花を浸した酒を飲み、盛大な祝宴が開かれたと言う。民間、庶民の間では、稲刈りなどと重なり秋まつりと一緒に祝う事が多く、栗ご飯やお節料理を食べる風習が広まったと言われ「菊の節句」「栗の節句」とも言われる。また、茶文化の発展に伴い和菓子の文化が花開き、菊祭り、菊人形などの菊づくり、菊模様の染色、絵画の発展などの庶民の生活に入り菊を中心とする文化の発展に繋がった。

菊と栗

仙人の住むところに作と言われる菊には、長生きの効能があり、ほのかな甘みとイモのような食感の庫裏には、消耗した体力を回復させる作用があり、夏の暑さで弱った体の回復を願い、秋を祝う膳に栗ご飯が好まれてきた。

菊の御紋

菊は日本で古くから高貴な花とされ、平安時代には装束や調度の文様として多く用いられた。皇室の紋章としての起源は、鎌倉時代に後鳥羽上皇が菊の文様を愛好したことに由来するとされている。現在の十六弁の菊花の紋章が皇室の紋章と法的に定められたのは、大正十五年(一九二六)公布の皇室儀政令による。

引用文献
  • (株)創元社発行 岡田 芳郎著 旧暦読本 現代に生きる「こよみ」の知恵
  • (株)東邦出版発行 白井明大著 日本の七十二候を楽しむ 旧暦のある暮らし
  • (株)角川書店 産経新聞取材班 祝祭日の研究 「祝い」を忘れた日本人へ
  • 日本文芸社 新谷尚紀 和のしきたり 日本の暦と年中行事
  • (株)自由国民社 四釜裕子・長尾美穂・内山さつき 現代用語の基礎知識 二〇〇八年版別冊付録 12か月のきまりごと歳時記 五感で楽しむ季節の事典
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