歳時記(1月の行事・農作業)

1月写真

1月(睦月 むつき)

このページは、歳時記(1月の行事・農作業)をテーマに記載しています。

目次

行事一覧

明治神宮

野崎八幡社(氏神様) 新年祈願祭参拝
神主をお迎えし、神棚を設え、神饌をお供えし、新年の五穀豊穣、健康、商売繁盛等を祈願する。
長久寺(菩提寺)へお年賀の挨拶
菩提寺のお祀りされているご先祖様に新年のご挨拶、日ごろのご加護に感謝を伝える。

2日 仕事始め

初荷の出荷、書初め、諸事はじめ
市場が毎年2日より開催されたことにより、初荷は出荷すれば、祝値が付き、高価に良く売れた。子供たちは、2日に書初めをすると字を書くことが上達すると言われ、宿題の書初めなどを行った。

5日 七十二候 小寒

5~9日 初侯 芹乃栄(せりすなわちさかう)

「寒」のうちに採れる芹が最も美味しいと言われており、寒い水辺に青々と伸び始める。

10~14日 次候 水泉動(みずあたたかさをふくむ)

地中打破、凍った泉が動き始める時期を意味するが地下水は凍らず、寒い最中井戸の水は暖かいと感じるが如と言える。

15~19日 末候 雉初てなく(きじはじめてなく)

このころに雉が泣き始める。(実際は3月か4月、ケンケンと甲高く泣き、ホロロと羽を鳴らす)

7日 七草 人日の節句(五節句(人日・上巳、端午、七夕、重陽)の一つ)

七草

朝食に七草入りの粥(雑煮)を食べ、無病息災と長寿を願い祝う、邪気を払い万病を除くと言われる。
元日からの正月(松の内)行事が終了し、正月飾りを取り払う。

第2月曜日

成人の日(成人式)国民の祝日 大人になったことを自覚し、自ら生き抜こうとする青年を祝い励ます。

11日 鏡開き

歳神様にお供えしていた鏡餅を下ろし、雑煮や汁粉などにして食べ、家内安全、商売繁盛、五穀豊穣を祈る。蔵や倉庫の扉を新年初めてあける、仕事始めをいみする。

15日 小正月

新年最初の満月の日、餅ち花や飾り花(餅やだんごをちいさくまるめたものを木の枝につけ、花のように飾り、雑煮やお節料理に対し、・あづき雑煮(小豆粥に餅を入れる)を食べる。

16日 藪入り

使用人や嫁を実家に帰す。 

20日 廿日正月

正月にお迎えしていた神々が、早朝にはそれぞれの場所にお帰りになる日。
戎講(えびすこう)
戎、大国様をお社からおろし、祭壇を設け、尾頭付き(魚2匹)、あづき雑煮(小豆粥に餅を入れる)をお供えし、灯明をともし、参拝する。子ザルに小金を入れ、きれいに洗浄してお供えしておくと、小金が増える。一生金に困ることはないともいわれる。

大寒

20~24日 大寒 初候 ?冬(蕗)華(フキノハナサク)冬の最中最初に花をつける茎をのばし、花を咲かせる。食にするのは花径、ほろ苦い味が春の味。

25~29日 大寒 次候 水沢腹堅(サワミズコオリツメル)厳寒の中、滝が凍り付き、沢に氷が厚く張り詰める。

30~2月3日 大寒末候 鶏始乳(ニワトリハジメテトヤニツク)日照時間が長くなり、鶏が卵を産み始める。

大寒中の餅つき 寒餅

大寒中の餅つき 厳しい寒さの中での餅は持ちが良いと言われ、ゴマや大豆を混ぜ込み、かき餅やアラレをつくった。

二十四節気

古代中国で作られた季節区分法、春分から春分の間黄経三百六十度を二十四等分した位置に節気を配置
(15日間隔、正節と中期に分かれる)春分から春分の間
立春・雨水・啓蟄・春分・清明・穀雨・立夏・小満・芒種・夏至・小暑・大暑・立秋・処暑・白露・秋
分・寒露・霜降・立冬・小雪・大雪・冬至・小寒・大寒

雑節

二十四節気や節句などの暦日のほか、季節の移り変わりをつかむため、継承されてきた慣習
節分・彼岸・社日・八十八夜・入梅・半夏生・土用・二百十日・二百二十日

暮らしの記憶

1月1日 元旦

神社での初詣、参拝者へのおもてなしの行事が終わり、家に帰り、就寝の後、朝7時に起床、若水を汲むところから新年の行事が始まる。
湧水がないので井戸、水道で水を汲むこととしている。
その水を神棚に供え、お神酒徳利に酒を注ぎ(儀式であることから、本当の少しを注ぐこととしている)、雑煮(サトイモと大根)、を皿状の雑器に盛り、鏡餅(年が身にも通じる新しい歳の命の象徴であり、丸い形であることから、望月(満月に通じ、家族円満の象徴として、神事などに使用される三種の神器である八たの鏡八太野鏡の由来と言われる。)をお供えし、燈明を燈し、参拝し、正月を一緒に祝うこととしている。本来正月の儀礼は男性が取り仕切るものとされており、一家の主人や長男(年男)が行うこととされた。
また日頃多忙で休むことなく働く女性の安息日として家事を行わないでよいよう配慮したとも言われ、正月の準備は暮れのうちに済ませておいた。
現在でも正月の三がん日は、雑煮を年男が作ることとしている。
我が家でも雑煮が出来上がるまで女性や子供は布団の中にいることとしている。

雑煮を食べ終わると、一家の主人が、新年のあいさつと一年の抱負や望みを家族に伝え、お年玉が配られる。

その後、主人は八幡様で行われる新年祈願祭に参列、新年祈願祭は神主をお迎えし、海の物山の物をお供えし、神主により新年祈願が行われる。
その後社務所に戻り、神にお供えしたお神酒を下げ、かわらけ甎家に注ぎ、乾杯し、新年のあいさつ、行事予定を伝え、情報交換や世間話をしてひと時を過ごしお開きとなる。

午後は、菩提寺である長久寺へ宍戸家がそろって、お年賀へ伺うこととしている。

神社より2時過ぎに帰宅し、就寝。
朝7時に起床、長男とともに、邪気を払い、福を呼ぶと言われる若水を組み、神棚、仏壇にお供えする。
雑煮の鍋に水をくみ、芋と大根を一緒に煮る。沸き上がった時にだしの素の鰹節を入れ、餅を入れ、最後に青物のホウレンソウを入れる。
ひとに立ち後に食べる。
雑煮を作っている間に、雑器に芋と大根を盛り、御神酒を神棚にお供えし、灯明を燈し、神のご加護を願い祈る。

大國魂神社

大國魂神社

歳神様

大國魂神社

歳神様

大國魂神社

歳神様

大國魂神社

正月料理

雑煮(年男が作る)と正月のご馳走は年男(戸主)が作ることとされ、鰹節だしの醤油味に暮れのうちに下煮を行っておいた大根とサトイモを炊き、餅を入れ、最後にほうれん草を入れるだけのイモ雑煮と言われるもので、3日間同じ雑煮を食べた。
暮れに買い置きされた青のりをあぶり、粉状にし、ワサビ漬け、沢庵漬け、ハクサイの新漬け、きんとん、煮しめ、なます、金平などがちゃぶ台の上に並べられた。

雑煮を食べ、家族で今年の抱負やお祝い事を確認し、野崎八幡神社に新年祈願祭に出席。
神社より帰宅し、菩提寺である長久寺へお年賀に長男家族、次男家族と3男、長女とともにご挨拶とお参りをする。
その後深大寺に初詣に行き、新年のご挨拶を行い、茶屋でそばを昼食にいただいた。帰宅し、夕飯にピザを食べる。

歳男の雑煮つくりと女性と子供

家族が多かったこともあり、餅を大変多く入れ炊き上げるために大きな鍋が使われた。
餅は焼かずに炊き上げるため、すぐにゆだり、ややもすると溶けてしまうので、餅を入れる前に、女性、子供、家族に声をかけられた。声がかかると寝床から起きて、ちゃぶ台の周りに集まると、鍋に餅が入れられた。
子供たちには歳の数だけ食べなさいと言われたが、餅の大きさは大きく、マッチ箱2つ分程の大きさがあり、子供たちも頑張ってよく食べた。青のりは、岩ノリと決めていた。
ワサビ漬けは、大正年間大沢のワサビを正月に食べていた名残で父は用意して正月の雑煮に絡ませ食べた。
たくあん漬けは秋につけたものをたべる。
ハクサイ漬けは、暮れにうす塩にづけ込まれたものを食べた。
白菜の黄色い芯を兄弟で取っこをして食べるのも年中行事であった。今ではお節料理が多くの種類が用意されるが、当時は家でできるものだけであった。
我が家は女性が母ひとりであったため、暮れには大変多忙であった。母が体調を壊してからは、すべてを準備することができなかった。

おせち料理

おせち料理

黒豆は手に入ったときだけであったが、大豆を甘く、砂糖で煮浸けた。
勤勉に、まめに働くという願いが込められていた。

数の子

鰊の腹子から、二親(ニシン)とも言い、卵の数が多いことから、多産、子孫繁栄の願いが込められていた。

ご豆

乾物屋で求めたもの、カタクチイワシの子供で、昔田の肥料にしたときに5万俵も収穫があったことから「五万米」(ごまめ)、田づくりと名付けられ、豊作祈願の願いが込められていた。

栗金団(きんとん)・百合金団

栗きんとん

黄金にたとえられ、五穀豊穣・農作物の方策により黄金が積まれ、豊かな年となる願いが込められていた。
庫裏は秋に収穫し、質の良いものを保存し使われた。

夜の百合根掘り

百合根は近くの雑木林で堀あげた山百合の根を使用した。
夏、花の蕾ができると葉を残し球根が大きくなるよう花の部分を折りとり、秋に葉が黄色くなると人に見つからぬよう早めに茎をとり、自分だけがわかる印を残しておいた。
暮れになるとその球根を掘り出した。
その時には必ず、一番外側の鱗遍を5枚、掘った穴に埋め戻しておいた。
2~3年後には立派な球根に成長した。

紅白なます

お祝いの水引を表している。大根と人参を千切りし、甘酢で仕上げた。

紅白蒲鉾

紅はまよけ、白は清浄を意味し、神饌の赤米と白米を表している。

昆布巻き

「喜ぶ(よろこんぶ)」「子生(こぶ)」とも言われ祝いの品の一つである。
乾燥した昆布を買い求め、水に戻し、丸めた昆布を冠表(かんぴょう)で結わえ、醤油に砂糖を加えた汁で煮たものである。
煮汁は、だしをとるために最初に煮られ、その後、牛蒡・人参・里芋・八つ頭を煮るときに使われた。

牛蒡・人参・里芋・八つ頭

ごぼうは地中深く根を張るという意味があり、里芋、八つ頭は子をたくさん付けることから子孫繁栄、八つ頭は沢山の芽が出ることから、豊作の願いが込められていた。牛蒡、人参は短冊状に切り、昆布巻きを煮た後の煮汁を活用、順次別々に煮る。また、牛蒡、人参を千切りにし、金平ごぼうが作られた。

日本古来の芋はサトイモ

神事に使用する芋は、古来よりサトイモ、ヤツガシラと決まっていた。
ジャガイモやサツマイモは江戸時代に日本に渡来したものであるため神事には使用しない。

蒟蒻、丸揚げ

人参、牛蒡、丸揚げ、厚揚げ、を煮た後で里芋、八つ頭を煮る。
これは、里芋、八つ頭を煮ると汁にとろみがつくためである。

暮正月の生活

暮れには、ふろから上がると、新しい下着、下駄、洋服が準備されており、新しいものを身につけるのは1年の中でこの時だけであったことから大変楽しみで、嬉しく、喜んだものである。
母は、結婚前に和裁、洋裁の仕事をしていたので高度な技術を持っていたこともあり、私には新しい絣の着物も毎年仕立ててくれた。正月の朝は、兄弟の中には、時にはおねしょをしている子供がいたりして、母はその着替えやらで大騒ぎであった。
そして、正月料理が並べられ、父が餅を、最後にほうれん草を鍋に入れ、餅同士がくっつかぬよう、餅の間にほうれん草を挟むように工夫し、煮あげた。
家族皆が揃い、雑煮が盛り付けられ、「おめでとうございます。」の後、雑談しながらの食事であった。
食事が終わると、父は、決まって、暮れから正月の行事の説明と意義について、神様と仏様、ご先祖様への感謝を忘れないようにとの話があり、1年の抱負と、子供たちへ、勉強に頑張ること、家の手伝いをすることとが語られた。
そして、最後にお年玉が配られた。子供たちはお年玉の為に、じっとして話を聞いていたが、そのあとは、袋の中を確認したり、なぜかはしゃいでいた。

仕事始め・初荷

当時は、市内に、吉祥寺、調布などの近隣市に、いくつもの小さな市場があった。
1月2日に初競りがあり、市場が開かれた。
初競りには、ご祝儀相場などと言い、高値が付けられたこともあり、出荷する農家も多く、1月1日から、大根の出荷の準備を行ったり、とりこんであった白菜の荷造りを行ったりして、市場へ出荷した。
父が市場よりかえると、朱書きの「祝初荷」ののぼりを土産に持ち帰り、子供たちは取り合いをしながら、のぼりを靡かせて走り回り一頻り遊んだ。

かきぞめ

2日は、新しい年になって、はじめて行う日を「こと始め」としていた。
母は、子供たちを集め、「こと始め」「書き初め」の説明をし、書き初めを行うと「字」書き方が上手になると話をし、毎年、学校の冬休みの宿題があったことから、習字をするように言いつけた。
子供たちは、はしゃぎながら墨をすり、前に使ったときにしまい方が悪く、曲がった筆先を湯で直したり、新聞紙で練習もしないで清書用の半紙に書き出す始末で、「お正月」「謹賀新年」「初春」などの課題の文字を書き、手や顔、服にまで、ひどい時には、畳や障子まで練習をし、ひどく叱られ、午前中を過ごした。

お年賀、親類回り

1日には、父の兄弟が訪れ、お年玉やお土産を持参するので大変楽しみであった。
しかし、お年玉をいただいた記憶はなく、後で母に聞いてみると、いただいたけれど子供たちには手渡さず、家計の足しにしていたという。
今の子供たちのように、お年玉をいただく予測や計算をしたことはなかった。

父の母の実家

2日には、父の母親の実家にお年賀に出かけた。
父は、12歳の時に母を亡くしていることから、また、父の妹が嫁いでいたこともあって、正月に限らず、よく訪ねて行ったようで、当時の父の子供のころや青年時代などの話を伺う事がある。父の母の実家は茅葺屋根で、大変大きな家で、土間の隣りの板敷きの部屋に、大きな囲炉裏があって、大きな自在かぎが天井から下がっていた。
囲炉裏の大きさに驚き立っていると、大きなおばーちゃんが出て来て、「かけろ。」と言った。私が父に連れられて行ったときには、まだ、父の母の兄弟、跡取りの奥さんが高齢であったが、元気で、大きなおばあちゃんであって、大変印象深く覚えている。
大変な歓待を受け、次から次へと、きんとん、かまぼこ、イモなどの料理をとってくださり、「食べろ、食べろ」と勧めてくれた。
しかし、私は、朝の雑煮を腹いっぱい食べてから伺ったものだから、なかなか食べることができずにいると、「そんなもんじゃ、デカクなれねーぞ、たべろ。」と勧めることしきりであった。
囲炉裏の灰の中から、餅を取り出し、両手でパタパタと灰を落として、希醤油を付け、海苔を巻いてくれた。そうこうしているとうどんが出された。

「小平うどん」「地粉うどん」

米のできない、畑作中心の農家では、最上級のおもてなしであった。
うどんは、うっすらと色がつき、粉にひくときに、いちばん内側の皮を完全にとりぬかず、真っ白になるまでは精白せずに利用した。当時は手打ちで、前日に粉をこね、1日寝かしてからうどんに切られた。
我が家のうどんより太く、腰のあるうどんで、汁を付けて食べる、つけうどんであった(現在「は小平うどん」として商品化されている。)。
薬味には、ネギ、七味、糧には、大根、ニンジンの千切りの素湯でしたもの、金平ごぼうが添えられた。

凧揚げ

なかったことから、の道から来た風を受け南側に向けて行われた。
父はよく近所の子供を誘い行っていたが、なぜ凧揚げを決まって行っていたのか、訳を聞いたことがないが、子供のころには貧乏で凧を買うお金がなくできなかったことや、古き時代へのノスタルジーを感じていたことなどが伺えた。
また、父は、大きな角凧、奴の絵が描かれた奴凧、トンビの絵が描かれ、姿が似ているトンビ凧を使用し空高く舞い上げていた。
角凧へは、上にゴムの唸りを付け、長いしっぽを下の両側につけた、奴凧には足の下に長いしっぽを付け、トンビ凧はそのままで、凧あげを行った。角凧は扱いやすかったが、奴凧、トンビ凧は目付きをしっかりしておかないと、くるくる回り扱いが難しかった。

大凧つくり

私も父の姿を見て、凧に興味を持ち、自分の身の丈の大きさの凧を、竹を組み、紙ではなく布を張り、浮世絵をまねた絵を描き凧を作り、兄弟を連れて凧あげを行った。

大きな凧は、糸も太く操作を行うにも力が必要で、風の強い場所を探すことが必要であった。
また風の強い日には糸が切れ、遠くに飛んで行ってしまう事もあり、高い木の上に落ちてしまう事もあり、それをうまく卸す技術も必要であった。
飛行場で揚げた時は、飛行の邪魔になると怒られ、退散したこともあった。

七草

正月七日は、五節句の一つで「人日の節句」、「七日正月(七日正月)」、「七草」と言われ祝われる日である。
朝食に七草入りの粥を食べて祝い、中国の風習が日本に伝わった ものと言われる。
元旦から続けられた正月行事を終える、神棚の正月のお供え物や飾りをすべて外す日でもあり、松の内最後の日となる。七草粥は、芹(せり)、薺(なずな)、御形(ごぎょう)、繁縷(はこべら)、仏の座(ほとけのざ)、菘(すずな)、蘿蔔(すずしろ)の「春の七草」を入れる。
この季節の若葉を食することで、七草を食べると一年間病気にならないと言われ、無病息災・長寿を願うもので、調理する時は、包丁で大きな音を立て、刻むことが習わしである。

「春の七草」は、芹は香りが強く、食をそそり、薺はペンペン草とも言われ、利尿、止血、解熱効果があり、繁縷は利尿効果、御形は、母子草と呼ばれ草餅にも使用され、仏の座はコオニタビラコの別名、菘は蕪、蘿蔔は大根である。

七草雑煮

七草を入れた粥を作り、餅を入れたもので、当時は、現在よりも気温も低く、青葉の少ない季節であり、ビタミンを取り入れるため、ごちそう続きで疲れ体調を整える効果があるとされた。七草すべてが揃わなくてもよく、七草粥だけでは腹もちが悪いこともあり、餅を入れたものを、七草雑煮と言う。

七草粥・七草雑煮

春の七草、カブ大根は自家製の野菜を使用し、他の草は市配の物を買い求め活用し、七草を焚きこんだ粥を焚き、餅を入れて煮込み食した。七草粥を仏壇にお供えする。

鏡開き・蔵開き

十一日に年神様にお供えしてあった餅を七草の日におろし、歴代天皇の継承する三種の神器の一つ八田の鏡をかたどったとも言われる鏡餅で、鏡開きでは刃物を用いずに、手や木づちではがすようにし、(餅は乾燥すると?がれるようになるため、大きなものは数日掛けてはがした。)「切ると」言わずに「開く」と縁起の良い言葉を使った。

その餅を雑煮に造り食べた。また鏡開きと同時に、閉めていた蔵を初めて開く日としても、五穀豊穣や、商売繁盛を願い祝った。

鏡餅を料理と餅で菓子を作る

鏡餅は、乾燥し固くなり、刃物ではなかなか切ることができず、さらに乾燥するとはがれるようになる。水につけ、ぜんざいや汁粉に入れ食べた。また細かく砕き、油で揚げて、あげ餅として、火で炒って、砂糖醤油などをかけ味を付け、あられとして食べた。また火鉢の熱い灰の中に入れ、焼いて、灰を落とし、醤油を付け食べた。

日頃は大きな火鉢が座敷におかれていたことから、雨の日や夕方暗くなると子どもたちは火鉢の周りに集まり、硬くなった餅を熱くなった灰の中に入れ、柔らかくなったころを見計らって取り出し灰をはたき落とし、醤油をつけて食べるのが楽しみであった。

鏡ひらき・くら開き

鏡開き・蔵開きの日である。我が家には蔵がなかったが、暮れの餅つきの日には2升餅をお供えにして、床の間に飾っていた。
このお供え餅がこの時期になると包丁で切ることはできず、表面からめくれあがってきたものを剥がすようにして、小さくした。
一口大の物は、火鉢の灰の中に入れ、上記がぷーと吹き出すと食べごろで、灰をはたき落し醬油をつけて食べるのが子供のおやつとして楽しみであった。
また、油であげてあげ餅として、さらに小さくなったものは火であぶり、良い加減の所で、塩を振り、醤油をふりかけ霰として菓子に仕上げ、子供のおやつとなった。
現在では、神棚にお供えしたお餅、鏡餅もプラスチックでできた物の中に、小さな餅が入っていて、カビることはない。
この火のお雑煮は、鏡餅を砕いたものを使用し、仏壇、荒神様にお供えし、今年の五穀豊穣と、ご加護を祈る。

15日 小正月

「小正月」とは、旧暦の新月から三十日までの中で、新年最初の満月にあたり、満月の日を目でたい日として祝った。
また、悪霊を払い、豊作を祈願する行事で、また「あづきかゆ」を神棚にお供えし、無病息災を祈願した。

「小正月」には餅花や飾り花などを創り飾り、小豆粥を創り、餅を入れ「あづき雑煮」として食べた。

今日は小正月、小豆粥を炊く日であり、旧暦で最初の満月の日であり、「小正月」「望正月(もちしょうがつ)」と言われ祝われた名残である。
我が家では小豆粥を炊き、その中に餅を入れ「小豆雑煮」として、仏壇、荒神様にお供えし、灯明を燈し祈り、魔除け、健康と厄除けを願い食した。
味付けは薄塩でつくられたが、あまりおいしいものではなく、醤油や、砂糖をかけて食べるのが普通であった。

餅花飾り

我が家では早くに取りやめてしまったが、大正年間まで蚕の産地であったことから、ミズキ、ヤマボウシ、さくらなどの枝を1件の長さに切り、その枝に、熱湯で練った米粉を、半分は赤色の色を付け、繭の形を模しただんごを飾り、みかんやゆずも彩に一緒に付けられ、仏壇や神棚の近くに樫の木の葉を根〆にして飾られた。
赤白の餅橙色のミカン、黄色の柚子、樫の葉の緑色のコントラストも良く、座敷の中が華やいで見え、子供は枝の下を燥いで潜るなどあそび場となった。
餅やミカンの重みで枝が撓ると、稲穂が籾を沢山つけた形になることから、縁起の良いものと考えられてきた。
飾られた餅は、後日、枝から外され火であぶり、お茶菓子として楽しんだ。
小豆粥・小豆雑煮・雑煮

小豆雑煮

「小豆雑煮」はうすいしおあじの茹であずきを入れた粥をたき、子供のころには、あまりおいしいものとはいえず、砂糖を入れ甘くするか、醤油をかけて、食べやすいようにして食べるのが普通であった。

「里帰り」「藪入り」

家事などで働き通しだった嫁、女性が、新年の挨拶や骨休みの為、実家に里帰りをする。

藪入りの日(旧暦一月十五,十六日)

嫁が里帰りを済ませて戻る日、奉公人がお年玉をもらい、正月のお年賀や土産の大きな包みを抱えて実家に帰る日
参 考 小正月(こしょうがつ)とは、元日(または元日から1月7日まで)を大正月と呼ぶのに対して正月15日の行事である。
または、14日から16日までの3日間、または、14日の日没から15日の日没まで、または、望(満月)の日、または、元日から15日までの15日間ともされる。

二十日正月

正月にお迎えした神が、早朝にそれぞれの場所にお帰りになる日とされている。雑煮をつくり、神棚にお供えした。

繭玉

「餅花」餅や団子を小さく丸めたものを欅(樫)木の枝につけて花のように神棚の近くの柱に取り付けて飾り、豊作を祈る行事であり、三鷹市は大正年間まで盛んに養蚕がおこなわれていたことから、米粉を白と染粉で赤く染めた、団子にしたものを付け、繭玉とも言われる。

えびす講(夷講・恵比寿講・恵比須講・蛭講・戎講)

普段お祭りしている社より、恵比寿・大黒を出して、台に並べ置き、漁業の神様として、尾頭付きを二匹、雑煮または、小豆を炊きこんだ小豆飯をお供えし燈明を燈し、商売繁盛、無病息災、大願成就を祈る習慣である。昼にはお供えしたものを下げ、うどんをお供えし、下げたものは夕飯に食べた。
竈の黄人や稲荷社など、福徳や福運をもたらす神を祀る福神信仰の一つである。

尾頭付き

尾頭付きは、本来では鯛なのだが、一二月二〇日には大きな鯖を、一月二〇日には大きな鯵と決めていた。
早めに魚屋さんに購入に行かないと、大きなものはなくなり、その時は小さなものでも、尾と頭が付いていれば良いかなどと笑い飛ばしていた。家族で雑煮や小豆ご飯を食べ、お参りをした。
子供は、お金を三方に載せておくと金が増える、金に苦労しないなどと言われ、こずかいを水で洗い清め、ざるに入れて、五穀豊穣、商売繁盛を祈念し、一日お供えし祈た。

また小ざるに、こずかいの小銭を井戸で洗い、お供えをすると、将来銭に困ることはなく、銭が増えると言われた。

写真は、普段の神棚と恵比寿講の日の祭壇戎大国様はマスの中にお座りいただいている。

神棚

恵比寿講の日の祭壇

大黒天

頭巾をかぶり、右の手に内での小槌、左手に大きな袋を持ち、米俵の上に乗っている。厨(台所)の神、大国主命とも習合し、商売繁盛、田の神として豊穣の神として信仰されてきた。

恵比寿天

福徳の神・恵比寿様を祀る行事で、恵比寿神は過座おり帽をかぶり、右の手に釣竿、左手に大きな鯛を抱えている。
商売繁盛、豊漁、豊穣の神として信仰されてきた。農業は天候などにより収穫量に影響されることから農家の努力だけではどうにもならないことがあり、豊作を祈願し、また感謝をする日である。地域によっては1月のえびす講を商人えびす、10月のを百姓えびすと呼ぶこともある。

大黒天

頭巾をかぶり、右の手に打ち出の小づち小槌、左手に大きな袋を持ち、米俵の上に乗っている。厨(台所)の神、大国主命とも習合し、商売繁盛、田の神として豊穣の神として信仰されてきた。

弁財天

近世になると「七福神」の一員としても信仰されるようになる。室町時代の文献に、大黒天・毘沙門天・弁才天の三尊が合一した三面大黒天の像を、天台宗の開祖・最澄が祀ったという伝承があり、大黒・恵比寿の並祀と共に、七福神の基になったと見られている。

弁財天は、元来インドの河神であることから、平安初期から末期にかけて仏僧が日本各地で活躍した水に関する事蹟(井戸、溜池、河川の治水など)に、泉、島、港湾の入り口などに、弁天社や弁天]として数多く祀られた。弁天島や弁天池など地名として残っていることもある

弁才天は財宝神としての性格が強調されるようになると、「才」の音が「財」に通じることから「弁財天」と書かれることも多くなった。鎌倉市の銭洗弁財天宇賀福神社はその典型的な例で、同神社境内奥の洞窟内の湧き水で持参した銭を洗うと、数倍になって返ってくるという信仰がある。

井の頭弁財天

武蔵野三大湧水と呼ばれる石神井川水源の三宝寺池、善福寺川水源の善福寺池、神田川水源の井の頭池には、いずれも弁天社(厳島神社)、善福寺弁財天、井の頭弁財天が置かれている。

毘沙門天

日本では四天王の一尊として造像安置する場合は「多聞天」、独尊像として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼ぶ。庶民における毘沙門信仰の発祥は平安時代の鞍馬寺である。
福の神としての毘沙門天は中世を通じて恵比寿・大黒天にならぶ人気を誇るようになる。室町時代末期には日本独自の信仰として七福神の一尊とされ、江戸時代以降は特に勝負事に利益ありとして崇められる。

七福神(しちふくじん)

七福神とは、福をもたらすとして日本で信仰されている七柱の神である。七柱は一般的には、恵比寿、大黒天、福禄寿、毘沙門天、布袋、寿老人、弁財天とされており、それぞれがヒンドゥー教、仏教、道教、神道など様々な背景を持っている。

 大黒を台所の神として祀ることは最澄が比叡山で始めたことで、それが徐々に民間に広まったという。これが民間において日本の土着信仰の神である恵比寿とセットで信仰されるようになったと言われている。平安時代以降、京都の鞍馬の毘沙門信仰からはじまった毘沙門天を恵比寿・大黒に加え、三神として信仰されることが起こった、平安でぃあ」末期?鎌倉初期の頃、近江の竹生島の弁天信仰が盛んになると毘沙門天ではなく「恵比寿・大黒・弁才天」とするケースも増えていった。

 室町時代、仏教の布袋、道教の福禄寿・寿老人なども中国から入ってきてそれぞれに知られるようになり、それらをまとめて七柱の神仏のセットができたのは室町時代末頃、近畿地方から始まったものである。この頃は銀閣寺に代表される東山文化の時代。中国の文化に影響され、大陸的な水墨画が多く描かれた。もてはやされた画題は『竹林七賢図』(竹林の七賢人)。この絵に見立てて、人々は別々に信仰されていた7つの福の神を集め、七福神とした。

恵比寿

伊邪那岐命・伊邪那美命の間に生まれた子供「蛭子」(ヒルコ)、もしくは大国主神の息子である「事代主神」(コトシロヌシ)などを祀ったもので古くは「大漁追福」の漁業の神である。時代と共に福の神として「商売繁盛」や「五穀豊穣」をもたらす神となった。唯一日本由来の神である。

大黒天

インドのヒンドゥー教のシヴァ神の化身マハーカーラ神。日本古来の大国主神の習合。大黒柱と現されるように食物・財福を司る神となった。また親子関係から恵比寿と並んで描かれることが多い。

毘沙門天

元はインドのヒンドゥー教のクベーラ神。福徳増進の神であったが、仏教に取り入れられてから、戦いの神としてしだいに民衆に信仰される。日本では毘沙門天(ヴァイシュラヴァナ)と呼ばれる。

福禄寿

道教の宋の道士天南星、または、道教の神で南極星の化身の南極老人。寿老人と同一神とされることもある。長寿と福禄をもたらす。

布袋

唐の末期の明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したといわれる仏教の禅僧。その太っておおらかな風貌が好まれ、手にした袋から財を出し与えてくれる。弥勒菩薩の化身ともいわれている。

出典:フリー百科事典「ウィキペディア」

寒餅ち

二四節気の一つで、太陽の黄径が300度のときで最も寒い時期を言う。

寒の入りから立春になる寒の開けまでの間の一年で最も寒い時期を「寒」と言う。
小寒とは、大寒に向けて寒さが極まるやや手前の時期で、二四節気の一つで、太陽の黄径が300度のときで最も寒い時期を「大寒」と言い、大寒の時期より寒く感じていた。「寒」の内につく餅を寒餅と言う。伸し餅を搗く量は多くないが、その他に、搗き上がった餅の中に、ゴマや炒った大豆を入れ、なめこ状に作る。
伸し餅は半乾きの時に小さなサイコロ状に切り、乾くまで干して貯蔵し、必要な時に、炭火で焼くか油で揚げてあられを作った。
またなめこの形の物は、うすく切り、干して乾燥し、必要な時に、炭火で焼き煎餅として食べるか、油で揚げて、あげ餅として食べた。

水餅

餅を保存するときは、寒い中家の中で置いておくと、緑色や黒い色をしたカビが生えるために、アルコールで拭くことや空気に触れないでおくために、水に浸しておく方法で防カビを行った。この方法も完全でなく、毎日水を変える必要があり、換えるずに置くと、打粉や餅の表面が溶け、ぬるぬるした水になり、さらには水にカビが繁殖することもあった。
餅を煮、焼くとすぐに溶けた状態になり、3月を過ぎると、焼き網の間から垂れ落ちるなど扱いの悪いもので、焙烙等で焼くなど、食感も落ちることとなった。

20日正月・恵比寿講

神無月(旧暦10月)に出雲に赴かない「留守神」とされたえびす神(夷、戎、胡、蛭子、恵比須、恵比寿、恵美須)ないしかまど神を祀り、1年の無事を感謝し、五穀豊穣、大漁、あるいは商売繁盛を祈願する。
地方や社寺によっては、旧暦の10月20日であったり、秋と春(1月20日)の2回開催したり、十日えびすとして1月10日や1月15日とその前後などに行うこともある。
えびす祭やえべっさんとも言われる。えびすを主祭神とするえびす神社のみならず、摂末社として祀っている社寺でもおこなわれる。
講のひとつであり、漁師や商人が集団で祭祀をおこなう信仰結社的な意味合いもあるが、えびす講は各家庭内での祭祀の意味も持つ。東日本では家庭内祭祀の意味合いが強く、また東日本では商業漁業の神としてのみならず、農業神として崇める傾向が西日本よりも顕著である。
地域によっては1月のえびす講を商人えびす、10月のを百姓えびすと呼ぶこともある。大寒である。
さすがに寒い日が続き、吹く風が極めて冷たい。
しかしながら陽だまりでは、黄色いラッパ水仙の芽が発芽し、葉を伸ばし始めている。
今日は20日正月とも言われ、また、恵比寿講として、毎年、戎大国宮からお出ましをいただき、祭壇を作り、尾頭付きの魚(今年は買い求めるのが遅く成り、店に行ってみると尾頭付きの魚はないと言われ、あちこちの売り場を探し、やっと手に入れたのがイワシであった。
古くは魚屋さんでは恵比寿講であることから尾頭付きを用意されていたものだが、昨今ではその行事を行う人も少なくなり、店頭では、ごみとなるお頭は取って売られていることに驚きを隠せなかった。)を戎大国にそれぞれ、雑煮をお供えした。
又、大国主命の種銭(大国主命の魂を頂いたお金を基に蓄財をすると大きな利益を頂けると言われてきた。他の神社では種銭を授けていただけるところもある。)はご利益も多く、大きいと言われ、小銭を洗い笊に盛り、種銭が大きな利益を生んでくれることを期待しお供えした。
大国主神(オオクニヌシノカミ)は、『古事記』『日本書紀』に登場する日本神話の神様で、スサノオノミコトの息子、また六世の孫と言われ、高天原からの使者に国譲りを要請された時には国土を献上したことから「国譲りの神」とも呼ばれる出雲大社の祭神です。
このオオクニヌシノカミは国造り、農業、商業、医療、縁結びなどの神としても知られ、呼び名の「大国」はダイコクとも読めることから大黒天(大黒様)と習合されている事も多い。
全国各地で種銭は買う事が出来ますが、大国主神社の種銭は特にご利益が高い事で知られている。よく耳にするのは財布に入れておくと宝くじに当たったと言った巷の声。金運をアップさせたい。
場所によると、大国主神社では、狛犬の代わりにいる「狛鼠」が鎮座し、その鼠が大黒様の持物である米俵と小槌を持ってい姿などもある。
『古事記』の中で、オオクニヌシノカミが火に取り囲まれた際、地下に洞穴があることを教え、その命を救った動物が鼠でした。
このように大国主神と大黒様が習合されていることを意識して神社に参拝してみるのも面白い。
恵比寿講の祭壇・隣にある銅製の大黒様は知り合いのブリキ屋さんが作成した、銅板一枚板からたたき出したもので、退職後に作成したもので、お伺いした時に戴いたもので、大国様が我が家に降り立つことは縁起の良いとしてお祀りしている。(その後まもなくお亡くなりになったと来ている。)

山茶花・石懐炉

小学校の低学年であったと思う。
冬になると今より厳しい寒さであり、古い我が家は家ジュウス間だらけの家で、寝ている蒲団の上に霜が下りるといった。布団の上に風の通り道には白い霜が下り、切るものもたくさんあったわけでもなく、昼間来ているものを着たまま布団にくるまり寒さに耐えていた。

小学校までは500メートルぐらいであるが、近所の子供たちと登校したが、学校につくまでに徐々に子供の数が増えていき、登校するのが常であった。

通学路の途中に山茶花の木があり、地面にはそのピンクの花びらが落ちており、メジロが花の蜜を求めて「チィツ ちぃ」と泣きせわしなく枝の間を飛び交っていた。子供たちは、手袋もなく、ポケットに手をねじ込み、首をすくめて下を向いておしゃべりをしながら歩いて通ったが、今より栄養状態が悪かったせいなのか、2本の青っ洟を垂らすものが多く、ハンカチや鼻紙を持つものもなく、それを上着の袖でふくものだから、袖口は鼻汁が乾きてかてかに光って固くなっていた。
手はあかぎれで血が滲み、しもやけで手を張らしているものもおり、冷たい北風は傷を容赦なく吹き付け、寒に入るまでますます気温は下がり、風は冷たうなり、北西風が吹いてくると、寒さで赤くなったほうをさらに赤くし、頬にあかぎれができることさえあった。山茶花その前に来ると必ず、決まって「山茶花」山茶花、山茶花咲いた道、の歌を北風に負けじと張り上げていた。このころになると決まって母親が、5~6センチで、ポケットに入る程度の石を竈で温めておき、新聞紙でくるみ手渡してくれた。
他の子供たちに見つかると、からかわれ、取り上げられてしまうのでそっとポケットに忍ばせて歩いた。

童謡 たき火

作詞:巽聖歌、作曲:渡辺茂

1.かきねの かきねの まがりかど たき火だ たき火だ おちばたき あたろうか あたろうよ きたかぜぴいぷう ふいている

2.さざんか さざんか 咲いた道 たき火だ たき火だ おちばたき あたろうか あたろうよ しもやけお手々が もうかゆい

3.こがらし こがらし さむいみち たき火だ たき火だ おちばたき あたろうか あたろうよ そうだんしながら あるいてく 

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