歳時記(6月の行事・農作業)

6月写真

6月(水無月みなづき)

このページは、歳時記(6月の行事・農作業)をテーマに記載しています。

目次

行事一覧

5日 芒種 カマキリが卵から出てくる季節。

七十二候 芒種(ぼうしゅ)

カマキリが卵から出てくる季節。昨秋から冬にかけて、木の枝などに産み付けて冬越しをした髪切りの卵が孵化し、臼褐色の幼虫が順々に繋がりながら巣から出てくる。

5~9日 初候 蟷螂生(かまきりしょうず)

昨秋から冬にかけて、木の枝などに産み付けて冬越しをした髪切りの卵が孵化し、臼褐色の幼虫が順々に繋がりながら巣から出てくる。その時に親はなく、小さな体で、親と同じ体を持ち、立派な鎌を持っている。そこから独り立ちをする。

6月10日 時の記念日

「日本書紀」に671年の旧暦4月25日に宮中で漏刻(日時計)が設置されたことが記載されている。これが日本の寺宝の起源とされる。新暦では6月10日に当たり、1920年(大正9年)から「時の記念日」と定められた。天智天皇を祀る滋賀県大津市の近江神社では毎年「漏刻祭」が行われる。

日本標準時の基準となる子午線(東経135度)が徹兵庫県明石市では時の記念日にときにちなんだ行事が行われる。

三鷹市大沢には天文台があり、日本で継続的に星の観測をするようになったのは、江戸時代後期、幕府天文方の浅草天文台からで、明治時代になり、本郷の東京大学構内に学生の実測用に天文台が作られ、1888年(明治21年)に東京府麻布区飯倉に東京天文台が作られた。その後、1924年(大正13年)に、天文台は三鷹村の誘致運動が実り、北多磨郡三鷹村大澤へ移転した。

初期の天文台の主な仕事は、星を観測して経緯度の決定、暦の計算、時間の決定を行うことで、明治時代の国策として始まり、現在も天文台の仕事の一部として続けられている。天文台を地域の資源・財産と捉え、三鷹市のアイデンティティとして、三鷹市の発展のためにまちづくりに活用することが望まれる。

10~14日 次候 腐草為蛍 (くされたるくさほたるとなる)昔

昔の人は、腐った草が、蛍となる時期と見た。蛍の幼虫は、土の中で蛹になり、羽化すると土から出、光、飛び交う。

15~20日 末候 梅子黄 (うめのみきばむ)梅の実が基盤で熟す季節。

昔の人は、腐った草が、蛍となる時期と見た。蛍の幼虫は、土の中で蛹になり、羽化すると土から出、光、飛び交う。

入梅

梅の収穫とウメ干し作り
梅酒つくり

19日 桜桃忌

20日 父の日

 

七十二候 夏至(げし)

21日 夏至

「夏枯れ草」が枯れる時期。靭草の花穂が、武士が矢を入れる道具の「靭」に似ていることから云われる。

21~25日 初候 乃東枯 (なつかれくさかれる)

靭草は花穂の下から順に紫色の咲き、やがて彼、茶色くなる。

26~30日 次候 菖蒲華 (あやめさく)

「あやめ」の花が咲く時期。似た花の「杜若」は次に咲く。

7月1~7日 末候 半夏生 (はんげしょう)

「半夏」は烏柄杓の漢名である。先が細く伸びた袋のような花を烏柄杓と呼ぶ。田植えを終わり、多雪な節目の日であり、雑節の「半夏生」と言う。1年の半分にあたる時期で、立ち止まり振り返り、先を考える時として良い時期である。

24日 大祓へ(夏超の祓い)

6月と12月の旧暦の末日、晦日に行われる神道で最も重要な行事で、半年の間に積もった、身の汚れを祓い清める。茅野輪近在の神社では大沢八幡社に設置され、環くぐりを行いお参りをする。

暮らしの記憶

6月の行事・農作業

芒種

夏至

新暦の六月二十一日頃、二十四節気の一つ、旧暦の五月中、太陽の口径が九〇度の時、昼が最も長く、夜が最も短い日。

入梅・梅雨

春から夏へ季節が移り変わる六月から七月、北の大陸性気団と南の海洋性気団の交換機にあたり、その境目が梅雨前線となる。梅雨に入る最初の日を入梅と言い、暦の上では、太陽の口径が八〇度になる日六月十一日頃となる。梅雨に入ると、絹糸のような細い雨が降り続き、時折薄日が差す日が繰り返され本格的梅雨になる。梅雨の期間は湿度が高くじめじめとするが、田植え前後の稲の成長にとっては恵みの雨となり、青い梅の実が熟す時でもあることから「梅雨」と言われる。

梅雨明け

一ヶ月間続き、梅雨の末期に晴れた日の午後に雷が鳴ると梅雨明けとなる。

五月雨・五月晴れ

旧暦では五月に降る雨を「五月雨」とも言われ、「五月晴れ」はこの間の晴れ間を言う。

雨降りの予測する言葉

燕が低く飛ぶ・ガマガエルが出てくる・蟻が卵を運ぶ・大きなかたつむりが出てくる・蛇が出て歩く・夕日に傘が被る・星が大きく見えるなど

入梅(梅雨)、蝸牛、紫陽花の葉、花、燕、虹

入梅、梅雨時の風物詩として、蝸牛、紫陽花の葉、花、燕、虹は、イラストとしても描かれることが多い。

 

本州中部太平洋岸に野生するガクアジサイ から改良された 日本原産の 園芸植物で、 100 種以上の品種があると言われている。 欧米で品種改良され、逆輸入されたセイヨウアジサイも含めて、現在もなお、園芸種として品種改良が進められ、アジサイと総称されることも多い。 全国各地の公園・寺院・庭などに植えられていて、「アジサイ名所」も各地に知られている。

アジサイの葉は、虫に食われることがなく、色濃い緑色で、ままごと遊びの皿や器としても遊ぶことがあった。

アジサイの葉には毒があり、遊ぶ時には気を付けるようにきつく言われていた。

葉に含まれる毒の成分

葉に含まれる毒の成分は青酸配合体、抗マラリア成分、嘔吐性アルカロイドだといわれている。しかし、研究は進んでいるものの、毒性成分は明らかになっていない。アジサイの葉を食べ、咀嚼したり胃酸と反応することによって、青酸が生成され、嘔吐などの症状を起こすと考えられている。

アジサイの葉に含まれている毒で起こる食中毒の症状には、嘔吐・めまい・顔面紅潮です。今のところ、命に関わるほどの重篤な症状は起こったことがなく、アジサイの葉に含まれている毒は、含有量がそれほど多くなく、毒性も高くないようです。しかし、小さな子供やペットには危険と言われている。

アマチャづる

アジサイ近縁種のアジサイと近縁のアマチャはお茶にして飲むことができ、昔から薬用としても用いられていますが、今のところ有毒成分の報告はありません。

蝸牛(かたつむり)でんでんむし

かたつむり

アジサイの葉に蝸牛、梅雨に蝸牛と象徴的な姿を感じ、季節を彷彿とさせる。でんでんむし、蝸牛は最近ではあまり見かけることはないが、頭部に触角が大小2対あり、大触角(後触角)の先端には眼がある。角を2本立て、ゆっくりと動く姿は、なぜか凛々しく見え、角を動かしながらゆっくりと動く姿は、何を見ているのかとも、何を感じ取ろうとしているのかと、じっと見入ってしまう。

頭部に触角が大小2対あり、大触角(後触角)の先端には眼がある。ほとんどの種は植物性のものを食べ、生の植物や枯葉などやや分解の進んだ植物遺骸などを食べるほか、菌類を餌とするもの、雑食性のものなどがあり、一般にやや広い食性をもつという。また建物壁面やガードレールなどの人工物の表面に発生した藻類も餌となり、その食痕は日常的に見ることができる。カタツムリを主食とする動物(天敵)としては、ホタル類の幼虫やオサムシ類のマイマイカブリがよく知られている。

蝸牛の飼育と天敵マイマイカブリ

蝸牛を見つけると箱に入れ、餌になる堆肥を与え飼育し、いろいろ餌になりそうなものを与えてみた。蝸牛の歩いた跡は、ねばねばしたものが残り、白い跡と残った。家の周りの植え込みの落ち葉の下によく蝸牛の殻が転がっていた。多分餌を求めてのことと思うが、そこにマイマイカブリが現れ食べられてしまったのではないかと思いをはせる。早速、好奇心がむくむくと沸き立ち、残酷にもマイマイカブリを捕まえて、本当に蝸牛を食べるのか、観察をした。

マイマイカブリの捕獲・昆虫取り

マイマイカブリ葉は根が退化して飛ぶことはできない。色が黒く、徳利を横にしたような体形、あまり好まない物だ。普段は、植えこみ、木の下の落ち葉やごみが積み重なったところに潜り込んでいる。捕獲は、バケツを使い、地面と平らになるように埋め込み、中に蜂蜜、鰹節、バナナ、スイカの皮などを置き、上を草木で軽く覆う。次の日の朝には、ダンゴムシ、ミミズ、カブトムシの雌、蝸牛マイマイカブリ、ゴミムシなどが入っていた。その時には、2匹捕獲でき、ミミズに食らいついていた。成虫は蝸牛のほか、昆虫の幼虫やいろいろな小動物も食べ、、唾液で溶かしてその汁を吸う。

蝸牛の歩み

ゆっくりと動く姿は鈍足・牛歩・低速緩慢な足運び・緩慢な足取りなどに例えられたゆまざる歩みおそろし蝸牛の歩みとも用いられる。

カッコウが泣き始める

梅雨の合間、夕方になるとカッコウが泣き出す。毎年のことながら、天文台の周りのこの界隈には実際には日本に5月ごろ東南アジアから飛来し、夏を過ごすと言われている。南から北の方角にゆっくりと声が移ってゆく。別名を「閑古鳥」と言われ、古くは独特の鳴き声が寂しさを憂う声とも言い、響いたものと考える。また、カッコウの性質の一つである、カッコウは自身で巣作りや抱卵をせず、モズやオオヨシキリなど(宿主)の巣に卵を産み、子育てを押し付ける。カッコウは孵化すると、巣内の他の卵を巣の外に放り出す、繁殖方法は托卵と言う。と教えられた。

梅干しをつくる。

青梅を齧る

青梅をかじるのも子供の特権であった。カリカリと歯触りがよく、酸味(クエン酸)も適当にあり季節の果物の一つとして楽しんだものである。しかし、青梅には毒があると教えられ、食べてはいけない、食べるとお腹を壊すと言われた。

生の梅は、梅酒や梅干しつくりのため身近にありますので、子供が食べないように十分注意する必要があります。 頭痛、めまい、発汗、けいれん、呼吸困難など。 青酸配糖体のアミグダリン。 酵素により分解されて青酸を出し、中毒を起こします。

東京都福祉保健局「食品衛生の窓」より引用

梅の栽培

6月に入るとウメもぎが始まった。庭には梅の原種である野梅 花粉樹として活用、収量は少ない。

南高梅

日本で最も栽培の多い品種。花粉が多く、雌しべもしっかりしており豊産。自家不和合性。熟期は遅い。白加賀 関東地方で栽培が多い。花粉はないが、雌しべのしっかりした花をつけ、豊産。豊後梅 アンズに近いウメで、花はピンク、開花は遅い。1品種だけでよく結実。熟果は酸味が少なく、ジャムに最適。甲州小梅 最も広く栽培されている小ウメ。小ウメ類のなかでは、開花は若干遅く、結実は安定。ほとんどの家が、梅は花粉による受粉の程度により、収穫量が違い、花の開花時期が重要で、春先の長雨が振ると受粉がうまくいかず、収量が落ちる場合もあった。そのための花粉樹としての野梅を植え、収量を上げるための白加賀を栽培した。そのほか1本は甲州小梅を栽培、ほかに1本の普通の梅の3~4倍の大きな実をつける梅の木があった。

梅酒つくり

梅雨の晴れ間を見つけ、家族で一気に収穫、届かないところは下から、タケ竿でそっと叩き落す。実が割れないように気を配り行った。

青梅の水洗い

青梅を使う場合と完熟(黄色く熟した梅)を使う倍では出来上がり状態に違いができる。ボウルを使い、流水で梅を洗います。丁寧に汚れを落とし、清潔なふきん等で水気を拭き取り、タオル等の上に並べて水を切る、ます。ザルにあけて水切りをしてもよし。

※落ち梅(自然落下梅)を使う場合は、極稀ですが梅の中に虫が入っている可能性がありますので、落ち梅を使う場合は水洗いの後に必ず45分ほど水に浸けておきます。約45分水に浸けるとほぼ虫が出てしまいます。長時間浸けると梅が傷む。奥に残っているヘタ(ホシ)を、竹串や爪楊枝を使って梅にキズがつかないよう注意しながら取り除く。

梅の塩漬け、落し蓋、重石

容器の底に塩(塩の総量は、梅の20%程度)を一掴みふり、次に梅を平らに並べ、その上にまた塩をふり、梅と塩を交互に入れる。梅と梅に隙間が無いように塩を入れ、上に行くほど塩の量を増やします。できれば一番上は塩で隠れるようにする。その上に落し蓋を乗せ、落し蓋の上に重石(約2~4kg)を乗せる。3~5日して梅干が隠れるくらいまで梅酢が上がってきたら、重石の量を半分以下に減らし、ホコリ等が入らないよう上からビニール袋をかぶせて日陰の涼しい場所で保管します。梅は常に梅酢に完全に浸かっている状態にする。ときどきカビが発生していないか確認する。

赤紫蘇漬けの作り方

赤紫蘇は梅干しに赤い鮮やかな色としその風味を加えてくれるので、重量に対し梅の重量に対して最低10%ほど、色と風味をしっかりつけたいときはて20%ほどを最大として、用意する。

まず、茎から葉を摘み取り、水で洗い汚れを落とし、ざる上げして水気をしっかりと切る。(時間がある場合は、半日ほどざる上げして少し乾かすとよいです)。

赤紫蘇のあく抜き

赤紫蘇の下ごしらえに使う塩も赤紫蘇の重量に対して17~18%ほどです大きなボウルに赤紫蘇を入れ、塩の半量を加えてしっかりもみ込んでアクを出し、アクは捨てる。しぼった赤紫蘇に残りの塩をすべてふりかける。

赤紫蘇を少しほぐしながら塩をなじませ、手でもみ込む。再びたくさんのアクが出てくるので、しぼり、出てきたアクはまた捨てて、しぼった赤紫蘇は別のボウルに移す。

そこに下漬けして出てきた透明な梅酢1カップ(200ml)を加えてほぐし、梅酢が赤く色づく。

赤紫蘇と梅に馴染ませる

あとは下漬けした保存容器の上に赤紫蘇を広げ入れ、赤く染まった梅酢も戻し入れます。最後に赤紫蘇を箸でほぐし、梅酢と赤紫蘇がよくなじんで色が移るよう、容器全体をやさしく動かしなじませ、再び梅全体が梅酢にしっかり浸かるくらいの重石をのせ、梅雨があけるのを待つ。

土用干し(天日干し)(7月の土用の日界隈)

漬け始めて1ヶ月程度が経った梅雨明け頃に、晴天が4日間続きそうな日を選んで干します。3~4日干すのは大きめの梅(2~3Lサイズ)を想定した日数になります。ザルを用意し、ブロックなど土台の上にザルに乗せ風通しを良くします。できれば梅酢も日光に当ててあげてください。

1日目

ザルに梅を間隔を開けて平らに並べ日光に当て干します。できれば一日に一回梅を裏返す。皮が破れやすいため裏返し作業はやさしく行う。暑い日中に無理に裏返そうとすると皮が破れることがあり、夕方や翌朝でも良い。ザルは夕方になる前に屋内に取り込む。ふっくらと仕上げるため1日目のみ梅酢の入った容器に梅を漬け戻します。

2日目・3日目

日中は1日目と同様に干し、今度は夕方前に取り込まず、そのまま夜も干したままにして夜露にあてる。万一の雨に備えて夜間は屋内か屋根のある場所に移動させる。

4日目

自分の好みの乾燥具合になったところで取り込む。しっとりめが良ければ朝に、乾きめが良ければ夕方に取り込む。

※土用干し中に、天候が雨や曇りになった場合、湿気はカビの原因にもなりますので、外に出さず屋内で保管して晴れた日に続きを再開してください。

※梅干のサイズによって干す日数を調整、小さい梅(小梅)は2~3日ほど、大きい梅は3~4日ほどが目安です。

※梅干の表面に白いもの、カビではないかよく観察し、ほとんどの場合は塩の結晶が固まったものと考えられる。

梅干しの保存

干しあがった梅干は陶器製のカメに保存したが、ガラスや陶器、プラスチックなどの密閉できる保存容器に入れて冷暗所、または冷蔵庫にて保管します。干し上がり後はすぐに食べることもできるが、3ヶ月~半年ほど置き塩味の角がとれて次第にまろやかな味になった頃がおすすめだ。

梅酢の胃腸薬

残った梅酢はペットボトルなどに入れて保管しておき、料理の調味料としても利用できるが、子供のころは、細菌性の腹痛などの時に、おちょこ一杯をそのまま飲み、胃腸薬として課長保存してあった。なぜか不思議に腹痛が治ったものだ。

梅酒つくり

材料
梅(青梅)1 氷砂糖 1 酒 梅のみの20%(ホワイトリカー、アルコール分35%)

作り方
準備
梅の実は流水で洗って、汚れやゴミを洗い流しておきます。梅の実を漬ける瓶はきれいに 洗って、煮沸(殺菌、雑菌が入らぬように)しておきます。

  1. 梅の実は一粒ずつ水気をよく拭き取り、竹串でヘタを取り除きます。
  2. 瓶に1と氷砂糖を交互に入れます。
  3. ホワイトリカーを注ぎます。
  4. 冷蔵庫等の冷暗所に保存します。氷砂糖が全て溶け、お酒が琥珀色に変われば飲み頃です。お好みで炭酸水などで割って飲む。

保存容器に対して、梅の実と氷砂糖を1:1の割合を目安で、 3ヶ月程度で飲み頃になります。漬け込む期間は目安で、時々様子を見ながら、香りや色などお好みの状態でお召し上がりください。梅の実は3~6ヶ月を目安に取り出す。 氷砂糖の代わりに黒糖、三温糖を使うと、コクのある味わいになり、質感も茶色くトロリと仕上がる。 冷暗所で保存する。冷蔵庫での保存がすする。 砂糖が全体に行き渡るように時々混ぜ、 使用する酒は、アルコール分20度以上のもので、かつ、酒税が課税済みのものを使う。

燕(つばめ)

燕は、梅雨時の風物詩であり、人家の屋根やひさしなどの下にに巣をつくり、益鳥として評価をされていたため、巣をつくられた家では幸運を呼び込むとし、大切に扱い、燕用の出入り口を設けている家もあった。巣作りは、親鳥は、泥やワラ、枯れた草を口にくわえて運びこみ、それを粘着性のある唾液で固めて巣をつくっていく。これらの材料は、田んぼや水辺で容易に手に入るものだ。前の年に子育てに使った巣と同じ巣に戻ってきて、そこでまた子育てを行う親鳥もいることから、毎年来てくれることを願い、巣立ちが終わった巣を大事にしている。

燕は細身の黒い色の羽毛に覆われた鳥で、飛ぶ速度も速く、燕返しと言われる方向転換する姿は、他の鳥と違った雰囲気を作り、飛び交っている姿が風物詩とも言われる。

渡り鳥「燕」の性質

東南アジアから海を越えてやってきたツバメは、沖縄を経て、3月ごろ九州に姿を見せ、暖かくなるのにともなって北上し、各地で子育てを行う。滑空するツバメ。最高速度は、時速200kmに達するともいわれる。

巣作り

ツバメは、人家や納屋など、かならず屋根のある人工物に巣をつくります。あえて人のいる場所に巣づくりをするのは、外敵から身を守るためだと考えられています。巣の材料となる枯れた草を咥えるツバメ。田んぼや水辺の泥、ワラ、枯れ草などを巣の材料とする。田んぼや水辺はツバメの餌場としても重要。人家や納屋に巣をつくり、田んぼや水辺が営巣・採餌の大切な場となるなど、人との関わりが非常に強いツバメは新しく巣をつくることもあれば、空いている巣を直して使うこともあります。燕が巣にいる間はフンを下に落とすために、フンを撤去する必要があり、掃除が大変で、新聞紙などを敷き、備えているところもあった。巣立ちまでのせわしない親鳥の姿や成長する子供の姿を見るのも楽しみであった。

子育ては大変な労力

ツバメは5個前後産卵し、卵はおもに雌の親鳥があたため、産卵から孵化まではおよそ2週間です。孵化から巣立ちまでは3週間ほど、ひなはたくさんの餌を食べてどんどん大きくなります。ひなが大きく口を開けて餌をねだる「餌乞い(えごい)」。お腹がいっぱいになったひなは餌乞いを行わなくなって後ろに下がり、お腹がすいているひなは前に出てくるので、偏りなく餌を与えることができるツバメの餌はウンカやハエ、ガ、アブなどの小さな虫です。ひなは1日あたり1羽で100匹以上の虫を食べているという報告もある。給餌は雌雄の親鳥が協力して行っているが、親鳥は大変だ。子育てが終わると、巣立ったひな鳥と子育てを終えた親鳥は、巣を離れて集団となって過ごします。その規模は数千羽から数万羽。水辺のヨシ原などにねぐらをつくり、たくさんの餌を食べて渡りに備えると言われ、巣立ちしたひな鳥たち。巣立ち後もしばらくは巣の近くにいて、親鳥は餌を与え続ける。だんだんと飛べる距離も伸び、自分で餌をとる力もついてくると、巣から旅立っていくそして、秋が近づき、9月~10月になると、ツバメたちは日本を離れ、九州、沖縄を経て海を越え、南方へと渡っていきます。そこで冬を過ごし、次の春、再び日本にやってくる渡り鳥。

梅雨の合間の虹

梅雨の合間に太陽が出、その光を受け虹が出ることがあった。鬱陶しい梅雨空に虹がかかるのは、一時を癒してくれ、気分を晴らしてくれた。

夏越しの大祓

六月三十日は、半年が過ぎる節目の日である。新たな日々を迎えるための物忌みの日とされ、罪や穢れを除き去る「大祓」が行われる日である。旧暦の六月三十日は現在の暦の七月下旬から八月上旬にあたり、夏の暑い盛りが過ぎ、秋を迎える日に当たり、「夏越の祓」とも言われる。

茅の輪

近所の神社で茅(ちがや)で作った輪をくぐることで「大祓い」をする習慣がある。夏越の大祓いは「備後の国風土記」によると、旅に出た素戔鳴尊(すさのおのみこと・天照大神の弟)が宿を求めたところ、貧しいながらも蘇民将来という人物は宿を供し心から歓待した。旅を経て再訪した時に、かつて受けた心づくしの御礼に、茅の輪を渡し、「もしも疫病が流行したら、この茅の輪を腰につけておけば疫病を逃れる」と教え、蘇民将来の娘が教えられたとおりにしたところ、大疫から救われた。この伝承が広く流布し、今の茅の輪くぐりになっていると言われている。

茅の輪のくぐり方は、右回り、左回りと八の字を描くように回るとよいとされている。

祓いの霊力

神社で行われる「お祓い」は「水・火・塩・幣」によって行われるが最も霊力が強いとされるのが水で有る。

三鷹の田植え

三鷹市にも昭和30年代には、大沢、牟礼、北野、新川には田圃があった。三鷹市、武蔵野市、小金井市などが水道用の深井戸を掘ったために、井の頭、神田川沿い、牟礼、北野の湧水地から地下水が湧き出すことができなくなってしまった。また、玉川上水からの取水ができなくなり、用水が機能しなくなってしまったことが原因で、田圃、コメ作りが衰退した。三鷹の田の水温は低く、コメ作りには決して良い環境ではなかった。そのために、低水温でも生育が良好な品種改良をした農家があった。牟礼田圃で研究、開発された稲は、「梅沢早生」といわれ、研究農家が現存している。

 

水田の開発・宅地化

玉川上水からの取水、地下水の深井戸によるくみ上げなどにより水田が機能しなくなると、水を抜き、または埋め立てられ、都営住宅、公団住宅、建売住宅、公共施設、住宅用宅地などに活用する開発が行われた。

農地の減少

昨今では、東京、新宿などの都市圏に隣接する都市として、土地の価値が上昇に伴い、固定資産税の高額化、相続税の高額化による納税資金の確保を余儀なくされ、宅地化が進んでおり、環境面から緑、都市空間、防災空間などの確保が求められていることから、農地のあることがまちづくりに欠かせないものとなり、都市の中にある農地、維持するための農業が重要視され、「都市農業」が法(2015年4月22日に都市農業振興基本法が成立)により位置付けられた。

三鷹の稲栽培

三鷹の稲作は、4月に畑に苗床をつくり播種を行い、肥培管理を行い、6月初めに、10~15センチに育った苗を、掘り取り、一本ごとになるように根の土を落として、一握り程度の束になるよう藁で束ねたものを苗とした。

畝間15センチ、株間15センチ程度に、1~3本の苗を植え付けた。なえが活着をすると生育が始まり、気温の上昇に合わせて株が充実し、7月末の温度が高温になると分傑を敷く気が立ち上がり、出穂の準備が始まる。この間の温度が低温になると、分けつや出穂に影響し終了に大きくかかわることとなる。三鷹の水田は大方湧水を利用するため、梅雨期による日照時間の不足により、水温が上昇しないことも多く、収量は上がらず、10アール当たり6俵が良いところであった。また取水後米の花が咲く時期に低温であり、長雨が続くと授粉率が落ち、出穂しても実がつかない白穂が発生することもあった。持ち米はさらに少なく、10アール当たり4~5俵程度であった。

青竹

孟宗竹は3月中旬から、真竹は5,6月に旬を迎える。三月に生えた竹は、四月五月に成長し、六月には節から枝が生じ葉を広げ若い竹となる。1年経過したものを一年子といわれ、竹細工や利用には水分が多く、やわらかく、2~3年の充実したものを活用した。タケは、丸のままで、柱や竿、桟木として、割り裂いては、かごなど、かご屋さんでの加工に、農業では農業用資材として活用した。

たけのこは、市場出荷、自家利用など季節ものとして食用に利用した。

早掘り筍

二月の半ば過ぎに、市場の仲買が農家を回り、まだ土の中から出てこないタケノコを買い付けに来た。季節の前取り、成長先の皮も刺身として、てんぷらとして、食べられることから、高級料亭で使用する高級食材として高値で引き取っていった。タケは常に一定のところだけでなく、外に外に広がろうと、地下茎を伸ばしてゆく、それを狙って掘るのだが、どこにあるのか探すのにはコツがあり、新しく地下茎を伸ばすときは、地表近くに地下茎が伸びるため、スコップで一定の深さで探りを入れ探し、元のほうから引き上げ地下茎もろともに掘り出した。超早掘りのタケノコは、10センチ程度のものが好まれた。

大麦と小麦

麦巻きの準備

大麦と小麦は10月初めに播種する。播種前には家族全員がふろを使った後に温度を調節し、種もみを湯に朝まで浸した後水を切り播種を行った。残り湯の温度が種もみの発芽を促し、しっかりと水分を吸収させる役割があったものと考える。発芽して水分を吸い上げるための根がしっかり伸びていることが大変大事で、土の中の温かい水分を吸い上げ、凍結や寒さから自らの体を守る為に、霜柱が立ち土から抜かれてしまわないように守るためにしっかりと根を伸長させなくてはならない。そのために播種時期を間違えると、発芽が遅くなったり、霜により持ちあげられる被害が起きた。

麦踏み

年を越した寒に入るころから、発芽した苗の、霜柱、凍結の被害を抑えるために、「麦踏み」が行われ、子供たちの仕事となった。子どもたちは、遊び半分に行い、競争をしたりすると飛び飛びに靴の跡が付くように、しっかりと麦踏みが行われず、いい加減さが親に解ってしまい、やり直すこととなってしまう。また運動靴で作業を行うため土が靴の中に入ってしまう。靴下も足も靴の中も泥だらけとなり、また叱られることとなった。

3月頃になると、寒い冬を越えてきた一本の苗が分けつ(茎が根の近くから枝分かれすること)をはじめ、4月には腰を切り分偈した芽や茎がまっすぐ上を向いてすくすくと伸びてくる。5月には、麦の穂が膨らみ始め、出穂する。6月には麦秋を迎え、麦刈、脱穀、麦乾しと作業が続く。

麦の畝間の活用

麦の畝間は、うどの苗、里芋や八つ頭の種イモ、スイカやピーマンの苗等を植えるなどの活用するものによって変えられていた。麦の畝間を活用することは、作業性が悪くなるが、畑を効率よく活用する方法の一つとなり、風邪から作物を守ることや、空気が動きにくいことから病気の繁殖を防ぐ効果が期待されていた。麦の収穫はもとよりだが、他の意義で作付けされたものは青刈り(実を収穫せずに刈り取る)され、敷き藁として活用されることもあった。

麦刈り・ボッチ積み

麦刈の順番は大麦は梅雨の前に、小麦は梅雨の晴れ間にと言われた。

6月の梅雨のながい雨が続く事や、田の農作業と重なり、作業が遅れてしまうと、湿気を吸って穂から発芽してしまったり、刈り取った後、ぼっち(麦の穂を上にして積み込む方法)に長く積み置くと発芽してしまう事もあって、天気が気になる毎日であった。発芽してしまったものは味、収量も落ちる。

ぼうち(棒打ち・脱穀)

脱穀 ぼうち(先がくるくる回る、くるり棒と言う道具で麦の穂をたたき、籾を落とす脱穀を行った名称の名残)、脱穀機は戦後に購入したと聞いている。その前は、棒打ち、千波子機などを使用していたとも聞いているが、脱穀機は高価なものであったので、近所の農家と共同で購入し、順番を決めて使用したそうだが、作付けの多い農家が優先し、時間的にも天気の状況により、自由度がない、思う日にちに使えないなどの不満があったとも聞く。そのためにその後は個人所有として、各農家が購入し、使用することとなった。

脱穀機は、1馬力のモーター(どこかで中古品を買い求めた。)を動力とし、長いベルトで繋げられ動力をドラム(脱粒させるための爪めが付いたドラム状のもの、回転させることで脱粒を行った。)につながり機会を駆動させた。ベルトは長く、輪になっておりつなぎの部分は金属でつながっていたために、「ぺった、ぺった}と音をさせて回転した。脱穀機の投入口から、一株ごとに、籾を先に入れ、籾が落ちるとわらはかたづけられ、籾は扇風機により選別され、充実した美濃は言った籾は、網より下に落ち、のげや葉は機械の先から噴出される仕組みであった。父は、脱穀役で子供は機械の下にたまった籾を箕に掻き出し、貯蔵場まで運び、前に吐き出された藁ごみを熊手で書き、置き場所へと運んだ。吐き出される麦ごみは、土もろともに吐き出され、子供はその埃にかまわず、風を受けるのがおかしくて、はしゃぎ遊ぶ、早速、父から叱られるのが常であった。

籾の選別と唐箕

脱穀された籾は、唐箕といわれる選別機(内蔵する四枚羽の板がハンドルと連動して回転するようになっており、唐箕の上部に配した漏斗(じょうご)から少しずつ穀物を落下させ、そこに横から風を送ることで、藁屑や実のない籾などの軽いものを吹き飛ばし実の詰まった重い穀粒だけを手前に落とすのが基本的な原理である。) にかけさらに選別を行った。

脱穀の日の昼食、おやつ、やきもち、すいとん

脱穀は梅雨の合間に家族全員で行う仕事であり、お茶を飲む時の菓子や昼飯のおかずが普段と違い、大変楽しみであった。

菓子は、前日の残った麦飯にうどん粉をつなぎとして団子を作り、焼きあげて、砂糖で甘く味付けられた甘辛醤油を付けて食べるやきもち、ほうろく鍋を使い、うどん粉に卵を混ぜ、重層でふっくらと焼きあげ、砂糖を付けて食べるパン(やきもち)などであった。この時期は、朝炊いた麦飯が昼過ぎには糸を引いて饐(糸を引き腐り、酸っぱくなる)えてきた。それを水で洗い、作るものがやきもちである。

昼飯は、麦飯に煮干しで出汁をとり、ざく切りしたネギの入った醤油味の水とんであった。水とんの団子はうどん粉を水で溶き、スプーンで汁の中に落としただけのもので、固練りを好んだが、硬すぎると心にうどん粉のだまができる。芯までしっかりとゆだるようにするには熱湯で粉を練るのがコツで有った。団子は湯がくことをしないために汁にとろみが付き、そのとろみを味わった。

動力による脱穀

動力による脱穀が行われるようになっても、「棒打ち、ボーチ」の名称は残った。脱穀は、長いベルトの先に1馬力の真っ黒な電機モーターを動力源とした、「千代田式脱穀記」と名がついた脱穀機で行われた。ベルトは決められたように等間隔の間をおいて「ペッタ、ペッタ」と心地よく音を立てて脱穀機に動力を伝え、回転させていた。音はベルトを輪につなぐ金具がプーリーを通過するたびに発するものであった。脱穀機のプーリーとモーターのプーリーが平行にならないと外れてしまう、荷重がかかると固定しているものがずれを生じてしまう事から、常に観察していなければならず、その調節が必要となった。

脱穀機は口から麦の穂を入れると金具の突起が付いたドラムが回転し、麦の穂から籾を落とし、籾の先に付いたノゲを落とすもので、格子の下の回転翼から来る風によって、格子の下に思い籾を落とし、不要な土、ノゲ、茎、葉などを機会の中から外へ吹き出す方法であった。子供は、機誡の横に、作業がしやすくなるように麦の束を運び、吹き出されるごみの前で、熊手を使い運び出し、たまった籾を箕を使い他のところに運び貯蔵することが仕事であった。子供たちは、作業の手伝いや、周りを駆け回り、危険な機械の近くで大はしゃぎをするもので、機械の音で声は聞こえないことも多く、幾度となく父や母は、げんこつをくれる事や棒でたたくのが仕事でもあった。

アイスキャンデー売り

この季節にはよく小さなリヤカーに保冷庫を積んで、「ちリン、ちリン」と鐘を鳴らして、アイスキャンデー売りが回ってきた。普段は「腹を壊すから駄目だ。」「あのおじさんはおしっこをした後に手を洗ってなかったから駄目だ。」などと言って買ってくれることはないのだが、脱穀の日には、何とか拝み倒して買ってもらう事が出来た。私は元来腹が丈夫でなかったことから、食べると早速腹の調子がおかしくなり、腹痛を起こすことになった。原因は、キャンディー売りの不衛生から来るものなのか、食べ慣れない冷たい氷を食べたためなのか、明確ではない。

籾の天日干し

脱穀を終わった籾は、唐箕(細かいごみと籾を選別する機械)を使い籾だけに選別し、籾は、まだ活動をしており、積み込むと蒸れて発熱し、品質を悪化させるため、乾燥させ活動を止め、休眠状態にするために、籾をむしろに広げ乾燥させる(麦乾し)を1週間程度行った。麦乾しは、庭一杯に蓆を広げ、その上に麦を広げ乾燥させた。夕方には、籾をむしろ1枚1枚に寄せて、仕舞い込み、朝になると出して広げる作業を子どもたちが行った。雨が降り出すと大変で、急いで家に帰り仕舞い込む作業を大急ぎで行った。

乾燥が終わると、袋や俵に詰められて貯蔵した。

俵詰め、俵締め

麦籾は、俵は、陸稲の藁ではできないので、米屋にお願いをし、米俵を分けてもらった。そこにあたる部分を丸いサンダワラでふさぎ、麦籾は60キログラムを俵に詰め、小麦は4斗を詰、上蓋にあたるサンダワラで蓋をし、まず、真ん中を締め、上下の端を締め、中と端の真ん中を締めて、5本で締め、形を整えた。

水車に精麦依頼、うどん粉製粉依頼

必要に応じて、水車に持っていき、粉や、押し麦、引き割を作ってもらって、粉は饅頭やうどんを作り、押し麦や引き割は麦飯として食べた。お盆には、新しく取れた小麦を引いてもらい、新粉のまんじゅうをつくり、うどんを客や家族で味わい、出来の良さを確認し、「今年の粉はうまいな。」度と話がはずうことであった。

農家の庭・ハンミョウ釣り

農家の庭は脱穀や麦乾し、小豆、大豆、ゴマ、落花生などの他の雑穀類の脱穀、乾燥などの作業の為、苗床を作る敷地として活用するために広く平らに作られていた。毎日、竹箒で掃き清めるのが子供たちの朝の仕事とされた。秋から冬には落ち葉が多く、その落ち葉を掃きためては1ヶ所に積み込み、堆肥を作る材料ともなった。また、小学生のころには、広い庭で、小さなゴムまりを使った、三角ベースが行われ、友達がたくさん集まる良い遊び場ともなった。また、ハンミョウ幼虫が小さな穴をたくさんあけることから、ハンミョウ釣りを行うなど昆虫観察や遊びの場ともなった。

斑猫釣り(はんみょう)

庭に沢山の2-3ミリメートルの穴ができる。この穴は、斑猫の幼虫が生育する穴で、幼虫は穴から顔を出し、虫などを顎でくわえ穴に引きずり込み餌として食し成長する。ミミズや、ありんこ、青虫などを穴に近づけると顔を出し穴に引きずり込むのを観察した。しかし、穴の総数と、昆虫などが捕まる確率はいかがなものかと考えさせられたが、いまだ解決していない。斑猫釣りは、穴に。ニラや伸びるなどの茎を入れると邪魔になり、外に出そうと持ち上げる。入れた茎を引き上げると一緒に、異物をくわえているので、幼虫が吊り上がることとなる。又元の穴に戻しておくこととして、遊びとして楽しむ。 8月ごろになると、羽化し、成虫になると穴から出てくる。

逃げ水と斑猫

緑色に橙色の斑点があり、光沢がある。馳被くと必ず、前の方向に「チキ、チキ、チキ、チキ」と音を出して、案内でもするかのように前に飛ぶので追いかけて遊ぶ。また暑い日の、野道がひび割れるような日に、逃げ水を見ることができるがその陽炎の中を飛ぶ斑猫は、輝き、不思議な世界を作り出す。

半夏生

「半夏」は「烏柄杓」の漢名でこの時期に生える。

この日は田植えを終える大切な日節目の日、1年のちょうど半分過ぎる日に当たる。夏至から11日目に当たる新暦7月2日頃から5日間で田植えは半夏生までに終わらすとされてきた。田の神に感謝をし豊作を祈る行事や、農作業を控える物忌みの日とされ、厳しい田植えの作業で疲れた体を休め癒す日とされ、畑作においても農作業を控える日がもうけられた。

半夏生 サトイモ科 烏柄杓 仏炎苞の先が細長く伸びて、柄杓の柄のように見える事から由来する名である。漢方では球茎を「半夏」と呼び吐き気止めの薬とする。細長い茎に3枚の小葉を有し根元にムカゴを付け繁殖する。繁殖力の強い、畑の雑草である。

「半夏生」は同時期に同様な名前の植物があり、花の咲く時期になると、葉の半分が白くなり、真っ白になる。

 

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