歳時記(5月の行事・農作業)

5月写真

5月(皐月さつき)

このページは、歳時記(5月の行事・農作業)をテーマに記載しています。

目次

行事一覧

1日 メーデー

連合では毎年この時期に、東京での中央大会に加え、各都道府県の地方連合会や地域協議会でも独自のメーデーが開かれ、大規模なイベントを実施しています。

日本では1920年5月2日に第1回メーデーが東京・上野公園で開かれました。第二次世界大戦中は政府により開催が禁止されましたが、戦後、労働組合の活動再開とともに再び開かれるようになり、日本の労働者の地位や労働条件の向上、権利拡大をはじめ、人権・労働基本権の確立、民主主義の発展、恒久平和の希求に深く貢献し、その役割を果たしてきました。

2日 八十八夜

雑節の一つで、立春から八十八日の日、八十八は一字に重ねると「米」になることから縁起が良いとされた。

茶摘み 茶摘みの最盛期、八十八夜に摘み取られたお茶八柔らかくて質が良く、不老長寿、縁起物の新茶として珍重される。

3日 憲法記念日

国民の休日、昭和23年(1948)公布日本国憲法の施行を祈念する日。

4日 みどりの日

みどりの日は、「国民の祝日に関する法律」により、5月4日と定められています。元々は4月29日でしたが、2005年の祝日改正法によって2007年から現在の日付に変わりました。

みどりの日は自然に親しむことや感謝することが目的で、豊かな心を育むという意味合いもある祝日です。

5日 子供の日 端午の節句

子どもの日

初節句には、屋外に鯉のぼり、屋内には武者人形、鎧兜を飾り、健康での成長を喜び祝う。

5日 子供の日 端午の節句

旧暦では、立夏から立秋前日までを、4月、5月、6月を夏とする。

府中 大國魂神社大祭

 

大國魂神社

5日 七十二候 立夏(りっか)

5~9日 初候 蛙始鳴 (かわずはじめてなく)

野原や田んぼで、カエルが鳴きはじめるころである。田には蛙、畑作業中にもガマガエルが出てくる季節となる。

10~14日 次候 蚯蚓出 (みみずいずる)

蚯蚓が土の中から出てくること。蚯蚓は土の中の有機物・腐植を食べ糞にする、土の中を移動することから、土を肥やしてくれる。乾燥畑や、植物の残渣など食料となるものがないところでは生育しないことから、肥えた土には蚯蚓が多いと言われる。

15~20日 末候 竹笋生 (たけのこしょうず)

筍がひょっこり出てくる。孟宗竹は3月中旬から、真竹は5,6月に旬を迎える。三月に生えた竹は、四月五月に成長し、六月には節から枝が生じ葉を広げ若い竹となる。

21日 七十二候 小満(しょうまん)

21日 七十二候 小満(しょうまん)

21~25日 初候 蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)

蚕はなん前年も人に飼われ、桑の葉が新芽を出す時期に孵化するよう改良されたために、人に飼われないと、生きていけない。

26~30日 次候 紅花栄(べにはなさかゆ)

紅花が咲き乱れる時期、染料にするアザミに似たとげのある花、紅の染料が取れ、口紅も取れる。

31~6月4日末候 麦秋至(むぎのときいたる)

麦が実りの時を迎え、収穫期となる。「麦秋・麦秋」ともいう。

暮らしの記憶

メーデーの写生大会

中学生になるとメーデーに日は、先生がメーデーに参加するために、全校で写生大会が開かれた。

1年生の時には、現在のホタル村のレンゲがピンク色に咲く田圃で、水車小屋を写生し、水彩画を描いた。全校で最優秀賞(絵は現存していない)を、ぺんてるの12色の絵具とともに頂いた。毎年のことであったが、佳作には選ばれるのだが、賞はこの時ばかりである。

立夏

立夏とは、しだいに夏めいてくることである。新暦5月6日頃。春分と夏至の中間、山野に新緑が目立ち始め、爽やかな風が吹き、晴天の時が多く、空は高く青空が広がり、夏の気配を感じる季節。

旧暦では四,五,六月が夏で、猛暑、中夏、季夏あるいわ初夏・仲夏・晩夏と言われる。

五月晴れ

新暦の 4月後半から 5月の梅雨前に日本列島が大きな移動性高気圧に覆われたときの晴天。発現期間は短い。近年は,一般に新暦 5月の晴天をいう。 五月のすがすがしい晴れ。もとは旧暦五月の梅雨の晴れ間を指した。

移動性の高気圧や低気圧が交互に日本付近を50km/hぐらいで東進するからで,移動性高気圧型は春,秋を代表する気圧配置でもある。移動性高気圧が日本を覆うと,日中は暖かく晴れ上がり,五月晴れ,秋晴れなどと呼ばれる好天となる。しかし,夜から朝にかけては放射冷却による冷え込みが強く,晩霜や初霜の被害の起こることがある。

みどりの日

4月29日だったみどりの日は、元々昭和天皇の誕生日を祝う「天皇誕生日」でした。昭和天皇は幼少のころから生物に深い興味を持たれており、生物学者として多くの研究をなさっていました。新種の深海生物を発見されたことも知られています。植物にも造詣が深く、自然をこよなく愛した昭和天皇にちなんで、みどりの日と名付けられたのです。

憲法記念日

憲法記念日は、「日本国憲法が施行された日」を記念するもので、実際に施行されたのは1947年5月3日で、その翌年には祝日法により、国民の休日となりました。憲法記念日を挟む5月1日から7日は「憲法週間」とされており、法務省や裁判所などが憲法の意義や理解を深める活動を行っています。

日本国憲法は、1946年11月3日に公布されました。公布された日が記念日にならなかった理由は、戦後の歴史的背景が関係し、11月3日は、明治天皇の誕生日でもあったことが大きな理由です。

旧憲法の「大日本帝国憲法」における主権者は天皇でしたが、日本国憲法では国民主権になりました。第二次世界大戦後、日本を占領していた連合軍の総司令部であるGHQは、再び憲法と天皇を結びつけることに難色を示しました。同じ過ちを犯さず平和な国として成長するには、天皇と国民の関係性を弱める必要があると考え、11月3日を憲法記念日にするという案に強く反対したといわれています。

八十八夜

立春から数えて八十八日に当たる雑節の一つ。五月二日頃、三日後は立夏であり、夏の準備を始める重要な節目である。八と八と末広がりの文字が重なることから、縁起が良いとされた。この時期に摘まれる茶は、新茶は不老長寿の縁起物として珍重された。

八十八夜の分かれ霜

この頃になると霜の害の心配がなくなり、「八十八夜の分かれ霜」と言われ、また、稲の苗がちょうど縫い針の太さぐらいに成長することから「八十八夜の針丈」と言われ、稲の成長により季節の遅い早いの目安とした。米や農作物の種まきの敵機となり、八十八は「米」ともなり、稲作地帯では、稲作に関わる行事が多く行われている。

夏果菜の定植が終わり、八十八夜を迎えるまで、霜が降りないか大変心配であった。これまでに夏果菜類の苗に被害が出た記憶はないが、霜が心配で、むしろや藁をかけ、畑でゴムのタイヤを燃やし、降霜に備えた記憶がある。

「神様に感謝を伝える」「それを通じて神様より力を頂く」祭事で有り、大祭を運営する精神こそが伝統となる。府中の大国魂神社では、四月三〇日品川海上禊祓い式に始まる、五月五日の神輿渡御(みこしとぎょ)を中心として、「くらやみ祭り」(大国魂神社例大祭)が行われる。三日の競馬式(駒比べ)、四日の万灯(まんとう)大会、山車(だし)行列、囃子の競演、五日の威儀物行列、「太鼓送り込み」饗宴(日本最大のお太鼓御先払いお太鼓を始めとする各宮六基の大太鼓)、暗闇の中での「神輿渡御」(各宮八基の大神輿)などさまざまな行事が行われる。

大国魂 平成二九年春号、パンフレット「武蔵府中くらやみ祭りより引用

大国魂神社の歴史や祭礼の歴史伝統については、多くの研究や著述がある。また、パンフレットが発行されていることから詳細についてはそれぞれに研究されたい。

子供の日

国民の祝日で、「子どもの人格を重んじ、こどもの幸福を図るとともに、母に感謝する日」として、昭和二三年(一九四八)年に定められた。三月三日の女子の節句と対応させたことから始まった。  

端午の節句ともいう。こどもの日(こどものひ)とは、日本における国民の祝日の一つで、端午の節句である5月5日に制定されている。 日本において端午の節句は江戸時代以降男の子の記念日となっているが、「こどもの日」は男女の子供の区別はない。

また、子供を産んでくれた母に感謝する日でもある。屋外に鯉のぼりを立て、屋内には鎧兜の人形、武者人形、鍾馗様、屈原人形、崇神天皇、金太郎がクマにまたがった姿の人形などが飾られた。

こどもの日の食べ物といえば、やはり柏餅。ふんわり漂うカシワの葉の香りが、おいしさを増してくれる。

カシワは、新芽が育つまで冬の間も古い葉が落ちないことから、「子孫繁栄」につながるとされる縁起のいい植物。朝早く起きると母が米粉を熱湯でこねたものを一つ分づつ団子状に丸め、手伝いの私は、1升升の裏を使い丸い団子状の物を載せ、5合升の裏を押し当てて、丸い煎餅状に伸ばすのが役割だった。母はそれを半分に折り曲げ間に、昨日から作っていた小豆の安を挟み、柏の葉で包み、蒸籠に並べ、蒸すと出来上がりである。

神棚、仏壇に柏餅をお供えし、端午の節句の内幟の前に膳を置き、柏餅をお供えし子供の成長に感謝し、これからの成長のご加護を願い祈り、お参りする。

端午の節句

5節句の一つで5月5日(こどもの日)で、端午の節句、あやめの節、重五、端陽とも言われる。「端」は初めの意味で、月始めの午の日を差す。また「午」と「五」と同音で有ること、月と日の数が重なる日を祝日とする習わしがあったことから、五月五日を端午と定めたとされる。

菖蒲・菖蒲湯

菖蒲

旧暦五月(現在の暦で六月頃)の時期(悪月)は高温多湿で伝染病や害虫に悩まされる時期だった事から、中国の古い習慣から、薬草とされる勝負を軒先に飾ったり、菖蒲湯に使ったり、菖蒲酒を飲むなど邪気や疫病をはらう風習が古くから伝わっていたと言われる。

菖蒲湯​

江戸時代には「菖蒲」が「尚武」(武事を尊ぶ)に通じる事から、勇ましさの象徴となり武家に生まれた男子の成長を祝う日として定着し、庶民に広まったとされる。

端午の節句に菖蒲(しょうぶ)を用いるのは、古代中国から伝わる風習で、屋根につるして魔除けにした。

菖蒲にはアサロンやオイゲノールといった精油成分が含まれ、また、お風呂に入れて菖蒲湯にすると、暑い夏を健康に乗り切れるとも言われている。

二男が家族で来訪するとのことで、立てた鯉のぼり。レタス、エンドウ豆を皆で収穫し、ジャガイモができた時には皆でジャガイモ堀をする約束をする。

鯉のぼり

端午の節句の飾りで、戦国時代の幟(のぼり)が起源とされ、中国の「黄河上流の竜門にのぼることができた鯉は化して龍になる」と言う竜門伝説を受けて、鯉は流れに逆らって上流へ向かう事から出世魚と呼ばれ、子供の無病息災と立身出世の願いを込めて飾られる。明治になると、薫風を受けて泳ぐ鯉の姿は男児の好ましい姿を現すとして盛んに鯉のぼりが用いられるようになった。

立派な農家では檜(ヒノキ)の5間竿を家族総出で建て鯉のぼりを飾り祝った。神様に男の子の誕生を知らせ、守護を願う目印として飾られた。竿の先端に、金属で作られ、金色に輝く、カラカラと音を立てて回るため、神が降臨する目印となる。また、鯉が龍となって天に昇るのを導くとする「天球」を飾る。その下に、武将が持つ弓矢のやばねで輪に作られ、風を受けるとくるくると回転する、魔よけの意味がある「矢車」を飾る。

その下に、滑車を使い鯉のぼりを上げ下げできるロープを張り、最上部に、家紋を入れることにより家を表し、古代中国の5行節を元に、緑(青)、赤、黄、白、黒の5色が合わさると魔よけとなる言い伝えにより、魔よけの意味をあらわす「吹き流し」、次に、黒色の「真鯉まごい」、赤色の「緋鯉」、青、緑、紫、オレンジなどの「子鯉」の順で飾る。

初節句・祝善

男児が無事生まれ成長していることを喜び感謝し、さらなる健康に成長を願い祈る行事。生後二十一日前の場合は次の年に行う。五月人形を飾り、鯉のぼりをあげ、柏餅や赤飯、煮物、うどんなどの御馳走を作り、嫁の実家や親類、近所の者を呼び振る舞う。嫁の実家では、五月人形や鯉のぼりを贈り祝う。

 

武者人形

武者人形

子供が強くたくましく育つことを願い、厄歳から守ってほしいという願いから、鎧・兜などの武具

柏餅

柏餅

柏の葉は、日本で古くから食物や酒の肴を盛るのに使われてきた。柏の木は、四,五月ごろ、新葉と共に木褐色の花を咲かせる。若い葉がでるまで古い葉を落とさないため縁起の良い木とされ、「跡継ぎが絶えない」ように願いを込めて、男の子の成長を祝う端午の節句にその葉を用い柏餅が作られるようになった。古くから、屋敷の中に柏の木が植えられている。

柏餅の作り方

柏餅は後継ぎが生まれ初節句に、縁起物として親類や近所に贈る風習がある。子供の誕生、成長を喜び、無事に成長することを願い祈り、内祝いとして幸運や徳を分かち合い共に喜ぶ習慣である。

柏餅は生のしん子(うるち米の粉)を練り、我が家では、桝の裏側で押し、平均に丸く平らに作り、餡子を包み、蒸かした後に柏の葉でつつみ巻き仕上げる。

神功皇后

朝鮮半島の国家・新羅を夫である仲哀天皇の急死の悲劇の上に臨月の体で、朝鮮半島の国家・新羅を降伏させ、出産後、子を守り、揺るぎない信念のもとわが子を教え導き、長い間政治を行い、第十五代天皇・応神天皇を育て、応神天皇はのちに「戦いの神・八幡神」として後々武士から厚い信仰を集めることとなった。その「八幡神の母」として広く信仰されることとなった。神功皇合は今流に言えば、夫を早く亡くし、働きながら子供を育て、天皇の位へと導いた、子育ての神様であり、働くお母さんの見方である。

鐘馗(しょうき)

鐘馗は疫病を追い払うという神。大きな目と長いひげ、右手に剣を持ち鬼を祓う。絵や幟には子供を疫病から守る願いを込めた。

兜飾り

兜飾り

端午の節句に飾り、身を守る鎧兜を飾り、男の子の成長を祝う。

金太郎

平安時代の武将坂田金時、子供のころは金太郎と呼ばれ、熊と相撲を取るほどの元気な子供で有ったことにあやかり、元気で丈夫に育つことを願いを込められる。

菖蒲

菖蒲

古くは「あやめ」と呼ばれ、「花菖蒲」初夏に紫や白い花を咲かせ、花径の先にきろい筋があるのが特徴とは別種、菖蒲には解毒作用があり、医薬として、また創傷などの民間薬として用いられた。また、根や葉を刻んで浸した菖蒲酒、あやめ酒を飲む習慣があった。さらに打ち身などにも効果があり、湯に入れると疲れが取れるとされる。根茎には血行を良くする効果がある。

菖蒲には、芳香と形状から邪気を払う魔よけとして用いられ、強い香気と葉が剣の形に似ていることから、別名[水槽権]とも呼ばれ、門や玄関に蓬とともに刺たり、軒下につるす風習がある。

新聞紙の兜

新聞紙の兜

子供は、新聞紙や広告を兜状に降り、食べた柏餅の葉を飾り煮付け、頭にかぶり、棒きれを持ち「やーやー、我こそはなんのたれべーなるぞ、尋常に勝負しろ」などと合戦の真似をし大いに燥いだものである。

屈原と粽(くつげんとちまき)

国と人民に尽くした屈原は、死んだ後もいっそう人々に惜しまれ、多くの粽(ちまき)を川に投げ入れて国の安泰を祈願する風習に変わり、病気や災厄(さいやく)を除ける大切な宮中行事、端午の節句となったと言われている。三国志の時代に端午の節句は、魏(ぎ)の国により旧暦五月五日に定められ、やがて日本にも伝わってきた。

ちまき

粽

中国伝来の食べ物で、笹の葉、茅の葉にもち米を包んで蒸す。端午の節句の供え物としたのは、中国の戦国時代に、その国の屈原と言う忠臣が五月五日に湖で水死した事を人々が悲しみ、命日に竹の筒にコメを入れて投げ込んだところ、「米は茅(茅草)の葉でつつみ、糸で結んでほしい)と屈原の霊が言ったという伝承に基ずいている。

茶の栽培と歴史

茶樹は中国西南部が原産地とされ、日本に伝わったのは平安時代とされている。近所の年寄りに聞くとこの地域で俵1俵の茶の実を求め、近所で分け植栽したと言われている。茶の木は、火山灰土である畑の土壌が風による移動を抑えるために畑の境界にそって植えられた。茶の木は花がよく咲き沢山の実を付ける。発芽率がよく増殖に苦労がなかったことから植栽されたものと伺える。また、茶の実の発芽は、水分を吸収する直根がまず下に伸び、枯れる事がないことから土地の境界を後で確認する上で、根を掘って確認できる印としても植えられた。

茶の樹は太い枝を剪定しても必ず新芽を出す、小枝を剪定するとそこからまた芽を出す習性があることから作物としての利用価値があり、農産物として販売も可能で、現金収入ともなった。

茶摘み

秋に刈りそろえた茶の木に新芽が出そろうと茶摘みの始まりである。早い摘み取りは質が良いが目方が稼げず、遅い摘み取りは軸が太くなり、葉が硬くなる。また、アブラムシが付いてしまうと、指先がべたべたになり、商品価値が落ちてしまい、出荷できなかった。出荷先は、近隣市のお茶の製造販売している工場に持ち込み販売した。

子供の頃の女性の仕事着・作業着は紺色の着物とモンペ姿で、頭には白い手ぬぐいを姉さんカブリであったような気がする。

1年に1~2回は「絣売り」絣の記事を売り歩く行商の人が農家を廻って歩いていた。

昭和40年以降、オリンピック以降はいつの間にか行商の人が回って歩くことがなくなった。

三鷹駅前に量販店ができたことも原因しているのかもしれない。

頂葉を含め5枚までの葉を削ぎ取る

扱き摘み(こきつみ)

早い摘み取りは、目一本一本を丁寧に摘むが、時期が遅くなってしまったような葉は、軸を残すように葉だけを扱き取り収穫した。

自家用製茶

特別に自家用の茶葉の新芽だけ(上3枚 芽を入れて葉3枚)を積み筵に広げておく、いい加減に積んでおくと茶葉が群れて味、香が落ちると言われ、時々、手でかきまわした。次の日には葉、茶の葉を蒸籠で蒸し(緑の濃いうちに卸す)また熱をとるために蓆に広げる仕事をし、父は火の熱が外に漏れないようにリヤカーの枠箱を外し炉として組み立て、中に七輪で練炭に火を付けその上にブリキの板を載せて炉の熱源を作り、その上に木枠の底にブリキを貼ったホイロを載せ、内側に障子紙を貼り、直接火や過熱が当たらないように工夫し、紙が焦げるとその上に重ね貼りし、その上で蒸した茶葉を縒り合せるようにしっかりと乾燥させた。大まかに熱をとって(冷めてからでは湿気を吸ってしまう)から茶ずつ(現存しているが、5升を入れる事ができる大きさ)に入れて保存した。

1年間に使用する分を加工することは大変な作業であった。熱い鉄板の上での作業で、焦がさぬように、熱い茶葉によりをかけるときなどは、汗がホイロに落ちジュと泡立つのが見えた。10時、3時のお茶の時間にはできたての茶入れ、柏餅や団子、塩抜きの梅干しに砂糖を付けたものを茶菓として今年の出来はどうかなどの茶飲み話に花を咲かせた。

茶は、我が家では茶の出がらしは最も嫌いとし、濃いめの茶を好んで飲んだ、人が来て茶を出すときは必ず入れ替えをして、濃い目の茶を出すこととしていた。

三鷹の田植え

三鷹市にも昭和30年代には、大沢、牟礼、北野、新川には田圃があった。三鷹市、武蔵野市、小金井市などが水道用の深井戸を掘ったために、井の頭、神田川沿い、牟礼、北野の湧水地から地下水が湧き出すことができなくなってしまった。また、玉川上水からの取水ができなくなり、用水が機能しなくなってしまったことが、田圃、コメ作りが衰退した。田圃は、三鷹の田圃の水温は低く、コメ作りには決して良い環境ではなかった。そのために、低水温でも生育が良好な品種改良をした農家があった。牟礼田圃で研究、開発された稲は、「梅沢早生」といわれ、研究農家が現存している。

水田が機能しなくなると、水を抜き、または埋め立てられ、都営住宅、公団住宅、建売住宅、公共施設、建売住宅用地などに活用する開発が行われた。

三鷹の稲作は、4月に畑に苗床をつくり播種を行い、肥培管理を行い、6月初めに、10~15センチに育った苗を、掘り取り、一本ごとになるように根の土を落として、一握り程度の束になるよう藁で束ねたものを苗とした。

畝間15センチ、株間15センチ程度に、1~3本の苗を植え付けた。なえが活着をすると生育が始まり、気温の上昇に合わせて株が充実し、7月末の温度が高温になると分傑を敷く気が立ち上がり、出穂の準備が始まる。この間の温度が低温になると、分けつや出穂に影響し終了に大きくかかわることとなる。三鷹の水田は大方湧水を利用するため、梅雨期にによる日照時間の不足により、水温が上昇しないことも多く、収量は上がらず、10アール当たり6俵が良いところであった。また取水後米の花が咲く時期に低温であったり、長雨が続くと授粉率が落ち、出穂しても実がつかない白穂が発生することもあった。持ち米はさらに少なく、10アール当たり4~5俵程度であった。

青竹

孟宗竹は3月中旬から、真竹は5,6月に旬を迎える。三月に生えた竹は、四月五月に成長し、六月には節から枝が生じ葉を広げ若い竹となる。1年経過したものを一年子といわれ、竹細工や利用には水分が多く、やわらかく、2~3年の充実したものを活用した。タケは、丸のままで、柱や竿、桟木として、割り裂いては、かごなど、かご屋さんでの加工に、農業では農業用資材として活用した。

たけのこは、市場出荷、自家利用など季節ものとして食用に利用した。

早掘りの高級食材のタケノコ

タケノコ

二月の半ば過ぎに、市場の仲買が農家を回り、まだ土の中から出てこないタケノコを買い付けに来た。季節の前取り、成長先の皮も刺身として、てんぷらとして、食べられることから、高級料亭で使用する高級食材として高値で引き取っていった。タケは常に一定のところだけでなく、外に外に広がろうと、地下茎を伸ばしてゆく、それを狙って掘るのだが、どこにあるのか探すのにはコツがあり、新しく地下茎を伸ばすときは、地表近くに地下茎が伸びるため、スコップで一定の深さで探りを入れ探し、元のほうから引き上げ地下茎もろともに掘り出した。超早掘りのタケノコは、10センチ程度のものが好まれた。

たけのこのあく抜き

たけのこは収穫直後からアクが増していきます。そのため、手に入れたらすぐに丸ごと茹でる。茹でるには、高さ(幅)のある鍋が必要です。たけのこの穂先を切り落とし、残りの身がすっぽり入るサイズのものを用意します。用意するもの・、米ぬか:一握り、赤唐辛子:1本、鍋、たけのこ

がかぶる量の水

切れ目を入れ、火が早く通りやすくなり、茹でた後に皮をむきやすくなります。

赤唐辛子には、えぐみを和らげる働きがあるといわれています。沸騰したら落としぶたをして、吹きこぼれないよう注意しながら、弱火で40分~1時間茹でる。茹で汁から浮き出て空気に触れていると、酸化して色が悪くなってしまいます。根元の太い部分に竹串を刺してみて、スッと通るようになったらOK。火を止め、「湯止め(鍋のまま冷めるまで置く)」をする。湯止めの目的は、たけのこからアクを出しきること。流水で冷やしてしまうと、アクがしっかり抜けません。

たけのこが完全に冷めたら、水洗いしてぬかをきれいに取り除き、縦に入れた切れ目から指先を入れて皮をむく。穂先の皮「姫皮」はやわらかくておいしいので、残しておく。

重曹を活用したあく抜き

重曹:水1リットルに対し小さじ1が目安

重曹

たけのこを適度な大きさにカットし、重曹を入れたたっぷりの湯で、弱火で30~40分茹でる。入れすぎると重曹のにおいが多少残ってしまうので、使う量に注意しましょう。たけのこの茹で上がりも、やわらかくなってしまいます。

重曹以外にも、米のとぎ汁で茹でる、または湯にお米ひと握りを入れて茹でる方法もあります。

たけのこを適度な大きさにカットし、重曹を入れたたっぷりの湯で、弱火で30~40分茹でる。入れすぎると重曹のにおいが多少残ってしまうので、使う量に注意しましょう。たけのこの茹で上がりも、やわらかくなってしまいます。

重曹以外にも、米のとぎ汁で茹でる、または湯にお米ひと握りを入れて茹でる方法もあります。

収穫後のたけのこは鮮度が命。手に入れたらすぐに茹でるのが、おいしく味わう大原則です。上手にアク抜きして、独特の歯ごたえや香りを堪能しましょう。

みみず

一般的なミミズの体の特徴は、細長く、たくさんの体節に分かれていることである。最先端には口前葉があり、ミズミミズ類にはここに眼点等があって、頭部と認識できる例もあるが、殆どのものでは極めて退化的で確認が難しい。 体表をよく見ると、体節ごとに短いながらも頑丈な剛毛が生えているのが分かる。この剛毛がスパイクとして機能することで、ミミズは体の蠕動運動を前方への移動へと結びつけることができる。一般にミミズといえば陸の土の中に棲息するものと考えられている。

しかしながら、水中生のものもある。ミミズは土を食べ、そこに含まれる有機物や微生物、小動物を消化吸収した上で粒状の糞として排泄する。それによって、土壌形成の上では、特に植物の生育に適した団粒構造の形成に大きな役割を果たしている。そのため、農業では一般に益虫として扱われ、土壌改良のために利用される。また、ミミズは1日あたり体重の半分から同量程度の餌を摂取し、その糞が良質な肥料や土壌改良剤として利用できることから、積極的に生ごみ等の有機物をミミズの餌として与え、その糞を肥料として利用するミミズ堆肥化という手法がある。 ちなみに、五日市あたりのミミズは、太さが手の親指以上あり、長さは30~50センチもある。

ミミズの研究・チャールズ・ダーウィン

進化論で有名なチャールズ・ダーウィンは、晩年、ミミズの研究もおこなっている。ミミズの土壌形成に果たす役割は人類社会において古くから知られていたが、それを最初に学術的に研究したのは彼であった[6]。利用して、重金属に汚染された土壌の浄化を行っている。畑ではミミズが土地改良に役立っていることが知られるが、これをより積極的に利用する方法として、容器に残飯や枯れ草を入れ、ミミズをここに飼って堆肥を作る、ミミズ堆肥という方法がある。

ミミズのたい肥作り

一時ミミズのたい肥作りがはやった。山梨の友人は、起業化できないかと研究したが、漫画本でも濡らして与えると餌になるが、餌がないと共食いをはじめ、餌の確保と供給が間に合わないと、起業をあきらめた。

ミミズの利用

鑑賞魚の他、カエルやイモリ、サンショウウオなどの両生類、トカゲなどの爬虫類、昆虫や蜘蛛形類、ムカデ、甲殻類などの節足動物、鳥類、小型哺乳類などの肉食動物の餌としても利用される。

タンパク質やミネラル、コラーゲン、ビタミンなど、栄養価豊富なミミズは世界各地で食材として使用されている。また、アメリカのカリフォルニア州などでは、ミミズを使った料理コンテストなども行われている。

ミミズに小便

古くから「ミミズに小便をかけると陰茎が腫れる」と言われるのは、雑菌が尿を伝わって陰茎に付くかも知れないという説と、田畑に養分を与えるミミズへの尊敬と感謝に由来する迷信であるとする説が主流である。

ミミズが鳴く

「ジー・ジー」と虫のような声で鳴くと言われているが、一般に「ミミズが鳴く」と言われる地面の下から響く鳴き声は、ケラの声であるとされる。ミミズには発声器官は存在せず、音を出すことはない。

犬は干からびたミミズの匂いが好き、という説があり、猫(あるいはネコ科の動物全般)に対するマタタビと同様の効果があるらしいことは、古くから知られていた。

私を育てた母、父の苦労

ミミズで解熱命拾い

漢方薬では「赤竜」・「地竜」または「蚯蚓(きゅういん)」と称し、ミミズ表皮を乾燥させたものを、発熱や気管支喘息の発作の薬として用いる。なお、民間療法が、日本各地に伝承している。 また、特定のミミズには、血栓を溶かす酵素を持つことも知られている。僕が幼少のころ、風邪をこじらせ、高熱が下がらず、心配をした母が、薬屋のご主人が、「試しにミミズを捕まえて、水につけ、泥を吐かせて、急須で煎じて飲ませてみなさい。」と言われ、早速試したところ、熱が下がったと言っていた。ミミズの犠牲のもとに僕は命拾いをした。

私は、2か月未熟児と生まれ、初の男の子として、跡取り息子として生まれ、ガマガエルの足を延ばしたような、骨と皮ばかりの小さな体つきを見ると、家族のものには、そだつのかどうかさえ疑られた。 お祖父さんは、母の体を心配して、田無まで生きたコイを買いに行き、今考えれば、コイを生きたまま、行きかえり徒歩で持ち帰ることの困難さを考えさせられた。後の話であるが、コイは、強い魚で、ぬれた新聞紙で包み、乾かぬように、所々で水につけ持ち帰ったものだと聞いた。

母は、持ち帰った鯉の生き血を飲まされ、甘辛く砂糖と醤油で煮付けた切り身をたべた。そのおかげで、自分の産後の肥立ちもよく、私も力強く生きられたと、爺様に感謝をしていると語っていた。

続き、医者の薬も大きな効果がなく、野崎に歯医者がなく、天文台の裏に1件の医者がいたが、雪の日には、天文台の中の踏み分け道を通り、留守の時には、熱の高い子供を背負い、寒い夜など立って帰りを待っていたとも話していた。そんな時に、薬屋さんが、漢方の中に、ミミズに泥を吐かせてから、土瓶で煎じて、それを飲ませると解熱剤になると教わり、母は、試しに実行してみた。

結果は熱が下がると効果を発揮したと言っていた。当時を振り返り、父は、肺病でないかと大きく心配をし、もう諦めるよりしょうがないとも考えたと言っていた。幼児期はこのようなこともあり、食糧事情もまだ十分でなく、栄養失調の小さな体の子供で、近所の子供たちとも一緒に遊ぶことのできない子供であった。

竹山君(ひとりあそび)

未熟児生まれ、早生まれ(三月)、戦後の疲弊した農家の栄養状態が良くない中で幼少期を過ごし、幼稚園・保育園に通うことなく団体生活にはなかなか溶け込むことができなかった。小学校入学前に、父、母が身の丈も小さく、栄養失調、病弱を心配し、入学を一年遅らせることにしたらどうかと、相談していたのはよくわかった。友達ができることを期待していたが、内気で積極性がない子供で、友人に付いていくこともできず、皆と一緒に遊ぶこともままならない子供であった。自分自身では、問題意識を持ってはいなかったが、裏の竹やぶの傍で、子供と会話をするように一人遊びに興じているのを父が陰から見ていたことがあった。ある夕飯の時に、友達のことが話題となり、「竹山君は元気か」と聞かれた。当たり前に「元気で、今日も一緒に遊んだ」と答えた。竹山君とは、私の一人遊びの時の友人であった。気の合う、なんでも話ができ、なんでも一緒に遊ぶことができる、大切な、ただ一人の友達であった。友達ができないことは、恐れていることはなく、どこかで、竹山君が元気づけてくれていた。将来の夢を語りあう中で、自分自身の気持ちを確かめていた。この一人遊びが、自我を目覚めさせ、心を強くしたと思う。体に体力が付き、友人が増えると、竹山君との遊びは希薄になり、忘れていった。しかし、畑で草取りを一人で行っているときや、独りで登山をしているときに、遊びに来てくれるのを楽しみにしてきた。節目節目に自らの方向性を確認するときにはいつも竹山君がそばにいる。

目次