歳時記(7月の行事・農作業)

時として大雨が降りやすい時期。滝水が落ちるような雨「滝落とし」、弾丸のような大粒の雨「鉄砲雨」篠竹を突き立てるような雨「篠突く雨」

7月写真

7月(文月ふみづき)

このページは、歳時記(7月の行事・農作業)をテーマに記載しています。

目次

行事一覧

七十二候 小暑(しょうしょ)

7~11日 初候 温風至 (あつかぜいたる)

梅雨が明けて本格的に夏になるころ。夏の風が熱気を運ぶ。

12~16日 次候 蓮始開 (はすはじめてひらく)

蓮の花が咲き始める。夜明けとともに開花する。また開花するときにポンと音を出すと言われている。

17~22日 末候 鷹乃学習 (たかすなわちがくしゅうす)

鷹の雛が飛び方を覚えるころ。巣立ちし、穀物をとらえ、一人前になる準備を行う頃。

7日 七夕(たなばた)(旧暦7日)

小暑

13日 東京お盆 迎え火

14日 東京お盆

15日 東京お盆

16日 藪入り・閻魔詣で

中元

中元の習慣は中国に発する。正月十五日を上元、七月十五日を中元、十月十五日を下限と言い、3元と言われる。

20日 府中 大國魂神社 スモモ祭・烏うちわ

すもも祭では境内は参拝者で終日賑わい、参道には李子(すもも)を売る店など多数の露天商が軒を連ね、夏の風物詩となっている。

 

烏団扇(からすうちわ)は大國魂神社で毎年7月20日に開かれる「すもも祭」で頒布される。「すもも祭」のときだけ頒布され、「からす扇・からす団扇」の起源は、五穀豊穣・悪疫防除の意味からで、その扇や団扇で扇ぐと害虫は駆除され病気は平癒する、とされます。

20日 大國魂神社 スモモ祭り 烏うちわの配布

朝9時に家を出発、9時30分に大國魂神社に到着し駐車場に入場する。早く到着したためか、来場者は予想していたよりも少ないと感じる。参道の様子は、門近くに10件程度の「すももの売店」が並び、大鳥居までの間は、縁日らしく各種の販売ブースが並んでいた。

髄神門から拝殿前に進む、中に入ると拝殿前まで行列となっていた。

拝殿前には、青木屋さんより奉納された花を氷の中に一緒に凍らせた氷柱が対で2本飾られ、幾ばく化の涼を感じる。両側には大きな烏内をのスモモ祭りの1対の看板が置かれていた。コロナ禍の不拡大、疫病退散、国民、三鷹市民の安寧に取り組む覚悟を祈願し、ご加護をお願いした。帰りに疫病退散の烏うちわを賜り帰宅する。

土用入り うめぼ天日干し

土用干し(天日干し)(7月の土用の日界隈)

梅酢と赤紫蘇が容器全体をやさしく動かしなじませ、再び梅全体が梅酢にしっかり浸かるくらいの重石をのせ、梅雨があけるのを待ったものを、漬け始めて1ヶ月程度が経った梅雨明け頃に、晴天が4日間続きそうな日を選んで干します。3~4日干すのは大きめの梅(2~3Lサイズ)を想定した日数になります。ザルを用意し、ブロックなど土台の上にザルに乗せ風通しを良くします。できれば梅酢も日光に当ててあげてください。

土用
土旺を訛ったもので、土気の盛んな時期を意味し、五行説に基づいて設けられたものである。
春は木、夏は火、秋は金、冬は水がこれをつかさどり、土は識の間にあり、その生成を助けるものと考え、立春、立夏、立秋、立冬前の十八日間を土用と呼んだ。金品をささげ贖罪をする日と伝わったが、形が変わり、縁故者や目上、恩人等に贈り物をして日頃のお礼心を表す、中元と言う習わしになった。

国領神社 神社歴より引用

22日 海の日

海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う。

23日 スポーツの日

スポーツを楽しみ、他者を尊重する精神を培うとともに、健康で活力ある社会の実現を願う。

七十二候 大暑 (たいしょ)暦の上で暑さが最も厳しくなるころの節気。新暦7月23日頃。

23~27日 初候  斬始花結(きりはじめてはなをむすぶ)

桐の花がこずえ高く、淡い紫色の花を咲かせる。

28~8月1日 次候 土潤溽暑(つちうるおうてむしあつし)

むわっとする熱気がまとわりつく蒸し暑いころ。暑さの盛り「ごく書」、燃えるような暑さ「炎暑」過酷な暑さ「酷暑」、2007年以降は、最高気温25度以上「夏日」、30度以上「真夏日」、35度以上「猛暑日」

8月2日~6日 末候 大雨時行 (たいうとこどきにふる)

時として大雨が降りやすい時期。滝水が落ちるような雨「滝落とし」、弾丸のような大粒の雨「鉄砲雨」篠竹を突き立てるような雨「篠突く雨」

27日 土用の丑

土用の丑の日土用の期間中の丑の日を言う。

30日 明治天皇祭り

「明治天皇祭」は大正天皇時代の「先帝祭」です。「先帝祭」とは、先代の天皇が崩御された日を祭る宮中祭祀の一つで、大祭です。大正天皇の先帝である明治天皇は7月30日に崩御されたため、この日が祭日になりました。大正天皇が崩御されたのに伴い、この日は祭日ではなくなり、新たに「大正天皇祭」が制定されました。

31日 盆迎え火(三鷹お盆)

(8月1日お盆、8月2日盆送り火、8月3日閻魔詣で、やぶいり)

暮らしの記憶

小暑

温風至る

梅雨が明けて本格的に夏になるころ。夏の風が熱気を運ぶ。

蓮始めて開く

蓮の花が咲き始める。夜明けとともに開花する。また開花するときにポンと音を出すと言われている。

1951(昭和26)年大賀一郎博士たちは千葉県検見川の東京大学農学部厚生農場内(現・東京大学総合運動場)の泥炭層を掘り進め、地下約6メートルの青泥層からに古蓮実1粒を発見しました。1954(昭和29)年3月31日付で千葉県の天然記念物「検見川の大賀蓮」として指定され、以来、この古蓮は「大賀蓮」と呼ばれています。大賀蓮は、年代測定に基づき、約2000年前の古蓮と推定されました。分根された千葉公園の株は1953年(昭28)8月5日、県農業試験場の株は1955年(昭30年)頃に開花しています。その後、実や蓮根によって、国内及び海外へ150箇所以上に分根、栽培され、友好と平和の使者として親しみ愛されています。また、1993年(平成5)4月29日、千葉市が政令指定都市になったことなどを記念し「市の花」に制定され、古代のロマンを秘めた花蓮として本市の象徴になっています。

古代ハス「大賀蓮」(千葉市ホームページより)

七夕の節句

七夕7月7日の夜に天の川を渡り、年に一度だけ会うことを許された、牽牛星(わし座のアルタイ)と職女星(こと座のぺガ)(和名 棚機津女 タナバタツメ)の星の伝説から生まれた行事で、夏の無病を祈り、厄除けをする行事

古代中国から伝わった牽牛と織女の星伝説「七夕」と短冊に歌や文字を書いて裁縫や書道の上達を願う「吃功奠(きつこうでん)の風習が、日本古来の棚機女(タナバタツメ、天から降りてくる水神を迎えるために、水辺に張り出した棚の上で、美しい紙衣を織る女)の伝説と結びついた。

天の川

天の川子供のころには、雑木林が多くあり,街灯も少なく、まだ自動車もいくらも走ることはない状況であった。限りない星が満天に輝き、天の川が横に流れ、良く見ることができた。何時の日か見ることができなくなっていた。

七夕飾り・七夕流し

笹竹に短冊を飾る風習で、短冊は、赤青、黄、白、黒(紫)の五色(陰陽五行に由来する)織姫が機織り大変上手であったことにあやかって、技芸の上達を願ったものである。飾りには、折り紙、千代紙などで作る、ちょうちん、吹き流し、くす玉、紙衣などをつくり飾り付けた。翌日には、災厄や穢れを祓うために、七夕飾りを川に流した。

手習いはじめ・習字の練習

技芸の向上を願うことから、この時期から習い事を始めるのが良いと言われた。

習字の練習は、朝早く里芋の葉に溜まる、はあの上をころころと転がる水玉を集めることから始め、その水で墨を擦り練習をした。短冊に字を書くと、字が上手に書けるようになり、上達すると言われた。文言は、天の川、織姫、彦星、願い事などを書いた。

父の子供のころの野川

子供のころには野川にもウナギが生息し、野川で魚取りを行うと取れた。父の話によると深みのあるところに仕掛けをかけて捕獲し、うなぎ、ナマズ、ドジョウ、コイ、フナ、結構とれたという。

夏の土用

夏の土用は、立秋前の十八日間のことで、七月二十日頃に土用入りする。この間にある丑の日を「土用の丑の日」といい、一の丑、二の丑という。

土用の丑の日・うなぎを食す

暑い盛りに夏バテ予防、栄養補給に生の付くものを食べる習慣が引き継がれ、ウナギ(他に、土用シジミ、土用餅、土用卵など)が食べられる。

江戸時代に平賀源内がなじみのうなぎ屋をはやらせようと宣伝用に看板を出したのが始まりと言われる。夏の御馳走で、かば焼き、白焼きなどで食べる。栄養豊富で、ビタミンAは一串で大人三日分含まれると言い、ビタミンDを含むと言われる。

夏の食欲不振を解消、胃腸の病気や風の予防、夜盲症、動脈硬化、疲労回復、老化防止に効果があるとされる。関東では、武士の切腹に通じる事から背開きとし、白焼きにし蒸籠で蒸し上げ、たれをつけて焼く。柔らかい。関西では腹開きとし、白焼きにしたものにたれをつけて焼くことから歯ごたえがある。

暑中見舞い

暑い夏の中、日ごろお世話になっている方や親しい友人、御無沙汰をしている友人に、暑さをねぎらい、心情を知らせ、ご健勝を祈願する便り。本来は遠方の方へのものであったが、大正時代より広く送られるようになった。小暑までに出す便りを「梅雨見舞い」、小暑から立秋までが「暑中見舞い」、立秋以降は「残暑見舞い」

李子祭り(すももまつり)・烏うちわ
大国魂神社で七月二十日に行われ境内には李を売る店や菓子、食べ物を販売する多くの店が並び、大変な人出となる。当日烏扇(内輪で薄墨色の中に黒いカラスの柄が描かれている。)が領布される。
源頼義、義家父子が奥州征伐の閉じ、戦勝祈願のために「すもも」と「粟飯」を神饌として奉献したことによりこの祭りが起こった。
烏扇を持って扇ぐと、農作物の害虫は駆除され、病者は直ちに平癒すると言われ、厄除けうちわとして当日はこれを受ける人たちで賑わう。      

大国魂神社発行大国魂神社暦より

土用の丑の日・うなぎを食す

暑い盛りに夏バテ予防、栄養補給に生の付くものを食べる習慣が引き継がれ、ウナギ(他に、土用シジミ、土用餅、土用卵など)が食べられる。

江戸時代に平賀源内がなじみのうなぎ屋をはやらせようと宣伝用に看板を出したのが始まりと言われる。夏の御馳走で、かば焼き、白焼きなどで食べる。栄養豊富で、ビタミンAは一串で大人三日分含まれると言い、ビタミンDを含むと言われる。

夏の食欲不振を解消、胃腸の病気や風の予防、夜盲症、動脈硬化、疲労回復、老化防止に効果があるとされる。関東では、武士の切腹に通じる事から背開きとし、白焼きにし蒸籠で蒸し上げ、たれをつけて焼く。柔らかい。関西では腹開きとし、白焼きにしたものにたれをつけて焼くことから歯ごたえがある。

盆と農作業、春から秋へ

古くは蚕を飼育していた時代に「春子」の眉を出荷し、夏果菜類の収穫が終わる時期が7月であった。

夏休み初めの草取り

私が小学校、中学校、高校時代には、夏休みが7月21日から始まった。夏休みが始まると勉強は二の次で、遅れていた草むしり(除草)をお盆の前までに片付けるのが年中行事であった。我が家は、父と母だけが労働力で常に労働力不足であったために、また夏果菜の収穫と出荷があり、除草が間に合わなかった、そのために子供が夏休みになるのを待って除草作業を行った。最初は草丈も短く進行も速かったが、草丈が腰高になると運び出すだけでも重労働であった。朝早くから夕方見えなくなるまで行い、雨の日もできる限り作業を進め、そうこうしていると先が見えてくると、先に除草をしたところは、新しく目が出て、成長するようであった。この時期に畑の除草も一回り終るころに、雷が鳴り雨が降ると、小型の台風が来て雨が降るとつゆ明けとなった。その後はじりじりとするような太陽が照り付けた。当時の気温は、記憶に間違いなければ、最高でも29~30度であった。そんな時は、歩いていても足の裏が厚さを感じ、日よけ、暑さよけに背中に常緑樹の葉を括り付けて仕事を行った。

そんな作業の中でも楽しみがあって、木の下に、早朝に夜の間に冷たく冷えたスイカを埋めて、10時、3時のお茶の時間に掘り起こして食べると、ほてった体に冷たく、美味しく感じた。また、母が作って畑まで持ってきてくれる、重曹でふっくらと仕上げた、甘いやきもちなどは空腹に何よりものおやつであった。

お盆前までに春の草を除草が終わり、梅雨明けを迎えると、セミの声が最も大きく聞こえるような気がしたが、この時期を境に季節が変わり、春の草は目を出さなくなった。風さえも秋の気配を運んでくるようで、草は日照りに強い「コニシキソウ」「カタバミ類」「シロザ」「アカザ」「イヌタデ」「スベリヒユ」などが勢いづくが、1か月間は除草の作業はなかった。その後秋へと変化していくこととなる。

盂蘭盆会
「お盆」と呼ばれ、「精霊会」、「御霊祭り」とも言われ、先祖の成仏を願い、報恩の供養をする。先祖の霊を迎えて祭り、その冥福を祈る行事である。もともとは旧暦7月の行事であったが、地域によって、行う日に違いがある。「盂蘭盆」とは、梵語のウラバナデ、漢訳すると「倒懸」と言い、「逆さにつるされたように苦しむ」ものを救うための供養という意味である。「仏説盂蘭盆経」によると、お釈迦様の弟子で神通力第一と言われた目連尊者が、その神通力で亡き母の様子を見ると、母は餓鬼道に落ちて苦しんでいる。しかし自分の力ではどうしても救う事はできず、お釈迦様の教えによって布施供養し、母を餓鬼道から救ったということに由来する。
あの世で苦しみを受けている死者を供養して救うという仏教の風習が日本に伝わり、先祖を祀る行事となり、お盆の習慣が民間に広く普及した。
目連尊者 お釈迦様の十大弟子の一人で神通力に秀でた人物。神通力で母が餓鬼道に落ちたことを知るが、お釈迦様より「七月十五日の夏安居(けあんご 僧が一室にこもり修行をすること)が終えた後に、僧たちに御馳走を供えて母親の回向を頼みなさい」と教えられ、母親は餓鬼道の苦しみから救われた。

真義真言宗、「新義こよみ」より

お墓掃除

お盆、お彼岸、お祭りの前日に、宍戸家の墓掃除に、一見一人が早朝には課に集まり、掃除を行った。子供のころの墓場は、通路や石のない区画は、草丈が腰の高さになるほど大きく成長して、草をむしるだけでも大変な作業であった。最近では、当番制で除草剤を撒くこととなり、いつでも大方はきれいになっている。また、集まった時に情報交換や、新盆、初彼岸などの作法について、取り決めを行っていたが、それぞれのお宅が仕事や時間の都合により、集まることができなくなりつつある。

盆だな・精霊だな

7月31日、一家の墓がまとまって一か所にあり、早朝からお墓に集まり、墓掃除を行う。また、仏壇、神棚を清める。仏壇の脇に盆棚を作る。盆棚は、「精霊棚」と呼ばれ、「迎え火」によりお迎えした先祖の霊を祭る。古くは、沼や河川の水辺に生えるイネ科の水草・真菰で編んだござを敷き、四隅に笹竹を立てて、朝早く刈り取った茅で縄を綯い作った縄を張り、蓬づきや庭に咲いた花などを飾る。(我が家では真菰のござは手に入らないことから、藺草のござを新調して使い、盆が終わってからうどんを作るときに利用した。現在では、お盆セット、真菰ござ、真コモで作った馬や牛、尾がら、蓮の葉などが「お盆セット」が販売されており、利用する。)

盆棚の茣蓙の上には、御本尊を一番上座に置き、御位牌を並べ、スイカ、トマト、キュウリ、ナスなどの野菜を並べ、花花瓶、麻の茎を乾燥させた麻幹(おがら)で足を付けた、胡瓜の馬、ナスの丑を置き、蝋燭、線香立、線香、リンを並べる。また、蓮の葉の代わりのイモの葉にナスをサイコロに切ったものを載せ、みそ萩を添え、皿などの器に水を汲み置き、精霊を迎える棚を作る。(現在では、笹竹も手い入りにくく、野菜は購入したものを利用することとなり、梵棚も、仏壇の中でしつらえるなど変えざるをえなくなっている。)

物売り

季節の変わり目や大きな行事の前に、行事に必要なものや、季節に関わるものなどの商品を各農家を回り販売する人が、歩いて回ってきた。

かごや

この時期になると、お盆に使用する、古くなったものを新潮するために、かご屋さんが各種かごを天秤で担いで、各農家を訪問販売に歩いた。

豆腐屋

お盆、お彼岸、お祭りの前になると、豆腐、焼き豆腐、がんもどき、油揚げ、卯の花などの注文を取りに農家を回って歩き、納品はそれぞれの前日に配達された。

障子紙屋のおばさん

お盆、お彼岸、お祭りの前になると、障子紙を背負い販売に歩くおばさんが回ってきた。

土用・丑の日

土用とは、日本の古来の「二十四節気」という季節を分けた暦の区分により、立夏・立秋・立冬・立春直前の約18日間の「期間」を表す言葉です。土用の丑の日とは、二十四節気の中で数えた18日間の内の「丑の日」を指す。

「迎え火」

迎え火7月31日の初日夕方に、先祖の精霊を迎えるために焚く火を「迎え火」という。家族、嫁いだ先から実家に帰り、分家の親類が集まり、賑やかに行列を作り、農業が盛んで小麦を生産していた時には、小麦の藁を松明に作り、西から、東から迎えに出た先でたいまつに火をともし、「この明りで、どの仏様もお帰り下さい」と呪文をともしながら家の戸口まで来ると精霊棚のろうそくに火を燈し、順に線香をあげ、手を合わせて供養を行う。「迎え火」が終わると、お茶や食事をお供えし、集まった家族や親類が一緒に食事を行った。

「迎え火」の食事

仏の行事であることから、精進料理と決められていた。醤油味でまず「切り昆布」を煮、出汁をとり、その出汁を利用し、かぼちゃ、いんげん、ナスの順で煮浸ける。焼きナスや青シソ、ナス、いんげん、カボチャの天ぷら、白い米の飯にナス、いんげん、ジャガイモなどの具の入ったみそ汁、キュウリ、ナスの糠味噌漬が御馳走で、精霊棚の仏壇にも供えられた。冷蔵庫のない頃であったので、煮物などは傷みが早いので、煮返すか、新たに作ることとなる。

8月1日

朝早くからお寺の住職さんが盆の読経供養に各家を回ってくるので皆で早起きをして、待っていると家の物がお迎えしないでも仏壇の前に立ち読経を始める、家の者はそろって座り、読経の終わるのを待ち、「上」と書いた半紙にくるんだお布施を渡し、一緒に回っている下男にこずかいを渡すのが習わしとなっていた。茶を入れて置くが、読経が終わると座り、世間話や変わりがないかなどの話はするが長居はせず、茶を飲むのを見たことがない。「せっかくですからどうぞ」と勧めると、件数が多いからとやんわりと断り、すっと立ち上がり次の家に向かった。

朝食・料理

朝食は、小麦粉に卵を溶いた生地皮を作り、前日から小豆をゆでて作っておいた餡子をくるみ、蒸かして作る「蒸かし饅頭」と茹でて作る「茹で饅頭」の饅頭を作る。仏壇にお供えし、家族の朝食となった。料理は精進料理で前日に作り置きしたものを食べ、昼には、うどんを茹でて、お供えし、昼食とした。来客にも茶菓代わりに出された。

うどんづくり

うどんは前もって水車で製粉をお願いし、当日か前日に、粉を水でこね、数時間もしくは一晩寝かせ、こねなおし、ござにくるみ足で踏む、踏むことをしっかり行うことにより、腰を出すことが行われ、踏む仕事は子供たちが行った。

8月2日

盂蘭盆会の最後の日である。母は、朝早く起きて、うるち米にもち米を少し加えて炊き上げ、粘りが出るまですりこぎで搗き、案をまぶし、牡丹餅を作り仏壇に供え、皆で燈明をあげ、手を合わせた。その後朝食となる。昼にはうどんを湯でお供えした。朝食が終わると米粉で「お土産団子」を7つ作りお供えする。

「送り火」

先祖の霊が無事にあの世に戻れるように願う習わしで有り、「迎え火」の逆に行い、仏壇の灯明から麦わらのたいまつに火を焚き送る。送りはなるべく遅い時間がよいとされている。

盆は先祖の霊を迎え、生活を共にするというもので、お供えや、食事はお迎えした霊と家族が同じものを食べ、毎日違うものをお供えし供養することとされている。また、親類やご近所の人が訪れる事が多く、持って下さるお供えされる土産が楽しみな日でもあった。

お参りに来て下さる訪問客には、父は大きなスイカを切って御馳走の一つとし、必ず手打ちのうどんを「凌ぎです」と言い振る舞い、大変喜ばれ、帰りには大きなスイカを、手土産に持たせて帰した。

8月3日

「お閻魔様の日」

お盆の次の日はお閻魔様の日と言い、送り火でお送りした「先祖の霊」がお墓に帰り着くとお礼参りとして墓参りをする人決まっていた。その帰り道に菩提寺の焔魔堂に詣で手を合わすこととしていた。

小さい時から「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる」と怖いものと頭に叩き込まれた閻魔だが、一方では閻魔は地蔵菩薩と同一で地蔵菩薩の化身ともいわれ慈悲心をたたえた存在とも言われている。隣には衣婆奪(だつえば)、オニババアというのが定説だが、閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り罪の軽量を計るとされ、右手には亡者からはぎ取った衣が握られている。また、奪衣婆が剥ぎ取った衣類は、懸衣翁という老爺によって衣領樹にかけられる。衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって死後の処遇を決めるとされた。

お閻魔様の日のご馳走はちらし寿司

「閻魔様の日」ちらし寿司は酢飯に季節の物(ちくわ、蒟蒻、ニンジンなどを短い千切りにしたものを味をつけ煮込む)きゅうりの千切り、ナスの一夜漬けを載せいただくこととし、朝食とした。昼はナス、いんげんの素茹でしたものやトマト、キュウリ、メロンの一夜漬け、みょうが、大葉の薬味などを糧としてのつけうどん。

盆棚のかたずけ

本尊様、お位牌を基の仏壇に安置し、仏壇にちらしずしをお供えし閻魔大王に手を合わせる。寺に行き閻魔堂に行き手を合わせ、健康長寿、家内安全を祈願し手を合わせる。

「藪入」「閻魔様の日」

古くからこの時期の季節の端境期に、お盆が農休日を兼ねており、女性たちの食事の労力を少なくすることとした。閻魔様の日は「藪入」の日と言われ、江戸時代から、小正月の1月16日とお盆の7月16日は「藪入」と言い、他家に嫁いで行った女性も正月と盆には実家に帰ることを許され、実家は、嫁いだ娘や方向に行っている息子や娘たちが勢ぞろいしにぎやかとなった。この日は働くことを忌み嫌い、それまでの労働による疲れをとり、癒す

懸衣翁(けんえおう)とは、死後の世界の三途の川のほとりにある衣領樹(えりょうじゅ)という木の上、または川辺にいる奪衣婆の隣にいるといわれる老人である。
奪衣婆と共に十王の配下で、奪衣婆が亡者から剥ぎ取った衣類を衣領樹の枝にかけ、その枝の垂れ具合で亡者の生前の罪の重さを計るとされる。
罪の重い亡者は三途の川を渡る際、川の流れが速くて波が高く、深瀬になった場所を渡るよう定められているため、衣はずぶ濡れになって重くなり、衣をかけた枝が大きく垂れることで罪の深さが示されるのである。また亡者が服を着ていない際は、懸衣翁は衣の代わりに亡者の生皮を剥ぎ取るという。
奪衣婆(だつえば)は、三途川(葬頭河)で亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼。脱衣婆、葬頭河婆(そうづかば)、正塚婆(しょうづかのばば)姥神(うばがみ)、優婆尊(うばそん)とも言う。
多くの地獄絵図に登場する奪衣婆は、胸元をはだけた容貌魁偉な老婆として描かれている日本の仏教では、人が死んだ後に最初に出会う冥界の官吏が奪衣婆とされている。奪衣婆は盗業を戒めるために盗人の両手の指を折り、亡者の衣服を剥ぎ取る。剥ぎ取った衣類は懸衣翁という老爺の鬼によって川の畔に立つ衣領樹という大樹にかけられる。衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって死後の処遇を決めるとされる。
経典での奪衣婆の初出は、中国の経典『仏説閻羅王授記四衆逆修七往生浄土経』をもとに、日本で12世紀末で成立した偽経『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』である。奪衣婆は鎌倉時代以降、説教や絵解の定番の登場人物となり、服がない亡者は身の皮を剥がれる、 三途川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る など、さまざまな設定や解説が付け加えられた。

懸衣翁(けんえおう)と奪衣婆(だつえば) 新義こよみより
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