歳時記

大國魂神社くらやみ祭り

この歳時記は私が幼少期より、父母が行事として行ってきたことを私の次の代に伝えるべく書き残すことを目的としております。記憶を基に長久寺の新義こよみ、その他、東京神宮館蔵版 年中行事を楽しむ本などを中心に、行事のいわれ、作法、伴う時の食事などを確認し記載しています。

種の目的は、私が経験したことは、自ら記憶をしているが、次の代、生活を共にしていない子供たちに、伝えることができないため、目も同然の乱筆乱文であるが、小冊子にまとめ残すために書き溜めているものです。

いずれは文言の整理、推敲等を行い冊子の発行を行いたいと思っています。

☆原稿の誤字、脱字、変換違い、乱文については順次訂正をしていく所存です。深くご容赦をお願いしますとともに、ご指摘くださいますようお願い申し上げます。

引用文献
日本文芸社 新谷尚紀 和のしきたり 日本のこよみと年中行事
東邦出版  文 白井明大 絵 有賀一広 日本の七十二候を楽しむ
東邦出版  平藤喜久子 日本の神様と楽しく生きる
けやき出版 宍戸幸七 三鷹の歴史 江戸時代から昭和中期にかけて
自由国民社 12か月のきまりごと歳時記 五感で楽しむ季節の事典
野崎村の歴史 吉野泰平 村の成立から明治初期まで
戦国武将柴田一族と島屋敷 井上利明
西三鷹 むかしむかし 西三鷹むかしむかし編集委員会
青春出版社 大久保洋子 江戸っ子は何を食べていたか
青春出版社 新谷尚紀  日本の「行事」と「食」のしきたり
三鷹市教育委員会 水車やぐらし 武蔵野(の川流域)の水車経営農家生活史
その他、多くの書籍を参考とし、あるいわ書き写しによりまとめてまいります。著者、出版社に活用の許諾をいただいておりませんこと深くお詫びをいたします。

下連雀八幡大神社豆まき
下連雀八幡大神社 豆まき
大國魂神社祭礼
大國魂神社祭礼
御先払大太鼓威儀物行列
御先払大太鼓 威儀物行列
国領神社

国領神社の発行する、国領神社歴、創建年月は不明である。古代多摩川の辺にあった國領神社(第六天社)と神明社(八雲神社・杉森神明社)が1640年頃街道筋(甲州街道)に移り、昭和三十八年に合祀、社名を國領神社として現在に至っている。 境内には藤の木があり、幾千年もの歳月を経て今日もよく延び茂るので、延命・子孫繁栄・無事に通じ、万物の繁栄成就と災厄を防ぎ守る御神木として御祭神と共に崇敬されています。

目次

和風月名

「和風月名」は月を数字で表すのでなく、旧暦を使用していた時期は、日本人の持つ、自然感や季節感を豊かに表現する名称で呼ばれていました。日本独特の月の呼称です。歳時記の月の冒頭に記載してあります。

二十四節気と七十二候

今の若い人でも、立春、啓蟄、春分、冬至などの24節気については、知ってはいるけど、今の生活環境や生活様式に合わないものもあり、季節がずれていると感じている人も多いと思います。

二十四節気をさらに3つに分けた七十二候は、1年を七十二の季節に分けたもので、旧暦に沿って季節を認識してきた感覚を持つ人も多いと考えますが、太陽暦になってからは、旧暦太陰暦とのずれが1か月あることから、紛らわしくなったことも加え、忘れかけている方も多いのではないかと考えます。

気候変動や、地球温暖化などに夜季節感の変化が分かりにくくなった今、改めて、日本人として、四季を大切にし、季節を味わいながら生活することが大切だと気付かされる今日この頃です。歳時記の一覧表の中にそれぞれに記載させていただきます。

古い言葉と方言

歳時記は人の生活を写すものと考えますが、生活は会話がなくては、人と人が繫がることができません。会話は人と人の繋がる絆の鎹です。その時代その時代によって独特の会話が行われ、言葉があったものと思われます。また時代とともに変化し、消えていくものも少なくないと考えます。子供のころに使われていたものをできる限り拾いだし、掘り出してみました。歳時記の一つとして記載します。

ご近所の先輩方に心強いご協力をいただきました。思い立って、早速に年の離れた先輩たちに協力依頼を始めてみると、先輩たちの数の減少に驚くばかりでございました。

一朝一夕に出来るものではありません。今後は収集とともに、言語学的に調べてみたいと考えます。結果をぜひ記載したいと考えます。

長久寺本堂
長久寺本堂
地蔵堂(焔魔堂)

代参・おひまち

代参

野崎の地域に古くから社寺への代参が行われ崇敬する講があり、講元・世話人(講中の中で輪番で決められていたようである)が中心となり、講中から毎年、幾人か選出(毎年交代、希望者、くじに依る所が多い)し、講中の代表で古峯神社に参拝し、御祈祷の御札を受けて、参拝に当らなかった講員に御札を配る。

参拝に関する費用(割り当てもしくは参加者の実費負担、金員でなく米を供出など)や総ての運営をその仲間の人々達で行った。

代参者が戻ると講元に講中全員が集まり、参拝に当らなかった講中に御札を授与する。

毎年交替で全講員が代参人となります。

他の代参行事も同様に行われ、春または秋に行われることが多く、娯楽の少ない時期時節に、農家の娯楽の一つとして刊行され、情報の少ない中、科学の進捗も進まぬ中で、定住型の農耕民族とし、自然を崇拝し、畏れ敬う生活の中で、生活を脅かすものへの恐れから、神仏を頼るしかない、神仏に救われることを願う行事習慣として長い間行われてきた。

時代の変遷、科学の進歩や生活の変化に合わせ、縮小、形骸化するものもあり、廃止されたものもある。

おひまち

候下では、集められたコメなどで粥を焚き、みそ汁に、沢庵などの香の物を添えてふるまった。

時には徳の高い者の酒の提供もあったと聞く。

底では、参拝の土産話や世間話などが花を咲かせたとも言われ、情報交換の良い機会であった。現在では行われていない。

古峯ヶ原(こぶがはら)古峯神社(ふるみねじんじゃ)

野崎の地域に古くから社寺への代参が行われ通称「こぶがはらの代参」とし、古峯ヶ原(こぶがはら)古峯神社(ふるみねじんじゃ)を崇敬する講があり、講元・世話人(講中の中で輪番で決められていたようである)が中心となり、講中から毎年、幾人か選出(毎年交代、希望者、くじに依る所が多い)し、講中の代表で古峯神社に参拝し、御祈祷の御札を受けて、参拝に当らなかった講員に御札を授与する。

当神社は栃木県鹿沼市草久古峯ヶ原(こぶがはら)に鎮座しており、大神様が鎮まっておられます。

標高は約700メートルの地点にあり、古峯神社(ふるみねじんじゃ)と言い、こぶがはらさま、などと愛称されている。

御祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)をお祀りし、別名小碓尊(オウスノミコト)・倭男具那命(ヤマトオグナノミコト)と言い、第12代景行天皇の皇子である。

幼少より、特に心身共に人並み外れて勝れ、天皇より詔勅(御命令)を拝受し、天皇の御分神として国民の幸福と平和とを願いつつ、西国の熊襲と東国の蝦夷を制し国家の統一に大きな業績を遺された神様です。

日本武尊の御神徳は、焼津の原(現在の静岡県)での火難を除かれた故事により、火防の神として、また走水海(現在の静岡県から千葉県にかけての一帯の海)での、海神の怒りを鎮めたという故事から、海上安全、大漁満足、或いは五穀豊穣の神として、農村・漁村の人々より熱烈なる信仰も集めている。今を去る1300余年の昔、隼人というお方が京都からこの地に移り、尊(御祭神・日本武尊)の御威徳を慕いつつ、京都よりこの古峯ヶ原の淨地に遷座(創祀)申しあげたのが始まりといわれております。

このように人智人力の及ばない処に、古峯の大神の弥高い御神威が得られるとされ、国家安泰はもとより、家内安全・商売繁盛・交通安全・当病平癒・身体健全などの、総ての開運・除災・心願成就の神として崇られるに至り、関東随一の稀に見る霊山・古峯神社として現在では一段の信仰を仰ぐ的となっている。

その後、古峯ヶ原は、日光を開かれた勝道上人という僧侶の修行の場となり、3ヶ年の修行の後、天応2年(西暦782年)日光の男体山に初めて登頂し大日光開山の偉業を成しとげられました。この縁起にもとづき、年々古峯ヶ原(古峯神社を中心)に登山、深山巴の宿で祈願を込め修行する慣わしとなり、その修行は明治維新に至るまで、千余年の永きに亘って行なわれた。

古峯神社はこのような古峯大神のご利益の顕著を以って全国稀にみる霊地として、火伏信仰、天狗信仰などの信仰を集め、明治初年には太政官布告により、神仏分離が行なわれ、古峯神社となり、現在にいたっている。

「大天狗」、「烏天狗」

当社は別名「天狗の社」とも呼ばれ、神社内参籠室や廊下には所せましと天狗の面、或いは、扁額・威儀物(火ばし、下駄、わらじ、天狗人形)が掲げられており、これは熱心な崇敬者から心願成就の暁に奉納されたものばかりです。

天狗はご祭神のお使いとして、崇敬者に災難が起こった時、直ちに飛翔して災難を取り除いてくれる(災厄消除・開運)偉大なる威力の持主として広く根深い民間信仰を集めている。

顔が赤く鼻の長い天狗を「大天狗」、黒いくちばしのある天狗を「烏天狗」という。

講中・代参

当神社には、講組織をもち、交替で代参を行う附属の講中があり、その数は約二万を数え、崇敬者は全国二百万を越します。

春秋の代参時には、こうした参拝者が全国より集まる。

講中とは、古峯神社を参拝するため、崇敬する人々が集まって組織する仲間のこと。

講元・世話人が中心となり、古峯神社参拝に関する費用や総ての運営をその仲間の人々達で行います。

古峯神社社務所ホームページより移記

みたけ山講中

野崎地域に御嶽山信仰講中があって、能更新として信仰され、「大口真神様(お犬様)」の御神札が各家に貼られてあった。他の信仰講中と同様に、講元・世話人(講中の中で輪番で決められていたようである)が中心となり、講中から毎年、幾人か選出(毎年交代、希望者、くじに依る所が多い)し、講中の代表で古峯神社に参拝し、御祈祷の御札を受けて、参拝に当らなかった講員に御札を授与する。参拝に関する費用(割り当てもしくは参加者の実費負担、金員でなく米を供出など)や総ての運営をその仲間の人々達で行った。代参者が戻ると講元に講中全員が集まり、参拝に当らなかった講中に御札を授与する。毎年交替で全講員が代参人となった。

候下では、集められたコメなどで粥を焚き、みそ汁に、沢庵などの香の物を添えてふるまった。時には徳の高い者の酒の提供もあったと聞く。そこでは、参拝の土産話や世間話などが花を咲かせたとも言われ、情報交換の良い機会であった。近郊農業の衰退とともに中止された。市内には現在も継承しているところがある。

武州御嶽山信仰

西海 賢二 著(東京家政学院大学教授/1951年生まれ)

本書は、御師とともに現地で修行生活を実践した著者が、講集団をキーワードにして、山岳信仰と地域社会の関係を、歴史民俗学的に研究した成果である。前著『武州御嶽山信仰史の研究』(名著出版 1983)に、その後の調査を付加し、論文構成 や文章表現に大幅な修正を加えて刊行。多摩川の源流に位置することから水を司る農耕神として河川流域の農家から信仰され、また江戸期には「大口真神様(おいぬ様)」の御神札が広く信仰を集めたことから特に活動が盛んであった。

西海賢二著, 『武州御嶽山信仰』(山岳信仰と地域社会:上), 岩田書院 2008年5月刊より引用

武州御嶽神社の由来

神占の神である櫛真智命(くしまちのみこし)、国土豊饒の神の大己貴命(おおなむちのみこと=のちの大国主命)、少彦名命(すくなひこなのみこと)が祀られています。

神社創建は崇神天皇7年(紀元前91年)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)が東方十二道(東海道)に赴き、大和朝廷の敵対勢力を討った際、大己貴命、少彦名命を祀ったのがはじまりとされています。

鎌倉時代には、有力な武将達の信仰を集め、金峰山御嶽蔵王権現と称され、厄除・延命・長寿・子孫繁栄を願う多くの人達の参拝によって栄えました。

その後、度重なる兵火で荒廃するものの、文暦元年(1234年)、大中臣国兼が蔵王権現を鋳造・奉載し神殿を再興。

御神徳の発揚に努め、再び繁栄しました。

明治7年(1874年)、神仏分離のため社号が御嶽神社と改められ、さらに武蔵御嶽神社と改め現在に至ります。

武蔵御嶽神社公式サイトより引用

宝物殿

日本三大鎧の一つとされる国宝、赤糸縅大鎧(あかいとおどしのおおよろい)が展示されています。

この鎧は、特に信仰の厚かった武将・畠山重忠の奉納であると言われています。

この他、有力な武将達の鎧、太刀、鞍など、多くの重要文化財が並びます。

入口には、鎌倉時代の武将畠山重忠公の馬上像があります。

この像も社殿前の狛犬と同じ、北村西望の作品です。

武蔵御嶽神社公式サイトより引用

おいぬ様

末社の盗難除け・魔除けの神「大口真神」は、江戸の昔から「おいぬ様」として親しまれ、広く信仰されてきました。

この「おいぬ様」は、犬ではなく日本狼のこと。

今は絶滅したといわれていますが、御岳山でも一昔前まで、畑を荒らす害獣を食べてくれるありがたい存在として、狼たちと共存していました。

狼が守り神となった由来が日本書紀に記されていて、御岳山では次のように伝えられています。

日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際、御岳山から西北に進もうとした時のこと。

大きな白鹿に道をふさがれた尊は困り果て、占いをしたところ、鹿が山鬼であることを知る。

山蛭を目に投げつけて退治するものの、大鹿が放った深い妖霧に道を見失ってしまう。

そこへ忽然と現れた白狼が、西北へ尊の軍を導いた。

尊は白い狼に、山に留まって火災盗難を防ぐよう命じた。

その後、大口眞神(おおくちまがみ)として、御岳山の魔物退治を仰せつかったとされています。以来、魔除け、火難除けの神として「おいぬ様」の霊験の信仰が始まり、現在では、「社頭で愛犬祈願を行うようになり、愛犬の健康を願う人々で賑わっています。

本殿の狛犬は江戸時代のブロンズ製で、天明3(1783)年の作と記されています。

お社の守りを固める狛犬といえば、唐獅子で阿吽の対になっているものが多いですが、こちらはニホンオオカミを象った狛犬です。

社殿前の威厳のある狛犬は、長崎の平和祈念像の作者でもある北村西望の作品で、昭和60(1985)年に奉納されました。

「おいぬ様」のお札は、信仰の拡大にともなって江戸時代の天保の頃から広まりました。

お札の「おいぬ様」の目に三日月がかたどられているのは、日本三御嶽を「雪月花」に例え、武蔵御嶽神社は「月」とされたからです。

他の二社は、木曽の「御嶽神社(おんたけじんじゃ)」の「雪」、甲府の金峰山の「金櫻神社(かなざくらじんじゃ)」の「花」です。

武蔵御嶽神社公式サイトより引用

成田山

野崎に成田講中が組織されていたが時代の変遷とともに参加者が減少し、現在は行われていない。

らびに二童子像は、幕末の深大寺炎上の際にその難を逃れ、 以来深大寺の仮本堂に安置されていたことが深大寺所蔵の『不動堂再建願』なる文書の記載から判明し、幕末の頃より不動堂には独自の信徒講中が組織されていたようで、堂宇の再建も信徒の力によるところが大きかったようです。

不動堂境域には、東京都の名湧水57選にも入る「不動の滝」があり、毎月28日には深大寺僧侶によって不動護摩供が修されます。

このような縁から講中が組織され、不動明王は、真言密教の最高仏と位置づけられる大日如来の成り代わった御姿です。

お不動さまは、私たちの心の迷い・煩悩を取り除き、全ての人を救うため、忿怒のお顔を示されている。右手の利剣は「悟りの智慧」を象徴し、心の迷いを断ち切り、左手に持つ羂索の縄で、煩悩を縛って封じ、正しい教えの道へと導く教えを信仰していたものと考えられ、明治維新以降、新勝寺はお札を通じて、戦時下の人々の精神的な助けとなり、「身代わり札」は「鉄砲玉から身を守る札」として日清戦争当時から軍人らに深く信仰されていたことが、信仰の対象となり継続されたものと考えられる。

成田山新勝寺の御本尊不動明王は、真言宗の開祖、弘法大師空海が自ら一刀三礼(ひと彫りごとに三度礼拝する)の祈りをこめて敬刻開眼された御尊像です。

成田山では、この霊験あらたかな御本尊不動明王の御加護で、千年以上もの間、御護摩の火を絶やすことなく、皆さまの心願成就を祈願してきました。

御護摩では、お不動さまの御力と僧侶の祈り、そして皆さまの祈りが一体となり清浄な願いとなって現れます。現在も、「成田山のお不動さま」として数多くの人びとの信仰を集めています。

成田山ホームページより引用

人々の一切の煩悩と迷いを断ち、すべての人を救うお不動さまのお姿

当山の御本尊不動明王は、真言密教の最高仏と位置づけられる大日如来の成り代わった御姿です。

お不動さまは、私たちの心の迷い・煩悩を取り除き、全ての人を救うため、忿怒のお顔を示されています。

また、ご奉仕をする心の大切さを私たちに教えるため、奴僕の姿になっています。

右手に握っておられる利剣は「悟りの智慧」を象徴し、心の迷いを断ち切ってくださいます。

そして左手に持っておられる羂索の縄で、煩悩を縛って封じ、正しい教えの道へと導いてくださいます。

お不動さまがお座りになる磐石は、全ての人を救うため、あらゆる苦難に耐える決意を表しています。お不動さまの広大無辺の慈悲に感謝して、

日々お祈りしましょう。

お不動さまは忿怒の表情で、全ての人を救おうとされます。

1.右手には心のあらゆる迷いを断ち切る利剣を握っています。
2.左手には物事を正しい方へ導くための羂索という縄を持っています。
3.お不動さまがお座りになっている磐石という大きな岩は、堅固な御心を表しています。
4.お不動さまは、あらゆる障害を焼き尽くす火焔を背負っています。

成田山ホームページより引用

大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)は、神奈川県伊勢原市の大山(別名: 雨降山〈あふりやま〉)にある神社である。

「阿武利」とも表記し、「あぶり」とも読む。延長5年(927年)の『延喜式神名帳』に記載されている相模国の延喜式内社十三社の内の一社(小社)で、旧社格では県社に列している(現・神社本庁の別表神社)。

大山の山頂に鎮座する本社(奥社・前社含む)と中腹に鎮座する下社があり、下社までは大山ケーブルカーでアクセス可能である。本社に大山祇大神(オオヤマツミ)、摂社の奥社に大雷神(オオイカツチ)、前社に高龗神(タカオカミ)を祀る。江戸期以前の神仏習合時代には、本社には本来の祭神である石尊大権現(山頂で霊石が祀られていたことからこう呼ばれた)が祀られていた。また摂社では、奥社に大天狗、前社に小天狗が祀られていた。

大山阿夫利神社は、社伝によると崇神天皇の御代に創建されたとされる。

延長5年(927年)の『延喜式神名帳』では「阿夫利神社」と記載され、小社に列している。天平勝宝4年(西暦752年)、良弁により神宮寺として雨降山大山寺が建立され、本尊として不動明王が祀られた。

以後、神仏習合が続く。中世以降は大山寺を拠点とする修験道(大山修験)が盛んになり、源頼朝を始め、北条氏・徳川氏など、武家の崇敬を受けた。

江戸時代には当社に参詣する講(大山講)が関東各地に組織され、多くの庶民が参詣した。

大山詣は6月27日から7月17日まで期間に行われる女人禁制の参詣で、特に鳶や職人の間で人気があった。

大山に2つある瀧・良辧瀧と大瀧で水垢離し、頂上の石尊大権現に登り、持ってきた木太刀を神前に納め、改めて授けられた木太刀を護符として持ち帰った。

また、大山祇大神は、富士山に鎮まるとされる木花咲耶姫の父であるため、大山と富士山の「両詣り」も盛んとなり、「富士に登らば大山に登るべし、大山に登らば富士に登るべし」といわれた。

なお、一部の地域には、大山に登ると一人前として認められるという伝承があり、大山の神霊が立身出世の神とされていたことがうかがえる。

明治時代になると神仏分離令を機に「石尊大権現・大山寺」の名称は使われなくなり、旧来の「阿夫利神社」に再び改称された。

その後、大山寺はかつての女坂途中に場所を移して再建され、現在に至る。明治6年(1873年)には国学者の権田直助を祠官に迎え県社兼郷社に列格している。

戦後、神社本庁には属さず、昭和27年(1952年)8月より阿夫利神社本庁として単独で運営されてきたが、近年、神社本庁の傘下に入った(阿夫利神社本庁も存続)。

大山(関東総鎮護大山阿夫利神社公式HPより引用)

榛名山

延喜式延長5年(927年)記録『神名帳』があり、上野国十二社の群馬郡小社として位置づけられ、「式内社」と呼ばれ、格式の高い神社と位置付けられている。その他十世紀から十二世紀にかけて著された『三宝絵詞』『上野国交替実録帳』『僧妙達蘇生注記』などからも当時の榛名神社の様子がうかがえます。

近年、榛名神社境内で小金銅仏(地蔵菩薩立像)、寛平大宝(皇朝十二銭の一つ)、錫杖頭部、鉄釘、鉄鏃、甕、坏などの破片(土師器、須恵器など)等の遺物 が採集され、建物の礎石も確認されたことから、この遺跡は寺院跡であると考えられている。

榛名神社の起源(榛名山ホームページより引用)

中世の榛名神社

中世の榛名神社の動向は榛名山邨誌と頼印大僧正行状絵詞の両書によって知ることができます。 記録によれば、快良が承元四年(1210年)初代座主になり、関白道長の子孫が代々受け継いだと記されている。

座主が一山を支配し、南北朝の動乱に連動した榛名山座主職をめぐる抗争により頼印が応安四年(1371年)座主になっています。

戦国時代には座主職も置かれず、衰微の一途をたどっていたようです。

榛名神社の起源(榛名山ホームページより引用)

近世の榛名神社

近世に入り天海僧正の手により榛名山は復興され、慶長十九年(1614年)「上野国天台宗榛名山巌殿寺法度之事」が出され、以降、寛永寺の支配を受けるようになり、寛永寺末の中里見光明寺が学頭、榛名山満行院が別当に任命されました。

後には両職とも光明寺が兼務となり、榛名山光明寺などと書かれることもあった。学頭や別当が赴任する場所を「別当所」といい、榛名山の信仰と政治の中心であり、学頭や別当に は一山を支配する権限が与えられていたようです。

御師とは、御祈祷師の略称であり、崇敬者のために祈祷やお札を授与する人のことをい い、それぞれ宿坊を営んでいました。

史料では天正八年(1580年)の文書に榛名山御師光吉の名があり、すでに御師の立場が確立されていたことがうかがえ ます。

榛名神社の起源(榛名山ホームページより引用)

神仏分離と榛名神社(近代)

慶応四年(1868年)三月、神仏分離令が出され、榛名神社の神仏分離の動きがあわた だしくなり、榛名神社として復活することになりました。

明治三年(1870年)五月十日、榛名神社から仏教色は一掃され、神仏分離令に引き続き、明治五年(1872年)修験宗廃止令により、呪術、祈祷が禁止され、明治七年、配札勧財取締の通達により、檀那場に配札して生活の 糧を得ていた各御師は、収入源を大幅に閉ざされました。

また、別当所中心の支配構造がくずれ、求心力を失っていた榛名神社を立て直すために、「榛名神社教会」を開設、明治十四年一月十一日認可され、教会は設立されました。

昭和二十七年(1952年)に宗教法人「神道大教榛名大教会」と改称され、宿 坊も講社と称して祭儀行事を行うとともに、榛名講の村々との結びつきを維持し、配札や祈祷など崇敬者の教化育成に努めています。

榛名神社の起源(榛名山ホームページより引用)

榛名講

榛名神社の辻札や祈祷札、午王札、嵐除、虫除、筒粥の札などを受けに毎年榛名神社を訪れる村々の講中のことで、現在でも関東一円にその広がりを持っています。

村々からは、講中全員が毎年参詣しているわけではなく、二、三人の者が代表として選ばれ参詣するのです。このことを代参講と呼んでいます。

代参 講の村で全員の登拝が完了すると、それを記念して神楽を奏上するところもあり、特に太々講と呼んでいます。

講組織には雨乞講もあり、榛名神社の「御神水」の入った竹筒を神前に供えて請雨の御祈祷をし、その御神水を村に持ち帰り、雨乞の行事を行います。

榛名神社の雨乞は非常に効力があったといいます。

榛名神社の起源(榛名山ホームページより引用)

富士山と富士講

景行天皇40年(西暦110年)、日本武尊ご東征の折、足柄の坂本(相模国)より酒折宮(甲斐国)へ向かう途中で当地「大塚丘」にお立ち寄りになられ、そこから富士の神霊を親しく仰ぎ拝され「北方に美しく広がる裾野をもつ富士は、この地より拝すべし」と仰せになりました。よって大鳥居が建てられ、大塚丘に浅間大神と日本武尊をお祀りし、当社の創建となりました。

天応元年(781)、富士山の噴火があり、甲斐国主の紀豊庭朝臣が卜占し、延暦7年(788)、大塚丘の北方に社殿を建立しました。これが現在社殿のある地で、ここに浅間大神をおうつしし、大塚丘には日本武尊をお祀りしました。

古代、富士のような高い山、美しい山は神のおわす山として人が入ることは禁忌でした。よって当地は、ご神体の富士山を遥かに拝み祭祀を行う場でありました。

現在拝殿を囲んでいる巨木はその神域を物語っています。

中でも大きな団体であった村上講の村上光清師は、藤原角行師の6世の弟子にあたり、享保18年から元文3年までの6年間(1733~1738)で、境内社殿の大造営を行いました。

現存する社殿と境内構成のほとんどはこの時に定まり、廃仏毀釈により損失しつつも噴火の被害は受けずに、現在もなお当時のままの荘厳な趣を伝えています。 主な社殿は、仁和3年(887)より、藤原当興、北条(左京太夫)義時、武田信玄、浅野(左衛門佐)氏重、鳥居(土佐守)成次、秋元(越中守)富朝、秋元(摂津守・但馬守)喬朝、らによって造営が重ねられました。

貞応2年(1233)北条義時造営ののち、永禄4年(1561)に武田信玄が再建した社殿が現存する中では最も古く、「東宮本殿」として現本殿の東側に、また、文禄3年(1594)浅野氏重殿造営の社殿は「西宮本殿」として現本殿の西側におうつしされています。

現在の本殿は、元和元年(1615)鳥居土佐守成次殿の創建で、いずれも国指定重要文化財です。

浅間神社(北口浅間神社ホームページより引用)

浅間神社の御祭神

木花開耶姫命(このはなさくやひめ)

主な御神徳は安産・火防、富士山の女神。大変美しい女神であったため、天孫・瓊瓊杵尊の妻となり、猛火の中で3柱の皇子をご安産なされた故事があります。

芸能の神、酒造の神、養蚕の神としても信仰を集めてきました。

その全てにはムスビ(産霊)の御力が通じており、モノを生み出す神であるといえます。

主な御神徳は安産・火防、富士山の女神。大変美しい女神であったため、天孫・瓊瓊杵尊の妻となり、猛火の中で3柱の皇子をご安産なされた故事があります。

芸能の神、酒造の神、養蚕の神としても信仰を集めてきました。

また、水を司る神であり、転じて交通や流通の神でもあります。

浅間神社(北口浅間神社ホームページより引用)

彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)

天照皇大神の孫神様で、天孫降臨をなされ、木花開耶姫命を娶られました。

三種の神器を現世にもたらしました。

神武天皇の曾祖父神様で、昔話で名高い海幸彦・山幸彦の父神様です。

姫神様と強い絆で結ばれた夫婦神として、夫婦和合・夫婦円満の霊験あらたかです。

浅間神社(北口浅間神社ホームページより引用)

大山祇神(おおやまずみのかみ)

木花開耶姫命の父神様。

全ての山の神様。

姫神様のご夫婦と共にお祀りされ、家族の円満を守り導いて下さいます。

あらゆるものを生み出す神霊をいい、「産(むす)霊(ひ)、産(む)巣(す)日(ひ)、魂(むすひ)、産(むす)日(ひ)、産(むす)魂(ひ)」とも表記されます。

「ムス」は生成発展する意、「ヒ」は霊または神秘的なはたらきを意味し、「ムスヒ」とは「天地・万物を生成発展させる霊的なはたらき」を意味します。

「ムスヒ」の観念は幅広く、神道においては「神々の生成をはじめ万物の生成発展にかかわる重要な概念」とされています。

また、『古事記』の神話から「衰えようとする魂を奮い立たせるはたらきをもつ」信仰があったことがわかります。

(参考『神道事典』弘文堂、國學院大學日本文化研究所編)

ムスビの神としては、高御産巣日神や出雲の結神らが名高いですが、当社御祭神・コノハナサクヤヒメ様の様々に深き御神徳もまた、この一語によってほぼ表せるといえます。

 一、子の生み育て ―――― 子授け、安産、子育て…等

 一、関係を生み出す ――― 縁結び、夫婦円満、良縁…等

 一、産業を興し増やす ―― 起業、事業繁栄、養蚕…等

 一、モノを生み出す ――― 酒造(発酵)、芸術…等

現代日本の一般的日常生活においては忘れられかけている言葉で、ご参拝の方への説明に苦労することもありますが、日本人の心の中には変わらずあり続ける概念なのです。

例えば「結ばれる」という言葉をめでたく尊いことであると感ずる、ごはんを成形したものを「おむすび」という、などが挙げられます。

「おむすび」には命を授かるものとして、お米を尊び、食べることを神聖とする気持ちが込められているのですね。

浅間神社(北口浅間神社ホームページより引用)

富士山信仰

古代より崇高な山であった富士山は、神体山(即ち禁足地)であり、麓にて祭祀が行われ、遥かにその御姿の見える場所からも遙拝されてきました。

時代が下り、仏教の伝来を経て、また修験道などの影響を強く受け、修行を通して超自然的な験力を得ることを目的に、室町時代には庶民の間でも信仰登山が盛んになっていきました。

近世には江戸を中心に各地域で「富士山信仰のための講 ~富士講~」が成立しました。

江戸時代、富士講はこう言われるほど爆発的な興隆を見せ、関東・中部をはじめ、東北や近畿・中国地方など全国に広がり、各地に浅間神社が祀られ、また富士塚が築かれるようになりました。

こうして本来禁足地であった富士山は、修験者の修行の山となり、やがて身近な信仰として一般の人々も参詣するようになり、信仰の霊山・聖地を訪れるために人々ははるばると旅をしました。

御師は、宿舎の提供だけでなく、教義の指導や祈祷、各種取次業務を行うなど、富士信仰の全般に亘って世話をする存在でした。

御師町は、富士山の雪代や噴火の被害による移転もありましたが、現在の上吉田に整備され、入口・境界を示す「金(かな)鳥居(どりい)」が立てられました。(現、富士山駅東側)

富士講は、かつての栄華に比べてか細くなってしまったものの、今もなお古の教えを継承し、縁の祭典の折にはお焚上や塩加持等の神事、また夏期には登拝行事が行われています。

この数年富士登山者が増加していることや、国内はもとより外国からも富士に心を寄せる様を見ても、日本の象徴たる富士への信仰の念は現代においても少しも色褪せてはいないと言えます。

富士講の開祖とされる長谷川角行(藤原角行:1541.1.15~1646.6.3)は戦国時代に現れて、富士の人穴(富士宮市)や北口本宮参道の立行石等で荒行を重ねて法力を得、祈祷の力により諸病平癒などで庶民を救済しました。

「富士は世界の鎮守」、「天地の始、国土の柱、天下参国治、大行之本也」!! として、富士信仰の心を士農工商の隔てなくあらゆる人に広めることとなりました。

若き長谷川角行は、父の遺志を継いで救世済民の志を立て、覚行と名乗って修験の道に入り、岩窟で修行中、霊夢に現れた役行者の教示により富士山麓で苦行を重ね、大行を成就しました。

名を角行と改め、藤仏と名乗り、元亀3年(1572)に初めての富士登山を北口(吉田口)から行いました。元和6年(1620)江戸に「ツキタオシ」という奇病が流行し、3日で1千人の死者を出す中で、角行師はフセギという御符を授け祈祷の力によって多くの患者の命を救いました。このことから江戸の多くの人々に富士信仰の心が広まったといわれています。

生涯に成就した苦行は、不眠の大行18800日、断食300日、富士登山128回、御中道33回である。他に約14cm角の柱や岩の上に爪立ちする難行や、諸国遍歴修行の旅、二荒山の湖水や内八海・外八海、人穴での修行を行っています。

他に、「風先侎(ふせぎ)」という護符を配布し、「御身抜 (おみぬき)」という軸装巻物を信徒に与え、神示によって360の文字を造り、護符や書物を著しました。「近の藤の御文」「御腺の御文」「躰堅めの御文」等は富士講の根本教義をなす聖典として、現在もなお重んじられています。

法脈は渓旺(日旺)に伝えられ、日旺の弟子となる旺心は三世、四世月旺と続き、月旺には月心と月行の弟子があり、月心は形を伝える正統派、月行は心を伝える別流(別立)と呼ばれ、二派に分かれました。

正統の五世月心の子の光清が六世を継ぎ、村上講(藤の丸講)として最盛期を迎えます。この村上光清氏が当社の大修復工事を行いました。

仁王門や鐘楼堂は明治に撤去されましたが、幣拝殿、神楽殿、随神門、手水舎、摂末社など現存の社殿および配置はこの時のものです。

江戸の技光る荘厳優美な建築からも、元文4年に大岡越前守に御褒賞を賜るほどの大事業であったことが推察できます。(元文5年(1740)に完工)  正統派・村上講はこの後、十七代善道と続きましたが枝講を許さなかったため漸次衰え、昭和に至って講伝来の御身抜や宝物を上吉田の和光氏に譲り、東京の講は消滅しました。

月行は、正統の法派を継いだ。伊勢国出身で、日本橋白銀町で煙草屋を営みながら修業に励む途次、若く実直な伊藤身禄に出会い、熱心に富士信仰の道を説きました。

深く感銘を受けた身禄は、月行の弟子となり行商で身をたてつつ信仰を深めていきました。

やがて身禄は元来の勤勉実直さにより莫大な資産を築きましたが、60才の時、全財産を残らず使用人に分かち与え、自身は行商人に戻り、妻子とともに質素な暮らしを始めました。

当時華やかな正統派の「大名光清」に対して「乞食身禄」とまで言われながらも三著といわれる「一字不説の巻」・「御添書の巻」・「お決定の巻」を著し、四民平等・男女平等・勤勉力行・諸事倹約等、道徳規範を中心に富士信仰を説きました。

しかし、人の心を掴むには、飛ぶ鳥を落とす勢いの正統派には及ばず、体力の衰えを感じた身禄は、ついに富士山中への入定を果たします。

吉田口七合五勺の烏帽子岩の岩窟で、富士の雪水を飲むだけの断食瞑想、入定するまでの31日間に身禄が口述した仙元の神示教訓が「三十一日の巻」として記録されました。

これがのちに富士講最高の経典となるもので、身を捨て命を捧げて示した不滅の教訓として大反響を呼び、元祖食行身禄と称えられ、「講」の形態をとる富士講の興りとなって「身禄講に非ざれば富士講に非ず」とさえ言われるまでになりました。

食行身禄の娘の流れから丸嘉講、丸参講が起こり、その後に丸鳩講、不二道孝心講、その一派に実行教、更に一山講、永田講、丸藤講、山吉講、山真講など、身禄の縁者、直弟子孫弟子により続々と富士講が組織されていきました。

浅間神社(北口浅間神社ホームページより引用)






気候変動や、地球温暖化などに夜季節感の変化が分かりにくくなった今、改めて、日本人として、四季を大切にし、季節を味わいながら生活することが大切だと気付かされる今日この頃です。歳時記の一覧表の中にそれぞれに記載させていただきます。


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