歳時記(10月の行事・農作業)

10月写真

10月 神無月(かんなづき)

このページは、歳時記(10月の行事・農作業)をテーマに記載しています。

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目次

行事一覧

二十四節気 3-7日 秋分 末候 水始涸 (みずはじめてかれる)

自然界では、川の水が少なくなり、井戸の水が枯れる時期 田圃の水を抜いて稲刈りの準備をする季節 

二十四節気 寒露

霜になりそうな冷たい露のことを寒露と言う。

8~12日 寒露 初候 鴻雁来 (こうがんきたる)

13~17日 寒露 次候 菊花開 (きくのはなひらく)

奈良時代の初めに菊が渡来し、不老長寿の秘薬とされた。菊の花が開く季節。

18~22日 寒露 末候 蟋蟀在戸 (きりぎりすとにあり)

戸口で秋の虫が鳴く季節。「コオロギ」のことを「キリギリス」と言い、秋に鳴く虫を総称している。

二十四節気 霜降

霜が降りる時期、野山の色彩が鮮やかになり、秋の深まりを感じる季節。「秋の日の鶴瓶落とし」のごとく日が短くなり、夜が長くなる。夜の帳の中で、落ち着いた時間を持ちたいものである。

23~27日 霜降 初侯 霜初降 (しもはじめてふる)

霜が降り始める季節。

28~11月1日 霜降 次候 霎時施 (こさめときどきふる)(霎 こさめ・しょう・そう)

霎は小雨と読む。次第に、初冬の雨となり、木の葉を散らす雨が降る季節。

5日 亥の子餅・亥の子様(10月の亥の日、亥の刻(午後9時~11時)

無病息災と子孫繁栄を祈って餅を食べる。

亥の子とは、亥の月(旧暦10月)最初の亥の日のこと、「亥の子餅」を食べ、無病息災・家内安全や多産の猪にあやかり子孫繁栄を祈ります。亥の子様を田の神と考え、春に田畑に来臨した神を送り返す儀礼となっている。この日は新穀で餅を搗き、楕円形のぼた餅をこしらえて無病息災と子孫繁栄を祈る。

亥の子餅はおはぎと同じだが、イノシシの子供を模して楕円形に作る。

8日 薬師如来縁日・だんごまき

お薬師様(薬師如来)は、天保11年(1840年)に、愛知県鳳来時より不況に出ていた「杯風に」という尼さんが、布教が続けられなくなり、野崎で世話になったお宅へ置いていったな始まりで、その後薬師堂を作り祭られ8日 薬師如来縁日・だんごまき
お薬師様(薬師如来)は、天保11年(1840年)に、愛知県鳳来時より不況に出ていた「杯風に」という尼さんが、不況が続けられなくなり、野崎で世話になったお宅へ置いていったな始まりで、その後薬師堂を作り祭られた。

(吉野家文書 野崎村の歴史 吉野泰平)

御薬師様の御利益

人を病苦からすくう仏様で、特に薬師団子は眼病の予防や治癒に霊験があるとされており、近隣市及び離れたところからも頼られている。

野崎に鎮座以来年中行事として毎年10月8日に「薬師団子まき」の行事を継続、どのような環境の変化があっても継続し行われ今に至っている。

平成25年4月三鷹市無形民俗文化財に指定された。

13日 十三夜

十五夜後の1カ月後(満月の二日前)の旧暦9月13日夜のことを「十三夜」と言い、十五夜の月見をしたら必ず、十三夜の月見を祝うものとされていた。十五夜だけの月見は「片月見」と言いわれ縁起が良くないとされている。十五夜の月見を「芋名月」と呼ばれる。鶴首の花瓶には、ススキ、女郎花、根〆に秋の七草の萩などを活ける。お供え物をし、感謝と祈りをする。

14日 体育の日

スポーツの日の趣旨は「スポーツを楽しみ、他者を尊重する精神を培うとともに、健康で活力ある社会の実現を願う。」とされている。

1964年(昭和39年)に東京オリンピックの開会式が行われた10月10日を、1966年(昭和41年)に「体育の日」に定め国民の祝日とした。2000年(平成12年)から、国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律(平成10年法律第141号)によって「ハッピーマンデー制度」が適用され、体育の日は10月の第2月曜日となった。

鉄道の日

明治5年(1872年)10月14日に新橋~横浜間が開通した日本の鉄道は、国の発展に欠かせない基幹産業として、また最も身近な公共交通機関として、高速化・定時化・大量化・安全化に取り組み、経済活動の要、生活の足として、確かな基盤を築いてきたことを記念して、平成6年より10月14日を「鉄道の日」と定めた。

17日 神嘗祭

神嘗祭は、その年に収穫された新穀(初穂)を天照大神に奉げる感謝祭にあたる。「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」および「休日ニ関スル件」により、1874年(明治7年)から1947年(昭和22年)まで同名の祝祭日(休日)であったが、戦後平日となっている。

20日 戎講

恵比寿神のお祭り

旧暦の十月を「神寒無月(かんなづき)」と言い、日本中の神様が出雲大社に集まる月である。しかし、「恵比寿神」は自らの行事があり出雲大社に出向くことができなかった。恵比須講は留守を任された恵比寿神を慰めるために始まったものと言われる。

恵比寿講

実りの秋である時期に恵比寿神をお祭りし商売繁盛・大漁・豊穣を感謝し、願う行事が「恵比須講」である。

22日 即位礼正殿の儀

天皇陛下が御即位を公に宣明されるとともに、その御即位を内外の代表がことほぐ儀式として、即位礼正殿の儀を挙行された。

24日 霜降

暮らしの記憶

寒露

霜になりそうな冷たい露を「寒露」と言う。梅雨が凍りかけた霜になった状態を「露霜」「水霜」と言い変わり目の時期。朝晩は冷えるが、「天高く馬肥ゆる秋」人も、食欲がわき、つい食べ過ぎる。秋の空は、お天気も変わりやすく、「女心と秋の空」気まぐれを意味する。

霜降

霜が降りる時期、野山の色彩が鮮やかになり、秋の深まりを感じる季節。「秋の日の鶴瓶落とし」のごとく日が短くなり、夜が長くなる。落ち着いた時間を持ちたいものである。

8日 薬師如来縁日・だんごまき

お薬師様(薬師如来)は、天保11年(1840年)に、愛知県鳳来寺より布教に出ていた「梅風尼」という尼さんが、不況が続けられなくなり、野崎で世話になったお宅へ置いていったな始まりで、その後薬師堂を作り祭られ、江戸時代末期、文久3年(1863)に薬師堂の屋根修理の記録がある

(吉野家文書 野崎村の歴史 吉野泰平)

御薬師様の御利益

人を病苦からすくう仏様で、特に薬師団子は眼病の予防や治癒に霊験があるとされており、近隣市及び離れたところからも頼られている。

三鷹市無形民俗文化財に指定

野崎に鎮座以来年中行事として毎年10月8日に「薬師団子まき」の行事を継続、どのような環境の変化があっても継続し行われ今に至っている。

平成25年4月三鷹市無形民俗文化財に指定された。

団子作り

現在では、米粉(酒米を削ったもの)3俵(180キログラム)を米屋より取り寄せ、集まった野崎八幡崇敬会役員及び町会役員など総勢50人以上が集まり団子を作る。

崇敬会青年部の若手が、米粉を熱湯でこね、適当な硬さにこねた後、女性部など丸めて団子にする。

団子に丸められたものをせいろで蒸かし作り上げる。できた団子は、薬師殿の薬師如来にお供えし、7個づつ、ビニール袋に分け、崇敬会会員、町会会員に配布する。

団子まきは、夜9時ちょうどから団子まきが行われる。境内では、団子まきをする役員が酒を飲みながら待つ。座敷を利用した舞台ではカラオケ大会が催され、参加賞は団子7粒である。境内には殆んど人は集まらず、時間になるとありんこのように集まってくる。

以前は、カラオケなどない時代は、青年団による寸劇が行われ、台詞を社務所の内側に貼っておいての奮闘だが、台詞を忘れたり、字が読めないなどの大騒ぎで、皆の笑いを取り時間が過ぎるのを待った。

団子拾いと後利益

団子拾いは、投げられた団子を取ろうと上を向いていると、顔面ばかりにあたり取ることはできない。下を向いて鏡、転がってくる団子を拾うのがこつだ。

目の神様と言ういわれから、白い団子は、白目と言われ、土がついたような黒い団子が黒目になると言い、御利益が大きいとされている。 

十三夜

十五夜後の一カ月後(満月の二日前)の旧暦九月十三日夜のことを「十三夜」と言い、十五夜の月見をしたら必ず、十三夜の月見をし祝うものとされていた。十五夜だけの月見は「片月見」と言いわれ縁起が良くないとされている。十五夜の月見を「芋名月」と呼ばれ、十三夜の月見は「豆名月」と言われ、お供え物の豆や栗が収穫時、食べごろになることが由縁である。また、他に五穀をお供えし、秋の収穫を感謝し祈る。

十三夜の月見

暦を見て旧暦の十月十三日を確認し、庭先や縁側にテーブルなどを置き祭壇とし、鶴首の花瓶には、ススキ、女郎花、根〆に秋の七草の萩などを活ける。

13個(1段目9個、2段目4個、)の米粉で作った、少し大きめの月見団子を三方に盛り、栗、豆、さつまいも、里芋、果物をお供えし(それぞれ収穫期、食べごろを迎える)、お神酒徳利を一本、燈明をともす。

十三夜のご馳走

サツマイモの畑に行き、サツマイモ、里いもを掘り取り茹で置き、かき(禅寺丸)を木に登り取り置いた。団子は、母の手伝いをし、米粉を熱湯で練り、ダンゴ状に作り、蒸籠で蒸かしダンゴを作った。夕飯には、醤油を付け食べ、両頬にダンゴを入れ、「瘤取り祖父さん」などと言ってはしゃいでいた。大根、ゴボウ、ニンジン、里芋、かぼちゃ、こんにゃく、豆腐、油揚げなどを具とする「ごった煮」を汁ものとした。

お供え物とご馳走

十三夜の月見は「豆名月」と言われ、お供え物の豆や栗が収穫時、食べごろになることが由縁であり、収穫した、里いも、サツマイモ、くり、カキ、カボチャなどが収穫時となり祭壇は賑やかとなる。また、他に五穀をお供えし、秋の収穫を感謝し祈る。

お供え物とご馳走

ご馳走は、だんご、里いものに転がし、蒸したサツマイモ、茹でたくり、カボチャなどを食べる。汁ものは、大根、ゴボウ、ニンジン、里芋、かぼちゃ、こんにゃく、豆腐、油揚げなどを具とする「ごった煮」を汁ものとした。

五穀

五穀米主食穀物の中で、米、麦、粟、豆、黍もしくは稗を言う。日本人にとって大切な主食として食され、5穀豊穣は国民の願いであった。現在では、自然食志向、健康志向が高まり、五穀の栄養価が評価され、色合いの良さから人気が高まっている。

スポーツの日

スポーツの日の趣旨は「スポーツを楽しみ、他者を尊重する精神を培うとともに、健康で活力ある社会の実現を願う。」とされている。

1964年(昭和39年)に東京オリンピックの開会式が行われた10月10日を、1966年(昭和41年)に「体育の日」に定め国民の祝日とした。これに伴い、スポーツ振興法で定めたスポーツの日は体育の日に改められた。最初の体育の日である1966年(昭和41年)10月10日は、月曜日だった。2000年(平成12年)から、国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律(平成10年法律第141号)によって「ハッピーマンデー制度」が適用され、体育の日は10月の第2月曜日となった。

鉄道の日

明治5年(1872年)10月14日に新橋~横浜間が開通した日本の鉄道は、国の発展に欠かせない基幹産業として、また最も身近な公共交通機関として、高速化・定時化・大量化・安全化に取り組み、経済活動の要、生活の足として、確かな基盤を築いてきた。

このことを記念して、平成6年より10月14日を「鉄道の日」と定め、JR、民鉄等の鉄道事業者とその関係者が一堂に会し、鉄道の発展を祝うとともに、鉄道が国民に広く愛され、その役割について国民の関心が高まることを願って、多彩な行事を行うことにより、鉄道利用者とのふれあいを持ち、これからの“愛される鉄道”を共に考え、より一層の発展に寄与して行くとした。

神無月(かんなづき)・出雲大社は縁結びの総本山

日本中の神様が出雲大社に集まる月である。大国主大神にはたくさんの子どもたちがおり、その子どもたちを全国各地において国を管理させた。そして、子どもたちが年に一度出雲大社に戻り、その年の報告や来年の相談をした。やがて、他の神様も一緒に出雲に集まるようになったといわれている。

年に一度、出雲大社に集まった神様たちは、人の運命や縁(誰と誰を結婚させようか)などを話し合います。遠く離れた者同士が知り合い、結婚するようなことがありますが、この会議の結果なのかもしれませんね。その為、出雲大社は縁結びの総本山でもある。

出雲には出向かない祭神が存在するとしている地域もあり「留守神」と呼ばれている。留守神には荒神や恵比須神が宛てられることが多く、10月に恵比須を祀る恵比須講を行う地方もある。

恵比寿神のお祭り

旧暦の十月を「神無月(かんなづき)」と言い、日本中の神様が出雲大社に集まる月である。しかし、「恵比寿神」は自らの行事があり出雲大社に出向くことができなかった。恵比須講は留守を任された恵比寿神を慰めるために始まったものと言われる。恵比寿神はイザナキとトイザナミの子ヒルコとオオクニヌの息子であるコトシルヌシで海に縁の深い神様で大漁をもたらす恵比須と重なる。「恵比寿神」は商売繁盛の神様で、七福神の一神で、右手に釣り竿、左手に鯛を持っている。商売繁盛だけでなく、漁村では豊漁の神とした、農村では豊作の神として古くから信仰されてきた。

恵比須講・祭壇

実りの秋である時期に恵比寿神をお祭りし商売繁盛・大量・豊穣を感謝し、願う行事が「恵比須講」である。

地域によっては、10月20日、11月20日、12月8日、1月20日に行われるところがある。この地域では「二十日恵比須」と言い、10月20日、正月20日に行われる。

恵比寿講のご馳走

この地域ではなかなか魚が手に入らなかったため、サバやアジの場合もある)、お神酒、秋に収穫したもので御馳走を作り、小豆飯(うるち米に小豆を入れて炊く)、サバの味噌煮、牛蒡、人参、大根、里芋、こんにゃく、油揚げなどの入ったごった煮をお供えする。

秋の収穫を感謝し、商売繁盛、豊穣を祈願し、新たな決意をし、新しい力を賜る行事である。

鯖と煮凝り

この時期になると、外気も気温が下がり、サバの臭みよけの為生姜醤油煮とし、露も煮凝りとなる。その煮凝りの味を新鮮なものとして楽しみに食した。温かいご飯の上に乗せるとすぐに溶けてしまうおで、溶けないうちに口の中にほおりこむ。

神嘗祭

毎年10月15日の夜から16日朝にかけて伊勢神宮の外宮(豊受大神宮)、16日夜から17日朝にかけて内宮(皇大神宮)で行われる。その年に取れた米や酒を夜と朝2回、天照大神にお供えする行事である。稲作の起源は、天照大神がニニギノミコトの天孫降臨に際して稲を授けて発した「斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅」であり、稲づくりは天つ神の命令、委任を受けた業である。そのため、収穫は自分(天皇)のものではなく神のものであるということから、まず新穀を神々に献じ、「残をば」いただく、という神勅の精神にのっとった祭祀であるといわれる。

収穫を感謝するお祭りであり、天照大神が天上の高天原において新嘗を食したとのことに由来し、伊勢神宮鎮座以来の歴史がある。戦前は国民の祝日として制定されていた。

神棚に、新嘗としての五穀、お神酒をお供えし、燈明を燈し、収穫の感謝をし、豊穣の祈願をした。

伊勢神宮では、神様に供える米をすべて神田で作られ、種まき、田植え、稲刈りの神事を経て収穫した稲束をお供えする。

荒神様祭

荒神信仰には家庭の台所で祀る三宝荒神と、地域共同体で祭る地荒神とがあり、屋内に祀られるいわゆる「三宝(寶)荒神」、屋外の「地荒神」である。屋内の神は、中世の神仏習合に際してや陰陽師などの関与により、や竈の神の荒神信仰に、仏教、修験道の三宝荒神信仰が結びついたもので、地荒神は、山の神、屋敷神、氏神、村落神の性格もあり、集落や同族ごとに樹木や塚のようなものを荒神と呼んでいる場合もあり、また牛馬の守護神、牛荒神の信仰もある。日本仏教の信仰の中で独自に発展した尊像であり、三宝荒神はその代表的な物である。
不浄や災難を除去する火の神ともされ、最も清浄な場所である竈の神(台所の神)として祭られる。
俗間の信仰である。荒神の神棚を荒神棚、毎月晦日(みそか)の祭りを荒神祓(はらい)、その時に供える松の小枝に胡粉(ごふん)をまぶしたものを荒神松、また竈を祓う箒(ほうき)を荒神箒とよんで、不浄の箒とは別に扱う。

竈かまどの神様

荒神の神棚を荒神棚、毎月晦日(みそか)の祭りを荒神祓(はらい)、その時に供える松の小枝に胡粉(ごふん)をまぶしたものを荒神松、また竈を祓う箒(ほうき)を荒神箒とよんで、不浄の箒とは別に扱う。

  • 火伏せの神様。
  • 仏法僧の三宝を守る神様。
  • 暴悪なものをこらしめ、仏法と寺院を守る神様。

如来荒神、麁乱荒神そらんこうじん、忿怒荒神ふんぬこうじんの三つで三宝荒神となります。
三面三眼六臂の神様です。お顔が三つ、ひとつのお顔に眼が三つ、手は6本と言うことです。
仏様や神様の手を数えるときは臂ひと数えます。

大麦と小麦

大麦と小麦の播種

大麦と小麦の播種は10月初めに播種した。

種もみは、自家採取が行われ、播種前に、確りと水分を吸収させ、発芽する種籾と発芽しない種籾を選別、(底に沈殿した種子は、発芽するが、水の表面に浮いている種子は発芽しない)、早期に発芽させる、発芽率の向上と発芽の時期をそろえるために、家族全員が風呂を使用した後で、温度を下げたふろの湯に種籾を入れた南京袋を湿潤した。
そのために何日も種籾の匂いが残っていた。今は、コメ焼酎の匂いと一緒であると感じている。

発芽

10月中旬には発芽し、水霜が下りる前には直根が伸び、2,3枚の若葉が伸び、寒さが強まり、霜が下り地面が凍りだすと、霜が若い麦株を持ち上げ、伸びた直根が切られてしまう。

麦踏

根を切られた麦の株が風で飛ばされないように、切られた直根から横に値を伸ばし、しっかりと土に根を張るように、麦踏が行われ、子供たちの仕事とされた。

麦の播種が遅れると、発芽が遅れ直根がしっかりと土の中に伸ばすことができず、直根がしっかりと地中に伸びると、温かい地下水を吸い上げ、成長を助け、また霜柱による直根が切断されることもない。

分偈

3月になると、寒さに耐えながら成長した株が分偈を始め、4月には分偈した芽が天に向かって立ち上がりすくすくと成長し、5月には麦穂が出始め、6月には麦秋となり、畑が黄金色となり、麦刈りが行われる。

麦刈り

麦大麦(うるち麦)の麦刈りは、他の作物の肥培管理との兼ね合いで遅くなると、梅雨期に入り、そのまま発芽してしまったり、刈り取った麦を、雨に濡らさないために、籾のついた穂を上に円筒状に積み上げ、雨よけに蓆をかぶせるムギボッチをつくり、積み込んでおくが、脱穀が遅くなると発芽してしまった。

ボーチ・棒打ち・脱穀

「歳時記暮らしの記憶 6月」に記載

麦乾し

生体活動停止、休眠状態

脱穀した籾は、晴天の下で乾燥させ、生体活動を停止させ、休眠状態にするが、毎日、庭に蓆を敷き、その上に籾を広げ、乾燥させることに努力をした。夕刻には取り込み、湿気を吸わないようにし、朝になる籾の山に手を入れて、温度が上がっていないかを確認し、温度が上がる場合には、生体活動が行われており、再度温度が上がらなくなるまで、籾を乾燥させる必要があった。しっかり行わないと発芽してしまうことがあった。

俵詰め

籾は、一斗枡で3杯を米屋から譲り受けた米俵に詰めて、麦俵にして貯蔵した。

カブの出荷

8月末に播種したカブが出荷期を迎える。多摩の直径が5-6cmから大きくなると出荷期となり、朝早く、朝露が乾かぬうちに抜き取り収穫し、家で枯葉などを取り、球を洗い、5-6個を一束に結束し荷姿を整え市場に持ち込んだ。

父のこだわりは、玉に瑕やシミの色がないことで、球がナメクジやミミズになめられ、食べた跡がないか、発育異状による異形のものはないかを注意深く確認し荷づくりを行った。抜き取ってきたものの3分の1は破棄をする厳しさであった。そのように厳選し、市場に出荷した効果は大きく、高値で取引され、秋の収入の大きな部分を占めた。

秋のサンマ

サンマカブが高値で売れた時は、サンマを一人1匹づつ食べることとなった。日々にない大御馳走となった。マ日サンマを買いに行くこと、七輪に火を興しさんまを焼く、ダイコンをすり下ろすのも子供の仕事であった。さんまを食べる時は、頭から食べるように言われ、骨もよく噛んで食べ、腸(はらわた)は栄養価も高く、季節の味として、よく嚙み締めるよう言われた。今でも、アジまでは骨まで残さず食べる、残すのは尻尾だけで、習慣とは良い物、恐ろしいものだと考える。

おかま風

最近では耳にすることがないが、子供のころには、この季節に北西より吹いてくる冷たい風を「おかま風と言った。小平市の小冊子にそのいわれが書かれていた。

小平周辺に、10月末日頃になると冷たい西風が吹く、小平の村々では、火の 神様の事を「おかま様」と呼び、おかま様は女性の神様で、火の管理を怠る者には厳しく当たるが、一方で35人も居る自分の子供達と遊ぶ時は優しい母親の顔を見せる子煩悩な神様でもあった。
10月は、神無月と言われ、日本の神様は、全国の人間の縁結びを決める集ま りに参加する為に出雲大社に集まらなければならない。おかま様も毎年、子供達を連れてこの集まりに参加していたが、やんちゃ盛りの子供が35人も居るので、行き帰りの道中は大変な難儀であった。常々、10月末日までに小平に戻る事が出来ず、数日遅れる事が多かった。ある年の神様の集まりの帰りも子供達に振り回され、今年も帰りが遅れそうだとおかま様が溜息をついていると、そこに風の神様が通りかかった。事情を聞いた風の神様は「それならば、私が強い風を吹かせて皆さんを小平の村まで飛ばしてあげよう」と言い、手にした風の袋を開けて強い西風を吹かせてくれた。おかま様と子供達はその風に乗り、無事に10月末日までに村に帰る事が出来た。以来、小平周辺では10月末日になると冷たい西風が吹くようになった。冬の到来を告げるこの風を、人々は今でも「おかま風」と呼ぶそうな。

小平地方の言い伝

ミツバの根起こしと「おかま風」

「小平の言い伝」があるように、近隣の市町村でも同様な冷たい風が吹く季節風を「おかま風」と言われたものと思える。また、お祖父さんの連れ合いは、小平より嫁いできたために我が家でも言葉が残っていたものともいえる。この季節は吹きさらしの、トマトを収穫した後に栽培した三つ葉の根を掘り起こし、土をたたき落し軟化栽培の準備をした。袢纏を着込み、手ぬぐいで防寒対策の頬っ冠りをして、おかま風に対抗して、畑に座り込んでの作業であった。

頬っ被り・頬っ冠り(ほっかむり・ほっかぶり)

ほっかぶり手ぬぐいなどを頭から頬にかけて包むように被(かぶ)り、あごの下で結ぶ、 顎の辺りで結ぶ。

おけらのこえ

夜、野原や畑などの柔らかい土の中から、ケラの「ビー」という声が聞こえ始めるのも4月初旬からです。秋になるとその声も一段と強くなる。独特の鳴き声は、日本では古来「ミミズの鳴き声」と信じられていた。畑や野原などの近くに行くと「びーびー」と声が聞こえ、五月蠅い状況であった。子供のころには、イネ科の植物が生育するところに多いと言われ、巣穴を見つけ、掘り出し捕まええると、土を掘るための頑丈な前足を見ながら、お前のちんちんどのくらいと声をかけると、前足を横に動かして広げるしぐさを見て大喜びをした。

ケラは野鳥が好んで食べることから、江戸時代、この地域が鷹狩場であったころは、江戸城大奥で愛玩用に飼育されている小鳥の餌として、江戸近郊の農村に採集と納入が課せられていた記録がある。

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