日本の祝日

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日本の祝日

日本人の自然観は、豊かな気候風土で育まれた自然崇拝であり、自然観を基に精神風土も培われてきた。戦後になって、日本人の生活は急変した。その原因は敗戦に伴う占領政策に端を発している。占領政策は、本来の日本人の精神性までも否定され、さらには、その後の経済至上主義とともに急激な経済発展は、急速な都市への人口集中と農村の崩壊である。経済発展とともに、アメリカやヨーロッパなどの外国文化の表面的なことだけを理想として追い求め、日本人の持つ固有の伝統や価値観だけでなく、人間としての生き方までも捨て去り、忘れ去ってしまった。そうした精神風土の中で育ち、自然の現象に畏敬の念を持ち、感謝の慣習をなくしてしまった人々が道徳的に退廃してしまった。日本人としての精神は、長い歴史に培われた日本の祝日や伝統行事や風習の中にこそ綿々と引き継がれていると考える。今こそ、現代の日本人がよって立つべき精神風土を取り戻す必要がある。

毎年、2月1日の官報によく年の「国民の祝日」が掲載される。

「国民の祝日」は昭和23年(1948)に施行された「国民の祝日に関する法律」で定められた。同法第1条には「国民挙って(こぞって)祝い、感謝し、または記念する日」を定めると定義されている。(皇室中心、神道色の強いもの、から、新憲法の精神にふさわしい祝日に改められた。これからは、立法の精神はもとよりであるが、本来の日本人の精神に立脚した祝日の名称と意義を明確にし祝日として国民挙って祝うべきである。

元日

一月一日

「法廷主旨」 年のはじめを祝う。

太陽暦が用いられる前は、月の満ち欠けに基づいた太陰太陽暦(旧暦)で一月を30日とし、日没を一日の区切りとしていたため、大みそかの日没(暮れると)で新年となる。新年行事は大晦日の日没から始まることとなる。一年間の感謝とともに新しい歳の五穀豊穣、無病息災を祈るときとされていた。

我が家では日が暮れると、年男が屏息を持ち一年の罪や穢れを払い清める「大お祓い」を行い、新しい歳神様を始めとする神棚、仏壇に、白飯、お神酒、をお供えし、燈明を燈し、一年間の感謝とともに新しい歳の五穀豊穣、無病息災を祈った。それがすむと家族が集まり新しい歳神様と共に新年の最初の食事を行った。普段の神棚と違って、注連縄や環飾りが張られ、神酒徳利が供えられ、徳利には金色と赤色の紙で作られた口飾りが付けられ、燈明がつけられるといかにも神々しく見えた。年が見様、神殿、仏壇、霊人様(天学教)、荒神様(竈の神様、防火の神様)、井戸神様、夷・大黒天、の順に進める父の後をついて歩き、一緒に手をたたき、拝礼をして回った。

明治・大正期は北辰一刀流を修めた剣士が残っていたが、大日本武徳会によって竹刀剣術流派が統合されていく中で、北辰一刀流もその多くが現代剣道化していった。平成現在、水戸に伝わった北辰一刀流の道場が茨城に2箇所、東京に1箇所、徳島県に一箇所(吉野川市/寶壽館道場)現存する。また、小樽に伝わった北辰一刀流を継承する道場が東京に1箇所現存している。

元日の朝は、湧水がないので井戸、水道で水を汲むこととしている。その水を神棚に供え、お神酒徳利に酒を注ぎ(儀式であることから、本当の少しを注ぐこととしている)、雑煮(サトイモと大根)、を皿状の雑器に盛り、鏡餅(年が身にも通じる新しい歳の命の象徴であり、丸い形であることから、望月(満月に通じ、家族円満の象徴として、神事などに使用される三種の神器である八たの鏡八太野鏡の由来と言われる。)をお供えし、燈明を燈し、参拝し、正月を一緒に祝うこととしている。

本来正月の儀礼は男性が取り仕切るものとされており、一家の主人や長男(年男)が行うこととされた。また日頃多忙で休むことなく働く女性の安息日として家事を行わないでよいよう配慮したとも言われ、正月の準備は暮れのうちに済ませておいた。現在でも正月の三がん日は、雑煮を年男が作ることとしている。我が家でも雑煮が出来上がるまで女性や子供は布団の中にいることとしている。

雑煮を食べ終わると、一家の主人が、新年のあいさつと一年の抱負や望みを家族に伝え、お年玉が配られる。

その後、主人は八幡様で行われる新年祈願祭に参列、新年祈願祭は神主をお迎えし、海の物山の物をお供えし、神主により新年祈願が行われる。その後社務所に戻り、神にお供えしたお神酒を下げ、かわらけ甎家に注ぎ、乾杯し、新年のあいさつ、行事予定を伝え、情報交換や世間話をしてひと時を過ごしお開きとなる。

午後は、菩提寺である長久寺へ宍戸家がそろって、お年賀へ伺うこととしている。

新しい歳が見様を迎えての食事は精進料理と決められており、白飯、醤油味に鰹節で出汁をとり、サトイモ、大根、牛蒡、人参、豆腐、油揚げ、ほうれん草を煮込んだごった汁とサバなどの煮浸け、沢庵漬けであった。子供のころは毎日が麦飯であったこともあり、白飯が大変おいしく、それだけでもごちそうと思えた。その後は女性陣が多忙であることから、また、家族が多かったこともあり、マグロのぶつ切りを食べた。現在では刺身を食べている。

成人の日

一月の第二月曜日

「法廷主旨」 おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます。

元服とは、男子が十五歳になったとこの儀式で、「元」とは始めてという意味で、初めて大人の服を着るとともに冠を付ける(加冠)のことであった。古来、日本では大人も子供も防止(冠)をかぶる風習はなく、推古天皇(六世紀後半から七世紀)のころから大人は帽子をかぶるようになり、奈良時代になると冠を付ける事が儀式化された。

髪を切って烏帽子をかぶり、刀をもらい成人として名前をもらう事が元服であった。元服すると神事に参加することが許され、社会教育を受け、褌を付けるので「褌祝い」とも言われた。

女性の場合は、十三歳前後で「聖女式」が行われ、髪を結い、笄(髪がき)を髪にさし「髪上げの儀」とも言われた振袖から留袖に服を着替え、針仕事などならうようになり、葉を黒く染めたり、眉毛をそり落とす風習のところもあった。始めて腰巻を付ける事から「湯もじ(こしまき)祝い」とも言われた。

十五日が成人の日となった理由は、「元服」「聖女式」が宮中や貴族社会では一月五日までに、武家社会では一月十一日までに行われていたことが由来する。

明治九年(千八百七十六)四月一日、太政官布告で「自今満二十年を以て、丁年と相定め候条、この旨布告候う事」近代国家となるためには、それまであいまいで有った「成人」の定義を整理した。「丁」とは、律令制で課役を追うべき成年男子のことである。明治六年には、二十歳以上の男子はみな、兵役に就く義務があるとする徴兵令が布告された。明治政府が二十歳を「定年」として大人の年齢を引き上げたのは、開国により国際社会に伍していくには、少年・少女に十分な教育を施してから、社会の仲間入りをさせる必要があったためである。

「二十歳成人」が定着している今、「成人」たちの、幼児化が指摘されている。国民の多くが大学に由紀、社会人としての訓練が積まれていない、社会全体が高齢化、複雑化し、二十歳代の若い人たちに社会的責任を持たせることがないなどの事情がある。戦後は、兵役も無くなり、新成人には酒、たばこが認められ、選挙権が与えられても義務は生じないことから、大人になれないとも言われる。今後は「成人」の年齢が下げられると同時に、権利に伴う義務をしっかりと確立する必要がある。

建国記念の日  (旧 紀元節)

二月十一日

「法廷主旨」 建国をしのび、国を愛する心を養う

「日本書紀」には神武天皇(神日本盤余彦天皇)即位について、「辛酉年の春正月の庚辰の朔に、天皇、橿原の宮に即帝位す」とあり、西暦紀元前六百六十年二月十一日に当たるとし、明治六年になって二月十一日が「紀元節」と制定され、国の始まりとして祝ってきた。また、「日本書紀」の中で神武天皇が橿原建都に当たって「八紘(はちこう)を掩(おおう)ひて宇(いえ)と為(せ)むこと、また可(よ)からずや」(八紘一宇 「天地四方、八紘に住むすべての者が、一つ屋根の下の大家族のように仲良く暮らそうではないか。何と楽しいことだろうか。」)と詔をささげた。敗戦により占領軍(昭和20年2月,GHQが国家神道に解体を目指した「神道指令」)により廃止された。昭和四十二年「建国記念の日」として復活した。今後は、経済危機や安全保障の危機に対応するために、「国家」の意識を明確に持ち、「建国の理念」に還り苦難を克服していく必要がある。国民の中の意識醸成のために「紀元節」の復活が求められている。

春分の日

春分日(三月二一日)

「法廷主旨」 自然をたたえ、生物をいつくしむ。

「春分の日」は国民の祝日で、日本の祝日法に「自然をたたえ、生物をいつくしむ日」と定められている。太陽が真東から上り、真西に沈み、昼と夜の長さがほぼ同じとなる。「暑さ寒さも彼岸まで」と言葉にある様に本格的に暖かくなる。

明治十一年(千八百七十八)から昭和二十二年(千九百四十七)までは春季皇霊祭と呼ばれ、宮中の交霊殿で、天皇が歴代天皇の御霊を親しく祭る祭儀が行われていた。

昭和の日

四月二九日

「法廷主旨」 激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。

平成になった当時から、国民の中に、四月二九日を「昭和の日」とする案があり、社会情勢などから「みどりの日」となった。その後国民運動として「昭和の日」に改正しようという運動がおこり、二度の廃案を経て平成一七年に祝日改正法で成立。日本の歴史浄特筆すべき飛躍の時代とか、深刻な危機の時代を導き、支えてくださった天皇については、その時代を生き抜いた国民の足跡を明記する意味を込めて、格別の祝日を設けてよいし、また積極的に作ってしかるべきである。」(高森明憲国学院大学講師)の意見に代表される趣旨から、史上最大とも言える苦難の時代、とりわけ戦後の復興に国民が一致団結し国の復興に当たった苦労を思い起こしすことで、新たな前進への糧にして国づくりに取り組むことが求められている。天皇の名前が使われない理由は、健保の「国民主権原則に反する」と批判を恐れた政府は「みどりの日」として法制定した。日本国民の根底に流れる日本国を思う心、国民が一体となって国づくりに取り組む心を忘れる事のないよう特別な日として、心から祝い、喜ぶ必要がある。

憲法記念日

五月三日

日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する。

昭和二十一年十一月三日日本国憲法公布日、昭和二十二年五月三日日本国憲法施行日、昭和二十三年施行の「祝日法」により五月三日国民の祝日「憲法記念日」と制定された。

日本は昭和二十年八月十四日にポツダム宣言の受諾を決めて敗戦。戦勝国連合国軍の支配を受け、ダグラスマッカーサー最高司令官はこの年の十月十一日に幣原喜重郎首相に憲法改正の支持声明を発表。日本政府の首脳陣も、憲法学者も、明治憲法のままで、ポツダム宣言でうたわれた民主主義による新しい日本を作ることは可能であり、憲法改正は必要ないと考えていた。政府は、松本烝治国務相を就任とする憲法問題調査委員会を組織。改正案は、明治憲法から天皇の権限を制約する一方、議院内閣制を導入、さらに臣民の権利を拡充するなど、連合国側が求める民主化ができるとした。マッカーサーは受け入れる事は出来ないと断定。二月三日GHQのホイットニー民政局長に民政局独自の憲法草案の策定を指示。わずか一週間(リンカーン誕生日の二月十二日)の作業で、現憲法に近い草案を作り上げた。草案策定メンバーは、ほとんど軍人で、弁護士資格を持つものは少なく、憲法の専門家は一人もいなかった。草案が作られていることを政府は全く知らされず、草案策定過程を国民も知らされなかった。昭和二十一年六月二〇日帝国議会に掛けられ、若干の修正をした後、十月六日に貴族院、七日に衆議院で可決、枢密院での議決を経て明治節の十一月三日に公布、昭和二十二年五月三日に施行された。この憲法はGHQ支配下のもので、日本が独立すれば改正されると考えられていた。昭和三〇年自由民主党の保守合同は「合同の目的は憲法改正だ。」と三木武吉は語った。自由民主党結成の基本理念は「現憲法の自主的改正」を謳っている。

日本国憲法は一度も改正されず、世界一の長寿憲法となったが、その原因のひとつは、憲法改正について、「各議院の総議員数の三分の二以上の賛成で、国会が発議し、国民に提案してその承認を経なければならない」(第九六条)と厳しいハードルをかけている。五〇年以上の間に憲法改正を良しとしない勢力が「日本国憲法は世界で優位つの平和憲法」「平和憲法があったから日本は戦争に巻き込まれなかった」などと言い、会見の動きを阻止してきた。しかし、日ホン国憲法は世界の唯一の平和憲法ではなく、憲法が平和を守ったのでなく、平和が保たれたのは憲法ではなく、日米安保条約などの外交の成果であることを忘れてはならない。今の憲法が真の独立国家としての憲法ではなく、国際社会の変化や、国民生活にそぐわない点が多く、改正すべきであるとの考えは国民の間で多数派となっている。

みどりの日

五月四日

「法廷主旨」  自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ。

四月二十九日昭和天皇誕生日を一九八九年(平成元年)「みどりの日」を制定、二〇〇六年(平成一八年)廃止。昭和の日に改名する形で廃止され、五月四日「昭和の日」として引き継がれた。

子供の日

五月五日

「法廷主旨」 子供の人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝をする。

天然理心流(てんねんりしんりゅう)とは、日本の古武道の流派。剣術、居合術、小具足術(小太刀術)を含み、その他柔術、棒術(棍法と称する)も伝えた総合武術である。

「時の記念日」

明治政府は明治六年(一八七三」一月一日、それまでの太陰暦から太陽暦(西暦)に暦を変えると同時に、この日から時刻も一日を機械的に二四時間に区切る定時法を採用した。押し寄せる西欧列強と渡り合うにはその暦や時法を取り入れるしかなかった。

国民の祝日ではない。「日本書紀」の記述によると、天地天皇一〇年四月二五日(西暦六七一年六月一〇日」「漏剋を新しき臺に置き、初めて候時を打ちて鉦鼓をならしき。初めて漏剋を用いしなり。この漏剋は、天皇の皇太子にましまししとき、始めてみづから作りたまいしなり。云々」。大津の宮に遷都をした後、漏剋を高台に据え付けて時刻を測り鐘と太鼓で知らせたという意味。天地天皇(中大兄皇子(なかのおうえのおうじ)は、六百四拾五年、中臣鎌足らとともに、政権を牛耳っていた蘇我蝦夷・入鹿父子を倒し、天皇中心の中央集権国家を作るための大化の改新と言われる政治改革に乗り出し、六百六十三年には、朝鮮半島の白村江で、百済を支援して唐・新羅軍と戦い(白村江の戦い)大敗をした。反撃を恐れ、水城(みずき)防御線の建設、大和から大津への遷都を行った。国内・外に向けて対抗するために、統一された国家が必要であり、強力な中央集権国家の構築が求められていた。

この頃は、ポスト天地天皇をめぐって弟の大海人王子(おおあまのおうじ)と長男の大友王子の確執があり、内外とも緊迫した社会情勢であった。時刻の導入は、政府が時刻を定め、知らせることで、官僚機構も軍隊も初めて統一した動きができる。漏刻は陰陽寮(おんみょうりょう)という役所で管理され、全国民が時刻を知るようになる。寺院の梵鐘は仏事陽から時の鐘へ、寺宝をと言う機能へ、機能転換が有ったのではないかと言われて居り、江戸時代には[時の鐘]などの時を知らせる施設が作られ時刻を知らせる時鐘制度が確立し、日本国民は、全国津々浦々で、寺の鐘や時の鐘により時刻を知ることができるようになり、農村も都市も急速に社会の機能を整えられていった。現在の時刻は、一日を機械的に二十四時間にに分ける「定時法」で、当時の時刻は「不定時法」であり、日の出と日没をそれぞれ起点に、昼、夜別々に時を刻む。このことにより同じひと時(約二時間)でも夏は昼間の方が長く、冬は夜の方が長かった。一五五一年フランシスコ・ザビエルによって西洋の定時時計・機械時計がもたらされたが、不定時法には使用できなかったが、日本人の器用さから、不定時法に適用できる時計・和時計を生み出した。この技術などのことが、明治時代の急速な工業化に繋がっていると言われる。

「からくり儀右衛門(ぎえもん)」江戸時代末期から明治初期に活躍した、田中儀右衛門、後に東京で大手電機メーカー「東芝」の前身である田中製作所を作った人。日の出、日の入りを基準とする不定時法は、昼と夜とで、毎日時間の長さが違う。西洋の機械時計を不定時法に調整するためには、相当の高い技術が必要であった。和時計は、江戸時代の日本人の技術水準や器用さを示すものとして国際的に高く評価をされている。中でも田中の和時計は群を抜いた正確さで有ったと言われている。田中の技術が「東芝」に伝えられ、和時計技術の伝統が精密工業に活かされるだけでなく、明治以降の殖産興業に大きく貢献した。近代の日本人の時間に対する厳格さが、国際地位を高め、労働の生産性を効率良くし、高度経済成長をもたらしたと考えられる。今一度「時の記念日」の意義を振り返り、新たな前進の糧とし、これからの国づくりへと生かす時である。

海の日

七月の第三月曜日

「法廷主旨」 海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う。

明治天皇の巡幸、明治五年の九州巡幸に始まる全国巡幸の一環、明治九年(一八七六九)六月二日、東北・北海道巡幸。現在のJR東北線に沿うように北上、七月一四日青森に到着、一六日青森から、軍艦「春日」の先導で灯台視察船「明治丸」で函館にわたる。函館市内視察後一八日「明治丸」に乗船、三陸沖、鹿島灘を経て、十日朝横浜港に到着。(宮内庁の「明治天皇記」芳川弘文館)この横浜港到着の七月二十日が「海の日」となった。当時逓信大臣・大阪商船社長村田省蔵氏などの発案。明治天皇の巡行は、「明治の国作り」と密接に繋がり、幕藩体制から、強力な中央集権国家へ、急激な変革が旧武士たちの不満を解消し、国づくりのかなめとなる天皇が国中を回ることによって、国民の心を一つにする必要があり、大きく意義のるものとなった。特に東北は、戊辰戦争の時、ほとんどの藩が「反政府」に回った。巡幸により心のしこりを取り去り、関係を修復する意味もあった。また、日本は白村江の戦いや朝鮮出兵で海洋施行で外へ外へと乗り出していたが、失敗、撤退を余儀なくされ内陸施行へとなった。内陸施行が経済的に行き詰まったり、強い外圧を感じると、再び海洋施行に戻るという繰り返しであった。明治天皇のずん項は、ペリーの黒船来航以来の押し寄せる西欧列強の外圧の前に、海外に目を向け、列強の力に対応しようとした時期である。日本は、日清、日露の戦争に勝ち、他のアジア諸国が植民地とされる中で独立を保つことができた。その後の対戦で未曾有の敗北を経験し、一国平和主義と経済至上主義の内陸施行主義に変わった。現在では、海外に頻発する戦争や近隣国の日本を脅かす軍事活動が迫る中、脅威にさらされ、改めて、日本国の平和の在り方が問われ、真の独立っ国家としての在り方が問われている。改めて海洋志向への転換が求められており、海の資源、豊かさや環境を考える日として、同時に、日本の海と国のかかわりの歴史や過去の失敗を繰り返すことのない海洋志向の在り方のについて国民全体で考える日とすべきである。

敬老の日

九月の第三月曜日

「法廷主旨」 多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を願う。

昭和二十二年(千九百四十七)九月十五日兵庫県西脇市野間谷村で、当時の村長の発案で、村内のお年寄りを集め、敬老会が開かれたのが始まりで、三年後昭和二五年、兵庫県が「としよりの日」を定め、全国的に設置運動を展開、昭和二六年社会事業協議会が九月一五日から一週間を老人福祉週間とし、一五日を「年寄りの日」と定めた。

昭和三十八年に老人福祉法が制定され、九月一五日を「老人の日」、「広く国民が老人福祉について関心と理解を深め、かつ、老人が自ら生活向上に努める意欲を高めるような行事が実施されるよう努めなければならない。」日と定められた。

室町時代の謡「幸若舞」の「敦盛」の一節に「人間五〇年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり、・・」、下天とは仏教の宇宙観で天上界の中の最も低いところにある天を言う。つまり人の一生—-五〇年とは下天の一日にしかすぎず、人生とはいかにはかないかと言う事を指している。小田信長は好んで謡い、舞ったと言われている。

五〇歳を過ぎると様々な形でお祝いされた。六〇歳還暦の祝い生まれた干支に戻るという意味で、還暦の人を生まれたばかりの赤ちゃんに見立てて、赤いちゃんちゃんこを送って祝う行事。七〇歳古希の祝い、ここまで生きる人は「古来稀なり」(杜甫「曲江」)、七十七歳は「喜寿の祝い」、七十七歳の草書体が喜と読める事から、八十八歳は「米寿の祝い」米の字を分解すると八十八に読める事から。九十九歳(白寿の祝い)百より一を引いた文字が白から。

戦後は平和が続き、生活が進展し、医療が進歩したことにより、日本人の平均寿命は飛躍的に向上した。急速な長寿社会が到来し、長寿化が医療費、介護費用の増高を示すなど社会に様々な問題を投げかけ、課題が山積することとなっている。また一方で、地域、家庭や家族の崩壊が起こるなど、在り方も大きく問われる時代となった。若い時に家族や地域、国のために働いてきた人である老人を大切にし、祝う事は当然であるが、高齢者自身が社会的自覚を持ち、いかに生きるべきかを考える必要がある。若い人も長寿の人も共に高齢社会を乗り越えるために考える日としたい。

秋分の日

「法廷主旨」 祖先をうやまい、亡くなった人々をしのぶ。

体育の日

十月の第二月曜日

「法廷主旨」 スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう。

東京オリンピックが昭和三九年十月十日開会式には、九十四カ国から集まった五千五百八十六人の選手たちの参加と、全国十万人の若者たちの手でリレーされた聖火が灯された。十五日間にわたり熱闘を繰り広げた熱戦、日本人の活躍は多くの日本人に感動を与えた。東京オリンピックが日本人に与えたものは、選手の活躍と金メダルだけでなく、世界のひとを迎え入れるための都市の整備、新幹線に象徴する交通機関の発展、運営上の技術革新など科学技術の発展でもあり、それらが起爆剤となって高度成長が始まった。昭和四十一年に制定された「体育の日」が、東京オリンピックの開催を記念した物と言う事は言うまでもないが、中央記念行事の実施要綱にも「体育の日」はかつてオリンピック東京大会の開会式を挙行した記念すべき日である。」と明記されている。祝日法乃その意義は「スポーツに親しみ、健康な心身をつちかう」となり、祝日法の改正により平成十二年より「十月の第二月曜日」となった。東京オリンピックに期待し、国民一体となって寄せた国民の思いを忘れることなく国づくりに取り組むことを考える日としたい。

国民生活も安定し、高齢社会の中で、健康長寿が求められ、生涯学習や生涯スポーツが持つ意義は大きい、また子供たちの健康、体力の向上、健全な成長の為にもスポーツを意識し、その振興を図る必要がある。スポーツを通じた国つくりを考える日としたい。

文化の日

十一月三日

「法廷主旨」 自由と平等を愛し、文化をすすめる。

「明治節」は、GHQにより日本人の歴史観を抹殺すべく改定を余儀なくされ、「明治節に込められた日本人の思いも抹殺された。現在の「文化の日」となっている。大正四年、明治四五年明治天皇がなくなり、国民の間で「御遺徳をしのぶところ」を望む請願に運動に押され、明治天皇を祀る明治神宮の建設が大正四年に始まった。全国からの明治天皇をしのぶ延べ10万人の青年たちの建設工事や植樹へのご奉仕と、全国からの10万本の献木によって「代々木の森」が築かれた。また、国民の間から運動が起き、明治大正一四年に「十一月三日を明治の天長節として祝日」とすることの請願が出され、昭和二年「明治節」として制定された。昭和天皇の詔は「臣民ト共二永ク天皇ノ遺徳ヲ仰キ、明治ノ昭代(よく治まった時代)ヲ追憶スル所アラムトス」とある。西欧列強の波にもまれながら、国民が一致団結し、国造りに当たった時代であった。危機の時代を導き支えた天皇だけでなく、国民の足跡を明記し、時代を思い起こし、さらなる前進の糧とする国民の祝日として、制定すべきである。

明治神宮の森は明治天皇の遺徳をしのび国民のよりどころとして造営された。「献木植栽日誌」森作りの担当者らが自らの受け持ち区域の献木について書きとめたもの。一年間にわたる記録。

四三号府県、樺太、朝鮮、関東州から寄せられ、クロマツなどの針葉樹、樫などの緑用広葉樹、ケヤキなどの落葉広葉樹が多く献木された。東京市小学児童からカシ・シイの一〇〇〇本、長野県南佐久郡町からつつじ四九〇本などがみられる。(代々木 平成二九年春号より)三鷹市からも多くの献ぼくが行われ、勤労奉仕が行われたと聞く。

勤労感謝の日

十一月二三日

「法廷主旨」 勤労をたっとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう。

新嘗祭の歴史は古く、「日本書紀」に天武天皇六年(六七七)十一月乙卯の日(旧暦二十一日)に、新嘗をきこしめしたとある。毎年十一月の「下卯の日」に新嘗祭を行う日と律令で決まっていた。明治五年の改歴の際に、明治六年の新暦十一月の「下の卯の日」が二十三日であった為に太政官布告によりこの日を新嘗祭と定められた。その後昭和の敗戦後、皇室の祭祀と国民の祝日を切り離すという占領軍の大方針で、新嘗祭も紀元節も新しい祝日から排除された。その後国民のアンケート結果により、新嘗祭の十一月二十三日が「勤労感謝の日」として残されることっとなった。

天皇誕生日

十二月二三日

「法廷主旨」 天皇の誕生日を祝う。

昭和六十四年(1989)一月七日に昭和天皇が崩御され、皇太子・明人親王が皇位を継承され、第125代天皇として即位された。今上天皇の誕生をお祝いし、皇室の繁栄を祈り、各種の祝賀行事が行われる。

天長節

古くは天長節と言い、遠く唐の玄宗皇帝の誕生日を天調節と読んだことに由来する。天長の語は「老子」の「天地長久」からとったものである。天長節が国家の祝日として復活したのは明治元年(1868)で、後に太陽暦改歴により、日づけが改められた。

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