歳時記(11月の行事・農作業)

11月写真

11月(霜月しもつき)

このページは、歳時記(11月の行事・農作業)をテーマに記載しています。

目次

行事一覧

明治神宮

明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする。境内はそのほとんどが全国の青年団による勤労奉仕が行われ、「国民の神社」という理念にのっとり、全国の青年団が神宮造営に参画した。現在の深い杜の木々は全国からの献木が植樹された。三鷹市内より献木され、奉仕をされた。現在では明治神宮奉賛会が全国的な組織となり、維持するためにご奉仕を続けている。

3日 例祭

命日(明治天皇祭)の7月30日ではなく、誕生日(生前の天長節)である11月3日が選定された。

7日 立冬

冬は、旧暦では10月(神無月)から12月(師走)、太陽暦では、12月から2月、天文学では、冬至から春分である。冬の兆しが見え始まる季節。冬支度を始める季節。

二十四節気 立冬 

7~11日 初候 山茶始開 (つばきはじめてひらく)

「山茶花の花」が咲き始める季節。本来、椿とは「山茶花」の意味で、日本では「山茶花」と定着した。違いは、椿は花ごとポトリと落ちるが、山茶花は、花びらが1枚1枚落ちる。

12~16日 次候 地始凍 (ちはじめてこおる)

大地が初めて凍る季節、霜柱が立つ日は、お天気が良いと言われる。霜が溶けてぬかるんだ道を歩いた時を思い出す。

17~21日 末候 金盞香 (きんせんかさく)

推薦(和推薦)が咲き、良い香りを漂わせる季節。「金盞」は金の盃の意味。「金盞花」の花は、花全体を金の盃に見立てた。

8日 薬師如来縁日・だんごまき

15日 七五三

子どもが三歳、五歳、七歳のとき(奇数はめでたい数字と考えられていた。)にその成長を祝う行事。この年周りは子どもの厄年と言われ、男の子は三歳と五歳、女の子は三歳と七歳の十一月十五日に、社寺に詣でて参拝し、お祝いと厄落としをする行事。

七五三の由来は、平安時代に行われた、3歳の「髪置き」、5歳の「袴着」、7歳の「帯解き」の儀式にある。
昔は子供の死亡率が非常に高かったため、このような節目に成長を祝い、子供の長寿と幸福を祈願した。

酉の市

近在では、三鷹市塚にある大鷲神社、府中大國魂神社で開催されている。酉の市とは、秋の収穫物や実用の農具が並んだ近郊農村の農業市が、招福の吉兆を満載した飾り熊手などを市の縁起物とする都市型の祭へと変遷してきたといわれる。

二十四節気 小雪

雪国からは、「初雪」の便りが届く、雪が降らない地方でも、「初霜」「初氷」が見られるようになる季節。

22~26日 初候 虹蔵不見 (にじかくれてみえず)

虹が見えなくなる季節。雨の水滴がプリズムの役割を果たす虹は雨が少なくなると虹も少なくなる。

27~12月1日 次候 朔風払葉 (きたかぜこのはをはらう)

北風が機の葉を吹き払う季節。

23日 新嘗祭

日本では古くから、天皇が新穀などの収穫物を神々に供えて感謝し、自らも食する「新嘗祭」(にいなめさい)という祭事が行われてきた。新嘗祭は、1872年(明治5年)までは旧暦11月の二回目の卯の日に行われていた。太陽暦(グレゴリオ暦)が導入された1873年(明治6年)公布の年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム(明治6年太政官第344号布告)によって、祭祀・休日ともに11月23日に固定した。

勤労感謝の日

1945年、日本が戦争に負けた後、日本国内ではGHQ占領下、日本弱体化政策の基が始まり、国家神道の色が強い新嘗祭という名前の祭日を排除し、違う名前の祝日にするよう求められ、勤労感謝の日が制定された。

31日 荒神祭り

10月31日荒神様が出雲に出かけ、11月15日は荒神様中帰り、11月31日に出雲よりお帰りになる日、団子を作り、一生枡に盛り付け荒神様にお供えする。

暮らしの記憶

明治神宮

明治神宮

明治神宮は明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする。境内はそのほとんどが全国の青年団による勤労奉仕が行われ、「国民の神社」という理念にのっとり、全国の青年団が神宮造営に参画した。現在の深い杜の木々は全国からの献木が植樹された。三鷹市内より献木され、奉仕をされた。現在では明治神宮奉賛会が全国的な組織となり、維持するためにご奉仕を続けている。

現在奉賛会会員として微力ながらご奉仕させていただいている。

全敷地の大半を占める杜は、都心部の貴重な緑地として親しまれているだけでなく、人工林が意図的に自然林化されたものとしても注目されている。この中には他の皇居などを除けば広い緑地が少ない東京都心部では通常見られないような生物が生息し続けており、動物学・昆虫学的にも非常に貴重な例となっている。現在も、動植物を広く、生育・生態調査が行われている。

神宮鎮座以前、社地のほとんどは原野が広がっており、地元では「代々木の原」と呼ばれていた。そのため、神社設営のために人工林を作ることが必要となり、造園に関する一流の学者らが集められた。技師らは1921年(大正10年)に「明治神宮御境内 林苑計画」を作成。現在の生態学でいう植生遷移(サクセッション)という概念を構想、林苑計画に応用した。当初は成長の早い針葉樹もあわせて植林し、遅れて広葉樹を成長させ、年月を経て、およそ100年後には広葉樹を中心とした極相林(クライマックス)に到達するという、手入れや施肥など皆無で永遠の森が形成されることを科学的に想定した。これが造園科学的な植栽計画の嚆矢であって、日本における近代造園学の創始とされている。 

出典: フリー百科事典『ウィキペディア』

3日 明治神宮祭・ 例祭

命日(明治天皇祭)の7月30日ではなく、誕生日(生前の天長節)である11月3日が選定された。祭神の誕生日を例祭日とする前例はなかったが、例祭日の選定方法に通則というものもないので、新例を設けて不可はなく、むしろ誕生日を例祭日とするのが適切な処置であるということで、この日に決定された。

3日 文化の日

1946年(昭和21年)に日本国憲法が公布された日であり、日本国憲法が平和と文化を重視していることから、1948年(昭和23年)に公布・施行された祝日法で「文化の日」と定められた。 日本国憲法は、公布から半年後の1947年(昭和22年)5月3日に施行されたため、5月3日も憲法記念日として国民の祝日となっている。

文化の日。日本の祝日は「国民の祝日に関する法律」によって定められおり、正式には「国民の祝日」という。

戦前、文化の日は明治天皇の誕生日を祝う「明治節」と呼ばれた祝日でした。 戦前の祝日は、天皇や皇室の行事にまつわるものが多かったが、戦後、新しく祝日を決める際にはその多くが廃止された。ただし、すでにその日付が祝日として国民に親しまれていたことから、日付がそのまま残ったものであり、11月3日もそのひとつです。

日本国憲法が平和と文化を重視していることから、新しい名称として「文化の日」が採用され「国民の祝日に関する法律」によって定められおり、「国民の祝日」となった。

8日 小雪

二十四節気 小雪 雪国からは、「初雪」の便りが届く、雪が降らない地方でも、「初霜」「初氷」が見られるようになる季節。

亥の子様祭り

十一月亥の日、旧暦十二支の亥の月、亥の日、亥の刻(午後九時~十一時)に行われる収穫の感謝をささげる行事である。中国の「十月亥の日に亥の刻に餅を食べると病気にならない」という言い習わしに基づいたもので、亥の子餅には、大豆、小豆、ささげ、胡麻、粟、柿、糠の七種類を混ぜるとされていた。日本では平安時代に貴族の間に広がり、稲刈りの季節であった為、収穫を喜び、感謝をする祭りへと変わり、農村に広がったものである。また猪は多産であることから、子孫繁栄や子どもの成長を祈願する行事とも言われる。

亥の子様の日

我が家では、亥の子様の日と呼び、台所の神様と言われる荒神様に、新米のもち米でもちを搗き、亥の色に似せて粒あんの餡子をまぶした亥の子餅、豆などの雑穀、お神酒をお供えし、収穫に感謝し、無病息災、子孫繁栄、子供の成長を祈った。

こ日は、小芋、ダイコン、ニンジン、こんにゃく、油揚げなどの一緒に炊いた「ごった煮」をお供えし、夕飯としても皆で食べた。

旧暦10月(伊の月)の亥の日に行う。
新暦では11月亥の日に行っている。
平安時代に伝わり、亥の刻に7種の穀類を混ぜて作った「亥の子餅」を食べると病気にならないとのいわれからである。
稲刈りの時期に重なり、収穫祭としての意味合いが強くなり広まった。
収穫に感謝をし、無病息災、子孫繁栄を祈る行事として続いている。
無病息災は中国から伝わり、子孫繁栄は亥の子の数が多いことが言い伝えであり、亥(猪)は火を防ぐことから、亥の子餅を荒神様にお供えをして、収穫に感謝をし、無病息災、子孫繁栄を祈る。
「亥の子餅」今ではうるち米にもち米を混ぜ炊き上げ、むすびを作り、前の日から茹で、用意をしておいたアンコ(小豆アン)をまぶし、縦に筋を付けて作る。
この時期は、薩摩もおり、ウドの根起こしなど、仕事が忙しいこともあり、夕飯に食べることとなっていたが、作業から上がるのが遅れ、間に合わないと、白いご飯をご飯茶碗に盛り、餡子をその上にのせて食べることもあった。
汁物は、けんちん汁を作り、キュウリの古漬けや、カブの千枚きりの一夜漬けなどで夕飯とした。
荒神様には大きめの物を二つ作り、けんちん汁を椀に盛りお供えし、仏壇にも同様にお供えし収穫に感謝をし、無病息災、子孫繁栄を祈った。

亥の子様(亥の月(十月)の亥の日、亥の刻(午後九時~十一時)

亥の子とは、「亥の子餅」を食べ、無病息災・家内安全や多産の猪にあやかり子孫繁栄を祈ります。農村では、刈入れが終わる時期でもあり、収穫の祝いと神に感謝する行事でもある。

亥の子様・亥の子餅

亥の月(十月)の亥の日、亥の刻(午後九時~十一時)に無病息災と子孫繁栄を祈って餅を食べる風習があり、やがて他の神を祀る行事のお供え物として一般に広がった。

我が家では、亥の子様と言い、畑の神様に収穫の感謝をする日として、餅を搗き、前日から作った餡を餅にまぶして、楕円形に仕上げた「亥の子餅」を作り、竈神は火伏の神や火の守護神であると同時に,食物や農耕の神ともされていることから、荒神神にお供えし、神に感謝の祈りをした。

亥の子餅はもとよりであるが、この日は、「嫁に食わすなと言われる秋茄子」を具にし、醤油味の汁ものを食べた。霜の来ることを想定し、最も美味しいナスを具にし楽しんだものと思う。

亥の子様のご馳走・最後の秋茄子

十日夜

旧暦10月10日に行われる収穫祭で、稲の収穫を感謝し翌年の豊穣を祈って、田の神に餅・ぼた餅がお供えされ、田の神が山に帰る日とされている。

七五三

七五三

子どもが三歳、五歳、七歳のとき(奇数はめでたい数字と考えられていた。)にその成長を祝う行事。この年周りは子どもの厄年と言われ、男の子は三歳と五歳、女の子は三歳と七歳の十一月十五日に、社寺に詣でて参拝し、お祝いと厄落としをする行事。

千歳あめ

ちとせあめ

三代将軍徳川家光が十一月十五日に子どもの徳松の成長を願う祝宴を飛来いたことに由来する。七五三に食べる千歳飴は江戸時代に浅草の飴売りの七兵営が売り出したのが始まりで、年の数だけ袋に入れて子どもに持たせると縁起が良いと言われる。

七五三の由来

男女三歳の「髪置(かみおき)」、五歳男子の「袴着(はかまぎ)」、七歳女子の「帯解(おびとき)」という祝いで有ったが江戸時代に一つの行事となった。

「髪置」とは(昔は男女の子どもは三歳までは頭髪をそるのが一般的であった)そっていた髪を伸ばし始める。「袴着」とは、初めて袴をはかせる儀式、「帯解き」とは、それまで来ていた着物から付け紐を外し、わきの下の八つ口をふさいだ小袖を着て幅広い帯、本式の帯をしめた着物に替える儀式で、これは魂をしっかりと内にとどめ、身をもち崩さないようにという願いからである。

秋の収穫後、神を祀る霜月の真ん中に当たる日とされ、七歳の祝いの日子どもが氏神に詣で氏子の仲間入りをする日で、子供の死亡率が高かった昔は、七歳を成長の節目と捉え、氏子の仲間入りをすることで社会的な自覚を促すとともに無事成長したことを喜び祝う、もっとも重要な子どもの祝いと考えられた。

七五三の氏神詣(野崎八幡)

七五三の日には氏神様に赤飯をお供えし、参拝し、無事の成長に感謝し、さらなる成長を祈願した。

神社の境内には近所の子供達が待っており、参拝を終ると、仲間に入れてもらえるように子供たちに一口の赤飯と千歳飴を配り、仲間に入れていただくようお願いした。また、紅白の餅を搗き丸餅に仕立て、内祝いののし紙に子どもの名前を書き、七つの赤い餅、八個の白い餅を飯台に入れ、鰹節などの生臭を付けて、嫁の実家、仲人、親類、隣近所の皆さんに届けた。お祝い返しは決まって、一握りの小豆を頂いた。これは、将来まめに働く子に成長することを祝う意味がある。

新嘗祭

毎年十一月二三日に天皇陛下によりとり行われる、収穫に感謝し、翌年の豊作を祈る行事。「にいなめさい」、「しんじょうさい」と言われ、「新嘗」とはその年に収穫された穀物のことを言う。

大化の改新のころ、毎年一一月の「下卯の日」に新嘗祭を行う事と律令で決まっていた。明治五年の改歴の際に、明治六年の十一月「下の卯の日」が二十三日であった事から、太政官布告により定められた。

皇居・宮中三殿に隣接した神嘉殿で、皇室の祭礼で最も重要な祭礼で、天皇陛下が皇祖・天照大神を始めとする神々に、新しくとれた米や粟のご飯、新米で造った酒などをお供えし、自らもお召し上がりになり、神に感謝をささげる儀式として行われてきた。天皇が神々と食事をすることで、国に豊かな実りをもたらす力を賜ることに目的がある。

「新嘗祭は、収穫に感謝をして御魂のふゆ(神や天皇による恩恵)を願い、統治と豊穣の霊を魂降り(衰えた魂の力を再生する)する祭儀である。」と言われ、当時のころ天の恵みを得ることで、厳しい冬の季節を乗り切り、新しい豊穣の季節を待つという意味を含んでいるとされている。

新嘗祭でお供えされる、米、粟は現在でも全国四七都道府県から二農家が選ばれ、そこで作られたものが献納される。また天皇陛下自身も、毎年、皇居内の田で、稲の籾薪、田植え、稲刈り、収穫までの一連の米作りを行っている。

勤労感謝の日

1945年、日本が戦争に負けた後、日本国内ではGHQ占領下、日本弱体化政策の基が始まり、国家神道の色が強い新嘗祭という名前の祭日を排除し、違う名前の祝日にするよう求められ、勤労感謝の日が制定された。

勤労感謝の日は、国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年法律第178号)第2条によれば、「勤労をたつとび、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」ことを趣旨とし制定された。

荒神祭り

10月31日荒神様が出雲に出かけ、11月15日は荒神様中帰り、11月31日に出雲よりお帰りになる日、団子を作り、一升枡に盛り付け荒神様にお供えする。

日本仏教の信仰の中で独自に発展した尊像であり、三宝荒神はその代表的な物である。不浄や災難を除去する火の神ともされ、最も清浄な場所である竈の神(台所の神)として祭られる。俗間の信仰である。

荒神の神棚を荒神棚、毎月晦日(みそか)の祭りを荒神祓(はらい)、その時に供える松の小枝に胡粉(ごふん)をまぶしたものを荒神松、また竈を祓う箒(ほうき)を荒神箒とよんで、不浄の箒とは別に扱う。

台所の神様は荒神様で、三宝荒神と呼ばれ、神仏習合において火の神様と竈の神様の信仰に、仏教と修験道の信仰が混ざったものと言われている。

仏教においては、「仏・法・僧」の三宝を守護するもので、神道においては、竈三柱大神(かまどみはしらのおおかみ)として祀られ、三柱は竈の神様である奥津比古命(おきつひこのみこと)と奥津比売命(おきつひめのみこと)、火の神様である火産霊命(ほむすびのみこと)を指す。

火の神様は、穢れや災いを浄化する力を持ちます。荒神様は民間信仰の特徴があるため、神道や仏教とはお祀りの作法が異なるようです。神棚は、台所の清浄な場所を選び、目線よりも高い位置にお祀りします。神棚の扉は普段は閉めてお祀りしますが、年1回新しい御尊影と交換する時のみ開扉します。

毎朝、米、お塩、お水、お酒など、準備するお供え物は、基本的に一般の神棚と同じですが、米については朝炊いたご飯をお供えします。

茶花でお化粧

秋が深くなる季節になると、畑の周りにある茶の樹に花が付き始め、小さなつぼみを口に入れると、茶の香りとともに甘酸っぱい味が下に残る。菓子などないときであったのでその食味を楽しみ、多少の空腹感を満たした。また華が開くと、白い五枚の花びらの真ん中に茶筅のような雄蕊が大量の花粉を付けている。花をちぎり、頬に充て、紅を指すように花粉を頬につけ、最後に花の頭につけて、「お化粧、お化粧した」などと大きな声を出しながら、友達や弟の鼻の頭や頬に付け合い、大はしゃぎをし、女の子にはかんざしのように髪に刺してあげた。

てんぐのはな(自然薯の種の鞘のあそび)

水霜が降りるころになると、茶の木や林の中の木に絡みついた鶴、葉の間に上を向いた房状の花穂を付ける。小さな白い花をつけ、3枚の羽根状の種を真中に抱える鞘ができる。この鞘が緑色しているときに千切り、舌で舐め湿り気を与えて、鼻につけ、「天狗だあ、天狗だあ」と大はしゃぎをして遊ぶ。秋が深くなり、葉が黄色くなると、自然薯の葉の付け根にできる木子である零余子を取りに歩き、ポケットに一杯になると、枯れかかった弦に、3枚の羽根を広げた様な、実を包んでいる鞘を取り、鼻の頭に沢山並べてつけて、また友達や弟の鼻にも付け合って「鼻が高くなった。」と顔を見合わせ、転げまわる。懐かしい遊びである。

酉の市

酉の市

近在では、三鷹市塚にある大鷲神社、府中大國魂神社で開催されている。酉の市とは、秋の収穫物や実用の農具が並んだ近郊農村の農業市が、招福の吉兆を満載した飾り熊手などを市の縁起物とする祭へと発展した。

酉の市の謂れ

神道の解説では、大酉祭の日に立った市を、酉の市の起源とする。大鳥神社(鷲神社)の祭神である日本武尊が、東征の戦勝祈願を鷲宮神社で行い、祝勝を花畑の大鷲神社の地で行った。また、日本武尊が亡くなった日とも言われ、浅草・鷲神社の社伝では、日本武尊が鷲神社に戦勝のお礼参りをしたのが11月の酉の日であり、その際、社前の松に武具の熊手を立て掛けたことから、大酉祭を行い、熊手を縁起物とするとしている。

酉の市の盛況ぶりは浅草の鷲大明神へと移り、最も賑わう酉の市として現在に至る。秋の収穫物や実用の農具が並んだ近郊農村の農業市が時代の進むにつれ江戸の各地で酉の市が開かれるようになり、江戸市中へと移行するに従い、招福の吉兆を満載した飾り熊手などを市の縁起物として発展したと言われている。

観蔵院は、東京都多摩市の曹洞宗の古刹です。本堂には薬師三尊像が祀られています。日光菩薩像の像内より、建長7年(1255年)入仏の胎内文書が発見され、おおよそ、760年前の仏像であることが分かりました。薬師三尊は2002年に修復が行われました。

 薬師三尊像のほかに、十二神将、四天王等が一緒に祀られています。

常性寺(国領)

医王山常性寺と号し、新義真言宗豊山派。 <本尊>薬師如来(金銅製、長さ二尺八寸) 開山・開基は明らかでないが、古くは多摩川辺にあったと推定されており、その名も、初めは常正寺と称したが正保年間(一六四四~四八)に、常性寺と改名されたと伝えられる。 本堂は、参道の正面にあり六間半に五間、改修を加えられ古い姿はない。

<薬師堂>

方三間赤塗り、堂内正面の壇上に古色豊かな厨子が安置されている。この堂は由緒あるもので、その建立は文化(一八〇四~一八)のころ、一名虎薬師とも呼ばれて秘仏とされていた。高さ一尺一寸の木彫の像があり、鎌倉時代の作と推定されている。

<不動尊堂>

現在のものは明治八年改築、方三間、向拝付の堂である。安置されている不動尊像は、成田の分身といわれる。 この寺の薬師および不動尊は里人のみでなく近在の人々に深く信仰され、とくに毎月二八日の不動尊縁日は古くから続き、露天の店も出てにぎやかであった。

「調布市百年史」より

府中市指定重要有形文化財−木造薬師如来坐像

栄明寺の本尊としてまつられている。像高48センチメートル、膝張38センチメートルの寄木造である。身体法衣に漆塗りをし、その上へ金箔をはってあったが、現在はほとんど剥落している。保存もよく、南北朝期の様式をよく表している。

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