歳時記(12月の行事・農作業)

目次

羽子板・破魔弓の飾り

12月写真

12月(師走しわす)

このページは、歳時記(12月の行事・農作業)をテーマに記載しています。

行事一覧

御幣(ごへい・おんべい・おんべ)とは、神道の祭祀で、捧げられ、用いられる、幣帛(へいはく)の一種で、2本の紙垂(しで)を竹または木の幣串に挟んだものである。幣束(へいそく)、幣(ぬさ)ともいう。 通常、紙垂は白い紙で作るが、御幣にとりつける紙垂は白だけでなく五色の紙や、金箔・銀箔が用いられることもある。 「幣」は麻(麻布)、「帛」は絹(白絹、絹布)を意味する。両者は捧げ物の代表的な事物であることから、本来、「幣帛」で神々への捧げ物の「総称」を意味する。

師(僧侶)も仏事に忙しく走り回る月。正月の準備を始める月

二十四 節気 小雪

雪国からは、「初雪」の便りが届く、雪が降らない地方でも、「初霜」「初氷」が見られるようになる季節。

2~6日 小雪 末候 橘始黄 (たちばなはじめてきばむ)

橘が初めて黄ばみだす季節。一度色づき始めても、取らずにおくと又青くなり、秋に色づく。

二四節気 大雪 空が閉ざされ、本格的な冬になる季節

「冬日」一日の最低気温が0℃ 未満、「真冬日」最高気温が0℃ 未満の日

7~11日 初候 閉塞成冬 (そらさむくふゆになる。)

12~16日 次候 熊蟄穴 (くまあなにこもる)

熊が穴に入り冬ごもりをする季節。冬ごもりの間は何も食べずに過ごす。雌はこの間に、出産をし、子育てを行う。

17~21日 末候 劂(魚変に劂)魚群 (さけうおむらがる)

鮭が群がってさかのぼって行く季節。劂魚(魚変に劂)は川魚の「追河(やまべ・はえ)だという説もある。川で生まれた酒は、海を回遊して、秋から冬にかけて、生まれた川に戻ってくる。産卵、受精を終わると力尽きて死ぬ。

8日 事納め

成道会

釈迦の成道「悟りを開いた日」を記念する法要

13日 正月事始め

「正月事始め」とは、正月を迎える準備を始める日とされていた。古くから、煤払いが行われ、現在でも、大きな寺や神社などで煤払いが行われ、歳神様を祀る準備のために行う。

煤払い(すすはらい)

煤払いは、歳神様を祀る準備のための行事で、禊(みそぎ)や穢れをはらう意味を含み、1年の汚れを払い清めるために竹竿の先に竹の枝やササを付け、「煤梵天」を作り煤払いをう。

15日 世田谷 ぼろ市

古着の売買が盛んに行われたことから、明治時代に「ボロ市」の名が付いた。現代では古着のほかに、骨董品、古本、植木、食料品、神棚、玩具、寝具、新品の衣類、生活雑貨などが売られている。毎年1月15・16日と12月15・16日の世田谷代官屋敷付近にある通称ボロ市通りとその周辺で開催される。明治の新暦採用後は1月にも開かれることとなり、1994年9月には世田谷区から、2007年2月には東京都から、それぞれ無形民俗文化財として指定されている。

二十四節気 冬至

「冬至」は、24節気の一つであり、新暦では12月22日、旧暦では11月の中頃にあたる。1年中で最も昼間が短く夜が長い日となる。日本では、改歴以前の時代には、暦計算の起点として冬至を重視していましたが、太陽暦が採用されてからは、春分が重視されるようになった。

冬至の日には、今でも小豆粥やカボチャなどを食べる風習が残っている。また、名前の最後に「ん」がつく食物を食べれば風邪をひかないと言われる。

22~26日 初候 乃東生 (なつかれくさしょうず)

「夏枯れ草」と言われる「靭草」が芽を出す季節。

27~31日 次候 鹿(鹿冠に米)角解 (さわしかのつのおつる)

「さわしか(鹿冠に米)」は、大鹿のこと、角が落ちる季節。

1月1日~4日 末候 雪下出麦 (ゆきわたりてむぎのびる)

畑は雪で覆われていても、その下で、麦が芽を伸ばしている季節。

20日 冬至

日本では、改歴以前の時代には、暦計算の起点として冬至を重視していましたが、太陽暦が採用されてからは、春分が重視されるようになった。

冬至の日には、今でも小豆粥やカボチャなどを食べる風習が残っている。また、名前の最後に「ん」がつく食物を食べれば風邪をひかないと言われる。

12月21日 冬至料理 荒神様へのお供え

冬至の料理は、小豆を利用したお汁粉に、小麦粉のダンゴ、カボチャを加えたものを食べることとしている。

食事前に荒神様にお供えし、灯明を燈し、家族が安心して過ごせた感謝し、これからの健康、ご加護を祈る。

23日 天皇誕生日

内閣府によると、令和天皇が即位され、平成天皇が退位されたことに伴い、国民の祝日に関する法律が一部改正され、令和では天皇誕生日が2月23日になった。 11月23日の勤労感謝の日を最後に、元日まで祝日はない。

25日 調布 布田天神市

布多天神社は、少彦名命(スクナヒコナノミコト)と菅原道真を祭神としており、神社の本殿や太閤秀吉の制札、狛犬は市の指定文化財になっています。

また、毎月25日にある例祭では神楽の奉納が行われ、参道には市が立ち並び、天神の市は、生活用品の市としても親しまれて来た。

クリスマス

キリスト教大学の協会のクリスマスは飾り付けが大変きれいである、パイプオルガンが響き、まさに絵になり、子供たちは楽しく過ごしていた。それを遠くから眺めていたが、我が家のクリスマスを楽しんだ。

26~28日 「中連縄」作り

正月飾りは、注連縄、鏡モチ、生け花、神酒徳利、神酒徳利飾りなどがある。注連縄飾りは各戸で作り、生け花は庭に日頃より準備をし、松、竹,梅、南天の赤い実、蝋梅、千両、萬両、神聖な領域を囲うための「注連縄」は、たぶん26,27,28日に準備を行った。

27日 餅つき準備

もちつきは煤払いが終わった後の28日に行われた。前日に3俵のもち米研ぎ。臼や杵を蒸籠、伸し板を洗い、小豆を湯で餡子を煮る、大根、ホウレン草、黄粉などを準備した。

28日 餅つき

餅つき当日は朝早くから、父の弟が来て手伝い、朝早くから、夕方遅くにまで、伸し餅、お供え餅をついた。

31日 大晦日

早朝より神社境内の掃き掃除、社務所、薬師殿等の掃除、清めを行う。
また、清められたのちに、大鳥居をはじめそれぞれにしめ縄を張る。
終了するといったん帰宅し、午後10時より参集し、2年参りの方の接待、古いお札などのお焚き上げの火を焚く。
午前0時より身年参りの皆様に、野崎八幡社総代より、新年のあいさつ、野崎、市民の安寧を祈願初参りを行い、一般参賀をお迎えする。

薬師殿・お焚き上げ・かがり火
煙にかすむ神輿舎
正月をお迎えする準備を終えた本殿・薬師殿

12月21日 冬至料理 荒神様へのお供え

早朝より神社境内の掃き掃除、社務所、薬師殿等の掃除、清めを行う。
また、清められたのちに、大鳥居をはじめそれぞれにしめ縄を張る。
終了するといったん帰宅し、午後10時より参集し、2年参りの方の接待、古いお札などのお焚き上げの火を焚く。
午前0時より身年参りの皆様に、野崎八幡社総代より、新年のあいさつ、野崎、市民の安寧を祈願初参りを行い、一般参賀をお迎えする。大晦日の日に、歳神様をお迎えし、白飯とお神酒をお供えし、灯明を上げ、御来光に感謝し、くる年のご加護を祈願する。
接待とし、家族とともに食事をすること、白いご飯にごった煮(大根、里芋、ニンジン、ホウレンソウ)、刺身、香の物を食べることとしている。
(かつては白いご飯だけでも御馳走であったが、最近ではぶつ切り刺身から刺身へと変わった。)

正月の準備

暮れの大みそかの日には、正月3元日の雑煮に使用する、大根、サトイモを一口大に切り下煮(仮茹で)を行った。ほうれん草は水洗いを行い保存した。

歳神様とおお祓い

日が暮れると、年男が屏息を持ち一年の罪や穢れを払い清める「大お祓い」を行い、新しい歳神様を始めとする神棚、仏壇に、白飯、お神酒、をお供えし、燈明を燈し、一年間の感謝とともに新しい歳の五穀豊穣、無病息災を祈った。

神棚と仏壇の正月の準備

野崎八幡社正月準備・参拝者御接待

神社総代をはじめ、氏子の皆さんが集まり、境内の掃除、神殿の掃除、しめ縄の張り替え等、新年を迎える準備が行われている。その後、神社の境内で火を焚き厄払いがおこなわれ、甘さけが振る舞われ、年越しを待ち、12時になると新年の初参りが行われ、参拝者には、縁寿箸が配られている。

暮らしの記憶

正月事始め

12月13日は「正月事始め」と言われ、正月を迎える準備を始める日とされていた。古くから、煤払いが行われ、現在でも、大きな寺や神社などで煤払いが行われ、新聞やテレビのニュースとして報道されている。

本来の煤払いは、歳神様を祀る準備のための行事で、禊(みそぎ)や穢れをはらう意味を含み、1年の汚れを払い清めるために竹竿の先に竹の枝やササを付け、「煤梵天」を作り煤払いを行った。

我が家の煤払い

12月13日に限らずその近い日を煤払いとし、煤払いは、お正月に都市が見様をお迎えするための払い清めるための行事であり、その後行われる餅つきの時に、杵の打ちおろす振動から、埃が落ちないように、のし餅を家の中に広げるために、みそ造りの麹を広げるときに、上から誇りが落ちないようにするための準備であった。

毎年行ったが、餅つきを行う事をやめた年から行われなくなった。

分家の我が家

我が家は分家分であったので、奥の間が8畳、次の間が6畳、板の間4畳、土間8畳、各部屋には押し入れや収納が月、土間には台所の流しが置かれており、汲み置きの水を入れるかめが置かれていた。

奥の間の南側には縁側があり、6畳の間には濡れ縁があった。板の間には、陸稲や小麦の俵が積まれていた。土間には、1尺5寸幅の小縁側が作り付けられた小さな茅葺屋根の家であった。土間、縁側は夜なべや雨の日の作業場でもあった。土間には七輪竈竃竃がおかれ薪、木の枝やおちば、藁などが燃料として使われていた。土間で火を焚くために、屋根の内側、天井裏、梁や木はヤニや煙にいぶされ黒光りがしていた。1年間のすすや、灰、埃は大量に積もっていた。始まる前に障子をすべて外し、家具や家財道具などはみな外に持ち出した。煤梵天で家の中や天井裏、梁の上を払うともうもうの誇りが立ち込め、下に落ちるのを待ち、はき掃除を行い、雑巾がけを行った。そののちに神棚、年神様を祀る棚、仏壇を掃除、払い清めた。

煤払いの中で子供が遊ぶ

子供たちは立ち込める誇りの中で、面白がって遊んでいた。子供たちは、頭の先から靴の中まですすだらけとなり、親は追いかけて箒やはたきでバタバタとほこりを落とされた。それでも子供は大はしゃぎで、首の周りから服の中まで埃だらけとなり、ふろに入れられるが、ふろの湯は泥水となった。

障子紙売りと障子はり

煤払いが終わると、障子貼りである。いつまで来ていたのか定かでないが、暮れ近く、煤払い前になると、障子紙を背負って各戸を回る、障子紙売りのおばさんが回ってきた。一年分の障子紙を求めた。

障子貼りの日は、晴れた日に、朝早く起き、すべての障子を外し、庭に並べ水を打ち、葉がしやすくなるまで置いておき、その間に、子供たちは、普段ではしてはいけない障子に穴をあけることが許され、はしゃぎながら剥がしていた。はがし終わると、たわしを持って障子を洗い、水気を払い干しておいた。午前中に終わらせ午後は乾いた障子に紙を張った。障子は下から張ることが求められ、引き手を加工し、時にはモミジなどを切り抜き模様を付けた。

世田谷 ぼろ市

古着の売買が盛んに行われたことから、明治時代に「ボロ市」の名が付いた。現代では古着のほかに、骨董品、古本、植木、食料品、神棚、玩具、寝具、新品の衣類、生活雑貨などが売られている。

毎年1月15・16日と12月15・16日の世田谷代官屋敷付近にある通称ボロ市通りとその周辺で開催される。明治の新暦採用後は1月にも開かれることとなり、1994年9月には世田谷区から、2007年2月には東京都から、それぞれ無形民俗文化財として指定されている。

正月飾りの準備

正月飾り

正月飾りは、注連縄鏡モチ、生け花、神酒徳利、神酒徳利飾りなどがある。注連縄飾りは各戸で作り、生け花は庭に日頃より準備をし、松竹梅南天の赤い実、染料、満了、神聖な領域を囲うための「注連縄」は、たぶん26,27,28日に準備を行った。我が家には田圃がなかったために、陸稲(おかぼ)のわらを使用した。陸稲のわらは、短く、質は悪く、おれやすく加工がしにくいものであった。その後わらがなくなると、米屋から、丈が長い、加工しやすいわら俵を求め、ほぐして使用した。

注連縄は家の入口や神棚は長尺に造り、それぞれの出入り口に飾るものは環飾りとした。注連縄は、15~20センチメートル置きに下がりを付け、4か所に屛息を付け、環飾りは2本の下がりを付け、占めを1つ付けた。子供のころは、よく父親の隣りに腰かけて、注連縄ずくりを見ていた。またいつしか親のするしぐさをまねて環飾りなどに取り組んでいると、わらを加工するときには必ず、藁に霧状に水をかけ湿り気を付けること(父は鵜呑みから水を口に含みわらに向かって、ぶーっと霧をかけて見せた)や、木槌で、よくたたき、特に節の部分から折れるのを防ぐために、丁寧に、最初は力を入れずに、徐々に全体をたたくことが骨であった。縄の綯い方や注連縄の作り方を教えてくれた。

がさや

現在ではの三鷹、特に野崎界隈では田んぼがなかったために、良い藁が手に入らず、米屋に行き、空き俵を求め、米俵をほぐして使った。最近では、米俵も手に入らず、材料がなくなり、自宅で作ることができなくなり、町のとび職が開く「ガサや」で買い求め使用している。

餅つき

餅つき

もちつきは煤払いが終わった後の28日に行われた。前日に3俵のもち米を研ぐのがお仕事であって、子供は井戸汲み(水道がなかった為に水くみの手伝い)の手伝いをした。臼や杵を蒸籠、伸し板を洗い、割れや隙間を埋めるために水を張った樽に浸けた。太めの薪を準備、また、小豆を湯で餡子を煮る、大根、ホウレン草、黄粉などを準備した。

当日には、朝が早く、父の弟、妹も手伝いに来てにぎやかに行われた。

土間で臼の下に蓆を引き、大きな釜に湯を漲らせ、その中に大きな大根が入れられ(水がなくなって釜に穴が開くのを予防するため)、前日米とぎをしたもち米を蒸かした。蒸籠は3段重ねで、吹きあがりは一番上の蒸籠から湯気が出始めると蒸しあがりであった。4人で行う餅つきは忙しく、母は、かまどの火加減、釜の湯量の管理を行い、父と叔父はつき手と手が返しを行っていた。妹は伸し板で伸し餅作りと分担していた。伸し餅は家の中に、新聞紙を敷き、打粉をした上に並べられ、歩くところもなかった。

餅が搗き上がると、決められた大きさに、伸す為の枠に乗せられると、打ち粉を打ち、伸し終ると部屋の奥から新聞紙に打ち粉を打ち、上に並べられた。

十時のおやつ

10時になると、お茶が出され、つきたての餅を湯でとかれた餡子がふるまわれ、浅漬けの白菜のつけものが付け合わせで出された。

子供たちは、忙しい餅つきの日は、外で遊び、伯父の口癖は、炊きあがったばかりに臼に移されたもち米を手でとり、時には、希醤油をさっと掛け口に法張り「やっぱりこれが一番うめー」と言うのが口癖であった。そばで見ている子供たちにもそのお裾分けに声がかかり、駆け寄ると、手のひらの上に一摘みづつのコメが「あちいぞ」と言われながら載せられ、口に頬ばった。確かにおいしく、「うめーナ」などと言い、はしゃぎながら、後の催促を何度となくしたものです。その思い出とともに、味は忘れることはなく今でも機会があれば味わいたいものだ。

昼食

昼には、搗き上がったばかりの餅を大根おろしに七味をきかした辛み餅、鰹節と湯通ししたホウレン草の餅に、浅漬けの大根、白菜の漬物やネギやホウレンソウの具が入ったみそ汁が出された。子供たちも一緒の食事であったが、のどに詰まることの無いように、餅は小さくちぎられていた。

鏡餅

最後に、鏡餅を創るための餅を搗き、蒸かし過ぎることの無いよう、水分を少なめに、搗き過ぎないようと気を使い(すぎると腰の立たない餅となり、お供え餅の高さが低くなってしまう)つきあげた餅を、伸し板の上で、お供え餅(鏡餅)を大小必要な数を創った。

23日 天皇誕生日

内閣府によると、令和天皇が即位され、平成天皇が退位されたことに伴い、国民の祝日に関する法律が一部改正され、令和では天皇誕生日が2月23日になった。 11月23日の勤労感謝の日を最後に、元日まで祝日はない。

天神様・年の市

調布の布田天神は、毎月二五日が縁日で市が立った。囃子の演奏、能の舞が奉納され、お参りが済むと、牛が置かれており、お参りの人が皆、その角や鼻面をなでるのが作法であった。があり、農機具屋や、かご屋、下駄屋、古着屋、古道具屋,日常雑貨屋、駄菓子屋、だんごや、乾物屋など何でも売る店が所狭しと並んでいた。とくに興味深いものは、このようなものまで売ることができるのかというようなものまで並んでいた。壊れた古時計、割れた瓶、茶碗、花瓶、首の取れた人形、鉄の塊のような機械、箪笥の取手、油漬けの万年筆、塗装のしていない鉛筆など不可思議なものも並んでいた。

特に一二月の暮れの市は普段の市の出店に加えて、臼や杵を売る店、正月飾りを売るがさ屋、羽子板・弓破魔飾(子供が生まれると、暮れに羽子板、破魔弓を持って、成長を祝い、願うしきたりがあった。現在でも同様に行われている。)を売る店があった。父は毎月一に行くのを楽しみにしていたようで、そこで会う人との情報交換や珍しいものへの出会いを楽しみにしたと話していたことがあった。

必要な熊手、竹細工のかごなどの農作業道具、正月を迎えるための、神酒徳利、神酒徳利の口飾り、神棚で白飯、雑煮を盛り付けお供えに使用する木製の雑器、七味トウガラシ、青のりなどを購入し、また、必ず醤油味の焼き団子を土産に持ち帰った。七味トウガラシの販売店は人気のある店で、辛味の調整をする時の口上が独特で面白く、購入する人が立って人垣ができていた。

羽子板・破魔弓の飾り

羽子板

羽子板

羽子板・破魔弓の飾りは、医療がまだしっかりと完備されておらず、子供は育ちにくいところがあり、特に男の子は育てにくく、子供の成長を喜ぶ機会や習慣があった。子供の成長を喜び祝う祝いの品で、女の子の「邪気を羽ね返す」男の子の「魔から救う」と言う意味で、その年に生まれた子供の成長を喜び、暮れのうちに届どけ、村や家族で祝った。

藤原時平の陰謀によって大臣の地位を追われ、大宰府へ左遷された道真は失意のうちに没した。

彼の死後、すぐに、臣下の味酒安行が道真を天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)という神格で祀った。

その後、疫病がはやり、日照りが続き、また醍醐天皇の皇子が相次いで病死した。さらには清涼殿が落雷を受け多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)。これらが道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。

平安時代末期から鎌倉時代にかけて、怨霊として恐れられることは少くなった。この頃に描かれた『天神縁起』によれば、この時代では慈悲の神、正直の神、冤罪を晴らす神、和歌・連歌など芸能の神、現世の長寿と来世の極楽往生に導く神[4]として信仰されるようになっていた。また、貿易商から海難除けの神、皇族ほか歴代幕府・戦国大名などの武将達には、怨敵調伏・戦勝祈願・王城鎮護の神として信仰された。江戸時代以降は、道真が生前優れた学者・歌人であったことから、学問の神として寺子屋などで盛んに信仰されるようになった。近代に入ると、天皇への忠誠心を説く為に、忠臣として教科書などでとりあげられた。

火雷神

元々の火雷神は天から降りてきた雷の神とされており、雷は雨とともに起こり、雨は農作物の成育に欠かせないものであることから農耕の神でもある。各地に火雷神と同様の伝承で天神が祀られていたが、道真が天神さま、天神さんなどとよばれるようになり、各地で祀られていた天神もまた道真であるとされるようになった。また、北野天満宮や太宰府天満宮からの勧請も盛んに行われた。天神(道真)を祀る神社は天満宮、天満神社、天神社、菅原神社、北野天神社、北野神社などという名称で、九州や西日本を中心に約一万社(岡田荘司らによれば3953社)あって分社の数は第3位である。

菅原道真と牛

菅原道真と牛との関係は深く「道真の出生年は丑年である」「大宰府への左遷時、牛が道真を泣いて見送った」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「道真には牛がよくなつき、道真もまた牛を愛育した」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など牛にまつわる伝承や縁起が数多く存在する。これにより牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされ臥牛の像が決まって置かれている。

御祭神

御祭神は神産巣日神(カミムスビノカミ)の御子神である。大国主神(オオクニヌシノカミ)と兄弟神となり相

協力してこの国を作り堅められました。諸国を巡り、人々に多くの知恵や技術を授け、助け導かれた。経営の神、酒造の神、温泉の神、医薬の神として広く崇め祀られている。

古くより虫封じ、病気平癒、健康祈願、商売繁盛の神事が行われ、大国主神(大黒さま)と手を携える、恵比寿さまとして知られている。

承和十二年(845年)6月25日、京都菅原院にてご生誕。幼き頃より秀で、33歳で文章博士になるほどの学者であられました。宇多天皇のご信任を受け右大臣にまで出世されましたが、藤原氏に怨まれ、太宰権師へ左遷となりました。大宰府では天を怨まず人を憤らず、誠の心をもって罪の晴れる日を待っておられましたが、延喜三年(903年)2月25日、配所で59歳の生涯を閉じられました。

学問、特性ともに高かった菅公は、死後も人々に尊敬され、今もなお学問の神、書道の神、天神さまとして親しまれ、広く仰ぎ祀られています。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

クリスマス

クリスマス

キリスト教大学の協会のクリスマスは飾り付けが大変きれいである、パイプオルガンが響き、まさに絵になり、子供たちは楽しく過ごしていた。それを遠くから眺めていたが、我が家のクリスマスを楽しんだ。

冬至

「冬至」は、24節気の一つであり、新暦では12月22日、旧暦では11月の中頃にあたる。太陽の黄径が270度の時、南回帰線の真上にあり、北半球では正午の太陽の高さが最も低くなるため、1年中で最も昼間が短く夜が長い日となる。中国ではこの日を境に太陽の力が復活する、陰が極まり再び陽にかえる日としたことから、「易経」には「一陽来復」ということばが記されている。この日を「冬至節」として天を祀る儀式が行われ、この日に小豆粥を食べ、疫病を祓い、無病息災を祈る行事が行われたと言われる。

日本では、改歴以前の時代には、暦計算の起点として冬至を重視していましたが、太陽暦が採用されてからは、春分が重視されるようになった。

小豆とカボチャ

かぼちゃと小豆

冬至の日には、今でも小豆粥やカボチャなどを食べる風習が残っている。小豆粥は、小豆が邪気を払うとされる赤色であることから、カボチャを食べると、中風にならず、風邪をひかないと言われることから風習となったものと考えられる。また、名前の最後に「ん」がつく食物を食べれば風邪をひかないと言われる。かぼちゃは古くに、「南京」ともいわれ、旬は夏であるが、保存がきく野菜であり、冬の栄養素として、β―カロテンやビタミンCが豊富であることから風邪をひかないということを裏付けている。

うどん粉団子の汁粉

我が家では、小豆を箕に取り、良い実と悪い実と選りわけた後、小豆を前の日から水につけ、しっかりと水を吸わせて、水を吸わないものをはじきだし、準備をし、小豆の汁粉を創り、カボチャと、うどん粉の団子を煮込み、一食とし昼間は仕事で準備ができなかったことから、夜に食べた。毎年、年中行事としている。

ゆず湯

ゆず湯

冬至の日に柚子湯に入る習わしは今日まで続いている。これは5月の節句の菖蒲湯と同じように、体調を壊しやすい季節の節目に身を清め、体の健康を図るというものです。また、かつては一年の始まりであった当時に、柚子の香りや薬効で体を清める禊の意味があったという。無病息災を願って、柚子を浮かべたふろに入れば風邪をひかないという言い伝えは、冬至を境に寒さが厳しくなるため、冬を無事に乗り越え、温かい春が迎えられるようにとの願いから生まれたものである。ゆずには血行促進効果があり、罅や皸を治し、冷え症や神経痛、腰痛などを和らげる効果があるとされている。

柚子

柚子は、初夏に白い花を咲かせ、秋に黄色い実がなる。当時は気温が今より低く、かんきつ類の栽培は大変難しく、冬を越すことができなかったと記憶をしている。しかし、どこの家にも植えられていたものでもなく、柚子の気がある家は限られていた。また大実のゆず(本柚子)は、植えてから何年もたたないと実がならず、近所に家にお願いをして頂きに行ったものだ。収穫するのに、大きなとげが体に刺さり、痛くて痛くて難儀をしたものである。そこで、竹の棒などで落とすと蔕が取れてしまい、見た目が悪くなることがあった。最近では、気温が高くなったためか、アブラムシの発生が多く、速見が黒くすすが付いたようになることがあり、使い勝手が悪くなる。

正月の準備

暮れの大みそかの日には、正月三元日の雑煮に使用する、大根、サトイモを一口大に切り下煮(仮茹で)を行った。ほうれん草は水洗いを行い保存した。

子供のころは家族も多く、正月に使用するサトイモも沢山用意した。サトイモを洗うには、泥を落とし、樽に入れ、水を入れて、イモ洗い用の道具を使い、子供は樽の上に立ち、樽のイモを掻きまわした。イモ同士がこすれあうことにより表面のつちや毛状の皮を削り取る、白くなるまで繰り返した。その後蓆の上に広げて乾かした後に凍ることの無いように保存した。このことにより皮むきの手間を少なくすることになる。

歳神様

歳神とは、新しい歳の穀物の実りをもたらし、人々に命を与える神様であり、普段に私たちを見守っている先祖の霊であると言われている。先祖の霊が春に降りて来て田の神となり、秋の収穫が終わると山にかえり山の神となる。正月には歳神となり家にお迎えする。半年ごとに先祖の霊を迎え、家族や親族一同が集う行事である、盆は先祖の霊を供養する仏事であり、正月は先祖の霊である歳神を迎え、家族や親族が集い、新年を共に祝い、五穀豊穣、家内安寧を祈る行事である。

暮・大晦日・除夜・野崎八幡社参拝者接待

毎月の最後の日を晦日(三十日)と言い、一年の最後の晦日を大晦日と言い、大晦(おおつもごり)ともいったが、現在ではあまり言われない。新しい歳神様を迎えるために寝ないで待つ日とされていた。また野崎八幡神社では、大晦日の夜のことを除夜(所や)と言い、子供のころには何も行われていなっかったが、現在は、早朝に神社総代をはじめ、氏子の皆さんが集まり、境内の掃除、神殿の掃除、しめ縄の張り替え等、新年を迎える準備が行われている。その後、神社の境内で火を焚き厄払いがおこなわれ、甘酒が振る舞われ、年越しを待ち、十二時になると新年の初参りが行われ、参拝者には、縁寿箸が配られている。参拝者は、野崎八幡神社に参拝し、深大寺へ初参り、その逆の人々の流れが少なくなるのが午前2時ごろで、その行事は終了する。

大みそかの日没(暮れると)で新年

太陽暦が用いられる前は、月の満ち欠けに基づいた太陰太陽暦(旧暦)で一月を30日とし、日没を一日の区切りとしていたため、大みそかの日没(暮れると)で新年となる。新年行事は大晦日の日没から始まることとなる。一年間の感謝とともに新しい歳の五穀豊穣、無病息災を祈るときとされていた。

我が家では日が暮れると、年男が屏息を持ち一年の罪や穢れを払い清める「大お祓い」を行い、新しい歳神様を始めとする神棚、仏壇に、白飯、お神酒、をお供えし、燈明を燈し、一年間の感謝とともに新しい歳の五穀豊穣、無病息災を祈った。

家族と新しい歳神様と共に新年の最初の食事

歳神様をお迎えする神棚は、普段の神棚と違って、注連縄や環飾りが張られ、神酒徳利が供えられ、徳利には金色と赤色の紙で作られた口飾りが付けられ、燈明がつけられるといかにも神々しく見えた。歳神様、神殿、仏壇、霊人様(天学教)、荒神様(竈の神様、防火の神様)、井戸神様、夷・大黒天、の順に進める父の後をついて歩き、一緒に手をたたき、拝礼をして回った。参拝が済むと家族が集まり新しい歳神様と共に新年の最初の食事を行った。

新しい歳神様を迎えての食事は精進料理

新しい歳神様を迎えての食事は精進料理と決められており、白飯、醤油味に鰹節で出汁をとり、サトイモ、大根、牛蒡、人参、豆腐、油揚げ、ほうれん草を煮込んだ、ごった汁とサバなどの煮浸け、沢庵漬けであった。子供のころは毎日が麦飯であったこともあり、白飯が大変おいしく、それだけでもごちそうと思えた。その後は女性陣が多忙であることから、また、家族が多かったこともあり、マグロのぶつ切りを食べた。現在では刺身を食べている。

除夜の鐘

除夜の鐘

煩悩は一人の人間につき108個あると言われています。108個ある煩悩を鐘が一つ鳴るごとに一つ消して、来年は幸せな一年を過ごしたいという願いが込められているというわけです。

四苦八苦という言葉に由来する考え方

六根(6)×好・悪・平(3)×浄・染(2)×過去・現在・未来(3)をすべて掛け合わせると108になるという説。

六根とは人に感覚を生じさせ、迷いを与えるもののことで、眼、耳、鼻、舌、身、意の6つを指す。好・悪・平は人間の感情のあり方を表す。好=快感、悪=不快、平=どちらでもないというあり方。浄・染は浄=きれい、染=きたないという意味。そして三世は、過去・現在・未来や前世・今世・来世を表す。

これらすべての組み合わせが、六根(6)×好・悪・平(3)×浄・染(2)×過去・現在・未来(3)=108となり、よって煩悩は108個あるとされている。

荒神様・火の神様とかまどの神様信仰

荒神様は台所を守護する神様として、専用の神棚にお祀りされ、現代でも台所の役割は変わらず、火を使用して食事をつくり、日に対する用心を必要とします。三方荒神とも呼ばれ、神仏習合において、火の神様とかまどの神様信仰に、仏教に修験道の信仰が混ざったもの物となった。

仏教においては、「仏・法・僧」の三宝を守護し、神道に於いては、竈三柱大神(かまどみはしらおおかみ)として祀られ、三柱は竈の神様である奥津比古命(おきつひこのみこと)と奥津比売命(おくつひめのみこと)、火の神様である火産霊命(ほむすびのみこと)を指します。

荒神様の御利益

人が煮炊きを通して食事をすることから、かまど神様は生命力と縁が深い神様であり、竈の火に宿るため、火伏せの力もあり、穢れや災いを浄化する力を持つと言われている。

お祭りの方法

お祭りの方法は、御尊影(お札)を収める荒神神宮、鏡、三宝に水、塩、飯、お神酒一対を捧げ、榊に松を3本挿した「荒神松」を飾り、灯明をともし、拝礼の作法は、一礼をした後に、3拍手をしてお参りをする。

仏教では、線香を立て、般若心経を唱え、荒神真言「オン・ケンバヤ・ケンバヤ・ソワカ」と7回唱える。

我が家の荒神様

我が家のお祭りの方法は、御尊影(お札)を収める荒神神宮、3本の三柱の御幣を立て、水、お茶を捧げ、拝礼の作法は、一礼をした後に、3拍手をしてお参りをする。

御幣(ごへい・おんべい・おんべ)とは、神道の祭祀で、捧げられ、用いられる、幣帛(へいはく)の一種で、2本の紙垂(しで)を竹または木の幣串に挟んだものである。幣束(へいそく)、幣(ぬさ)ともいう。 通常、紙垂は白い紙で作るが、御幣にとりつける紙垂は白だけでなく五色の紙や、金箔・銀箔が用いられることもある。 「幣」は麻(麻布)、「帛」は絹(白絹、絹布)を意味する。両者は捧げ物の代表的な事物であることから、本来、「幣帛」で神々への捧げ物の「総称」を意味する。

葛はき

当地は、中島飛行機による買収以前には、本館近くに3軒家と言われ、3軒の農家があり、工場建設のために買収が行われたが、現在も小金井に繋がる道の跡が残っている。

我が家は山田別荘時代から関係があり、叔母たちは泰山荘というよりも山田別荘の話が端々に出てきた。冬になると別荘の中の周りの夏に伸びた雑草を刈込(下草刈)、熊笹が建物の近くまで繁茂しないように刈込を行い、落ち葉を集める(くずはき)の役向きを担っていた。

石庭、池、山葵田

また、崖線を降りていくと、石庭があり、池にはマスが飼われており、山葵田がいくつかあり、管理を行っていた。その後、近隣市の水道のために掘られた深井戸の為に湧水がすっかり枯れてしまい、池、山葵田も機能しなくなってしまった。そのようなこともあり、子供のころより良きあそび場であった。

農家の重要な有機質肥料

泰山荘となってからは、近隣の農家は範囲を決め、落ち葉の発酵熱を利用し夏果菜の発芽温度を確保するために、堆肥として利用するためにくずはきを行っていた。父が中島知久平氏と交流が深かったこともあり、管理を行っていた方とも交流があった。マスや肥育していたハチが作る蜂蜜をいただくのも年中行事であった。

泰山荘・茶室

泰山荘の門の手前には大変太い赤松の木があって、フクロウが巣をつくっていた。手前左側には、2件の居宅が並んであって、当時の別荘には、書家や画家の書生を住まわせることがステイサスであり、家事や所用・雑役を行う役割をしていたと聞く。

子供のころには、縁側の高さが背丈ほどもあるような、非常に大きな農家づくりの本宅があったが、残念ながら火災により焼失してしまった。現在も本宅の沓脱石、横にあった灯篭が残っている。また、ICUになってからは、泰山荘の待合の横には学長の官舎がり、待合茶室などには外国人の先生が住んでいた。

農場

農場には、まだ日本では珍しい品種の牛や豚が飼育され、餌としてサツマイモのつるや葉を提供したこともあった。くず履き(落ち葉集め)は農地を肥やす有機物資材として活用するために、市内の多数の農家が近年まで関わって来た。

国分寺崖線

国際基督教大学は国分寺崖線の上にあり、国分寺崖線は、古多摩川東岸部に連なる河岸段丘であり、高低差20メートルの涯が約30キロメートルにわたって連なっている。崖線上からの眺望は良く、江戸時代から名所とされ、明治初期から昭和初期にかけて実業家や政治家の別邸が数多く建てられた、

「東京都景観計画」

風景地である現在の国分寺崖線は、宅地開発などの要求もあって、現地系や湧水、樹木の消失の危機にある。東京とは「「東京と景観計画(2007年4月施行)において、国分寺崖線を景観基本軸として位置づけ、国分寺崖線という貴重な自然環境や、水田、寺社などの歴史的・文化的資源の保全を目標に、建物の規模や色の制限、緑化等による緑地の連続性の保持を具体的な取り組みとして示している。

湧水は枯渇

現在は、近隣市が水道水に活用するために、深井戸を掘削し地下水をくみ上げたために湧水は枯渇し、泰山荘の庭園は水がなく、山葵田も荒れ放題となっている。しかしながら、南側は野川公園として整備されたために、緑の景観が維持されている。

山田敬亮の別荘

泰山荘はICU(国際基督教大学)の敷地内にある建築物であり、1936(昭和11)年頃実業家で あった山田敬亮の別荘として建てられた。 泰山荘を構成する建物の多くは移築されたものであり、その中でも高風居の一室をなす一畳敷は、北海道の名付け親として知られる松浦武四郎によって約130年も前に建てられた。

現存する6つの建物、「高風居(一畳敷を含む)」「書院」「待合」「蔵」「車庫」「表門」すべてが国登録有形文化財になっている。

ICUホームページより

中島飛行機

また、中島飛行機は世界の最先端の飛行機製造技術を持った企業であったことから、三鷹の工業化をけん引し、市内の工業を育成させ、三鷹市発展させてきた歴史がある。

ICUの森

はけのみどりは変遷の中に残ることができ、三鷹市の貴重な緑地空間となって いるが荒廃がつづいている。過去には、薪の出荷用のくぬぎ、ならなどの薪材とされていた森であったため(現在ではなくなってしまっているが薪を切り出した痕跡、大きな切り株が多数あった。)に、森の更新がされていたが現在では、強い、大きな木だけが勝ち残っている状態である。(過去に森の更新について、レポートを提出した経験がある。ICUでは過去に専門の教授を迎え研究したことがあり、その女性の研究者と懇談したことを記憶している。)

国際基督教大学は国際的財産

国際基督教大学は知的財産の鉱山、財産,資産である。そして、泰山荘は歴史的、文化的財産として、森は、大切な緑の財産として、自然環境を守るための財産として協力しながら維持、守る必要がある、知的財産はなお深く追求し、世界の平和と、発展に活用していくことが求められている。国際基督教大学構内の財産は、森の復活を最優先に考え、また、市民とともに、大切な資源として認識し、まちづくりに生かしていくことが肝要と考えます。

白菜の取り入れ

三鷹市内は、夏のスイカ、冬の白菜は大産地となった。どこの畑を見ても作付けされていた。出荷期は11月から始まり、当時は、どの家庭でも白菜を樽につけることが多く、1件でいくつもの白菜を購入することが年中行事化していた。

8月に播種した白菜は、1月後に1所1本に間引きをし、成長を待つ。初霜が降りると外葉が黄色く成り、葉をまとめ包み込むようにし上端を藁で止め、霜や強い風から守った。根を切ってしまうと白菜が凍るために畑にそのまま置いてあった。根があると地下水を吸い上げ、地下水が凍ることから守っていた。

出荷は11月から始まるが、その荷姿は、3~4つを積み重ね、真中にピンク色の紙の帯をし、荒縄で結束した。当時の白菜は、大人が持っても2つが精々で、子供にしてみると一抱えもある大きなものが高値を付けた。今のように、半分、四半分にして商品となることは考えられなかった。暮れの内に出荷できないものは、来年正月からの出荷となる。暮れからの季節は大変厳しく、気温も下がり、白菜が凍ってしまうので、霜のかからない所に取り入れておく必要があった。

父と二人で暮れ間近になるとリヤカーを引き、取入れに励んだ。まだ当時は道路も舗装されておらず、朝は霜柱が溶け、午前中はぬかるみ、午後は3時ころになると凍り始めるような状態であった。野道はなお増して、悪い状態であった。白菜をできるだけ沢山、山のように、多少の凸凹でも落ちることがないように積み込み、家の裏にある竹やぶに運び込み、縦に並べ、上に蓆やコモをかけておいた。畑での積み込みや竹藪での作業は、ぬれた靴を履き、ろくな手袋もなく、手、足が凍るような中での作業であった。出荷は正月から寒の間は大きく変化はないが、過ぎると、外側の葉は腐り、とろけ始め、荷姿を整えるには、外側の葉を沢山取らなければならず、小さくなってしまう。しかし、この時期の白菜の値は、他に葉物の出荷が少なかったこともあり、結構よかった。

ウドの根起こし

春5月に麦の畝間に定植した独活の根株から発芽、成長続け、8月の頃背丈ほどに成長、ぼんぼり状の花房をたくさんつけ黄色い花が咲く。11月初め、初霜が降りると地上部が霜枯れし、乾燥したころから根を掘り上げる。

長いこと父と手伝いに来ていた父の弟やお祖父さんの兄の植木屋さんが一緒に掘り上げていたが、

ウインチ方式のウド堀機

近所の農家で、1馬力のエンジンを利用したウド堀機を使うようになり、底にお願いし何年か、委託した。その効果は、これまで鍬1本で寝に傷をつけることなく掘り上げるのは、非常に労力が掛かることだったのが、その機械を使うと、根を持ち上げるだけでよく、労力は激減した。何年か後に我が家でも導入した。機械を扱うことが極端に不得意だった父に代わって、私が操作を行った。その機械は、1馬力のエンジンの力を利用し、ドラムがワイヤーを巻き取るウインチ方式で、ワイヤーの先には大きな歯が付いており、その幅10センチのU字型をした刃が45センチ下の地中を通り、根を切ると同時に土を幾分持ち上げることとなるため、掘り上げが、小労力、簡単になった。エンジンが真っ赤になってしまったときは、色が黒くなるまでゆっくりと回し、温度が下がるのを待った。エンジンを止めてしまうと焼き付いてしまうので負荷をかけずに空回しをしてエンジンの温度が下がるのを待っていた。

ウド堀は、家族全員で取り組み1日で終わる追わらすこととなった。早朝、霜柱が立っているころより畑に行き準備をし、作業を始めるが、早朝は畑も霜の為に硬く、歯が上滑りすることもあった。

10時のお茶

母と姉が家で小麦粉に卵を入れ砂糖を甘めにし、重層でふんわりと焼き上げた焼きもちが用意された。お茶はやかんをたき火にかけ湯を沸かし、野道に蓆を引き、その上に座り皆でお茶を飲み、雑談をするにぎやかであった。

作業はいつも順調に進んだが、1度だけ肝を冷やしたことがあった。ワイヤーが機械に挟まり、急に伸びるのが突然ピンと張りつめ、押していた刃に向かって、弟が飛び込んでしまった時があった。顔に大きな傷ができたのではないかとぞっとしたが幸い刃の下に潜り込み土の中に突っ込んだだけで助かり、上げた顔が泥だらけで皆が大笑いして済んだ。今でも思い出すとぞっとする。

ウド堀の昼ご飯

母と姉は、昼ごはんの為に、塩にぎりと海苔を撒いたおにぎりをたくさん作って持ってきていた。おかずは漬物だけであったが、大きな鍋が用意され、インスタントラーメンが作られた。当時はまだインスタントラーメンは珍しく、普段は食べないものであった。具に、葉物やダイコン、ハクサイなどが入れられ、卵でとじ、魚肉ソーセージが彩を添え、豪華なラーメンとなり、空腹の子供にとっては、最高のラーメン、食事となった。

3時のおやつ

昨日食べきらなかった麦飯にうどん粉を混ぜ、厚さ1センチ程度の小判型に焼いた焼きもちが用意されていて、甘辛い醤油をかけ食べたが、甘から醤油の味が、千枚に薄く切ったカブの一夜漬けが、何か新鮮であった。父が自転車でどこかに出かけ帰ってくると、バヤリースオレンジジュースの瓶を抱えてきた。ジュースを買って飲むことがまれな時代であったこともあり、皆で大いに盛り上がった。

機械をしまい家に帰るころは、夜空に星が瞬く月夜だった。家に帰ると、サンマが焼かれおかずとし、麦飯と株の味噌汁が用意されていた。食後は、子供たちは居眠りをし、ふろに入るのももどかしく寝床に入った。

苗床の周りのわら囲い

次の年の準備が始まり、最初に行うのは、夏果菜類の苗の育苗で、発芽温度20度を確保するための苗床づくりである。その苗床を風から守り、陽だまりを作り、温度を確保するための垣根をつくることが大きな仕事であった。約30坪の敷地の周りを囲む、麦わらや稲藁で垣根をつくる。2件間隔で柱を立て、底に3段の桟を付け、底に麦わらや稲藁などを括り付け、出入り口は蓆を下げて作り上げた。

温床の準備

我が家の温床は、幅1件長さ2件の発芽用温床と温床の枠づくり、温床用のビニールを張った障子づくりが行われ、成長に合わせて育苗用の温床を増設し準備した。

発芽温度の確保

温度確保には、落ち葉や米ぬか、下肥などを利用し発酵熱を利用したもので、1週間ほどで一定の20度の温度が保たれるようになる。木の枠で、深さ60センチの深さを確保し、その中に暮れに集めた落ち葉に切り藁を混ぜ、ぬかを撒き、下肥を打つ、繰り返し行い、ほぼ渕まで踏み込んで詰め、床泥を5センチほど平らになるように敷きこむ。ビニール障子をかけ、蓆で覆いをかけ、1週間ほど置くと、温度が20度以上になるが、日を経るに従い、20度の温度が一定してくる。この時に播種をする。

キリスト教大学の協会のクリスマスは飾り付けが大変きれいである、パイプオルガンが響き、まさに絵になり、子供たちは楽しく過ごしていた。それを遠くから眺めていたが、我が家のクリスマスを楽しんだ。

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