我が家のクリスマス・落ち葉集め・甘がき「禅寺丸柿」

我が家のクリスマス・落ち葉集め
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我が家のクリスマス・落ち葉集め・甘がき「禅寺丸柿」

このページは我が家のクリスマス・落ち葉集めを載せています。

我が家のクリスマス

12月になると冬の仕事で最も大切な、重労働でもある「葛はき(落ち葉集め)」がある。我が家では大正年間から、私に至る3代にわたって行われてきた。古くは山田別荘とも言われた、現在は泰山荘と言う。このいわれや歴史については、キリスト教大学がしっかりとした調査を行い、記録が残されていると聞く。私が子供の頃、6歳ころから父の手伝いを行ってきた。当時は、大きな茅葺屋根の、各地の城を解体した古材や、流木を使用した山門がある。その手前に江戸城の石垣の石を活用した庭石があり、そのほか、本宅前の庭園などにも活用されている。

野菜栽培を行うについては、何よりも大切なことは、土づくりである。土(土壌)の潜在的な力である地力を向上させることが、作物の収量を上げることにつながります。そのためには、土壌改良効果が大きく、分解されるまで長い時間がかかる、木質系の堆肥を常に施肥することを心掛ける必要があります。秋野菜を作付けする前に、木質系堆肥を2トン/10a、普通堆肥を2トン/10aを散布、鋤きこむ予定でしたが、堆肥の仕上がりが遅れているために断念します。土壌中にいる、センチュウ、ヨトウ虫、カミキリムシの幼虫などを殺虫するために、スギナの防除のために、石灰窒素200キログラム/10a、苦土やリン酸を多く含み、微量要素を含む熔成リン酸を100キログラム/10aを散布し、耕運を行う。

葛はき(落ち葉集め)

甘がき「禅寺丸柿」

我が家の初代が分家をして現在地に居を構えたのは、大正12年で、父親が12才であったと聞いている。当時の物が残っているのは、茅葺屋根を風から守る防風林の現在の家の前に残る樫の木が2本と野式の南西の角に残る野梅の古木とがある。また、「禅寺丸柿」が2本ある。

防風林は家の北側に「樫の木」が3間おきに植えられていたが、母屋を建て替え新築するときに伐採してしまったが、現在はその切り株から新芽が出、成長したものである。西側にもかつては植えられていたが、道路の拡幅の祭に伐採した。家の前には3本植えられていたが、枝卸を繰り返していたために、神が枯れ強風により倒伏が心配されたために伐採した。残り2本も危険が予測できるのでいずれは切り倒す日が来るものと考えている。屋敷の西北に1本残してあるものは、我が家の「御神木」として残してある。防風林として使用しているころは、生育に任せていたが、現在では玉散らし状にせん定をしている。選定するときは、ハサミやのこぎりを使わずに折り取れと言う。のこぎりやハサミを使用するとそこから枯れていくと言われ、爺様から教わった技術の一つである。

現存する防風林の名残の樫の木

梅の古木は、屋敷の南西角に植えられているが、家を移す前からあったものと聞いている。新しい種類の梅を植えるようになってからは「花粉樹」としての起こしてきた万尾である。現在は半身だけが生きており、梅の実は収穫が少ない。ご近所に迷惑とならぬように、庭の畑に日が良く当たるように枝を切り詰めるために、横に伸びた枝が少ないためである。

禅寺丸柿の1本は、戦後に自然に発芽し生育したものと聞いている。分家した当時からある「禅寺丸柿」は大正12年に家を移築した時と同時期に移植したものと聞く。気を見てみると、接ぎ木をした跡が残っており、選別をされた木であることがわかる。ある程度の太さがあったと聞いているが私が子供のころに30年以上たっていると、学生時代に父が70年は立っていると言っていたことを記憶している。現在では100年を超す古木である。

一時期は相当な面積を占めるほどに自由に伸ばしていたが、物置を建て替える時に、枝を切り詰めてしまった。

そのために立枝ばかりで実はならず、綯っても渋が抜けない実ばかりであった。

子どもの頃には、下記の花をままごとの食べ物として楽しく遊ぶ材料であった。気に上ることができるようになると、下記の実をとり、太い枝に腰をかけて、まだ田園地帯であった風景を見ながら食べることが楽しみの一つであった。

柿木はほかに渋柿の「つるっこ(鶴の子)」が植えられていた。この支部カキは、若い青い実から渋を取り、傘や渋かっぱの表面に渋を塗るために植えられた。実は下部を収獲し出荷するころが食べごろで、実は結構大きく、熟すと赤色になり柔らかく、西日が当たると透けてゼリー状になり、甘くなる。長い竹竿で落とさぬように捥ぎ取ることが困難を極めた。下に落下すると、潰れて地に張り付いてしまう。家を新築した後、家に近いため不用心であることから切り倒してしまった。懐かしさで今ではその木を見つけている。何時の日か、手に入れ植えて、今一度味を楽しみたい。

「禅寺丸柿」の由来はどのようなものかと気にかけていたところ知る機会が訪れた。  

星宿山華厳院王禅寺に由来し、寺伝によると延喜17(917)年に高野山三世無空上人が、醍醐天皇から「王の命じた仏教を修行するに適した場所」という意味の「王禅寺」の次号を賜り、延喜21(921)年開山。関東の高野山と云われ、東国鎮護の勅願時となった。その後健保2(1214)年、伽藍が焼失し、東海上人が用材を探しに裏山に入ると、真っ赤に熟したカキを発見し、食べてみると甘くおいしかったので持ち帰り、境内に移植した。それを原木として、村人や近隣の農家に栽培を広めた。真言宗寺院・王禅寺の木を原木とし、日本最古の甘ガキといわれる。王禅寺の原木は、樹齢450年と云われ、2007年(平成19年)7月26日に国の登録記念物に登録されている。

江戸時代の知氏「身辺武蔵野風土記公」には「カキ・禅寺丸と称して、王禅寺村より出るものを尤も良しとす。今はここも限らず、押しなべて此の辺を産とす。村民江戸へ運びて余業とせり。その実の味は優れて美なり…」と記されていると言う。江戸時代は水菓子として人気があったと言われる。

江戸時代から多摩川両岸や武蔵野地域の農村地帯に栽培が広がり、明治・大正の頃まで主要品種として盛んに栽培された。やがて主要品種の座を降り、富有柿の受粉樹として利用されるようになったと言われる。

また、現在の「柿生」の地名は、明治22(1889)年の町村制施行で王禅寺と周辺の十ヶ村が統合され「柿生村」と名付けたことが由来する。

三鷹市内の農家の屋敷内には必ず植えられており、我が家でも、富有柿・次郎柿の花粉樹としても活用し柿の出荷を行ったことを覚えている。

近くの調布市北町、佐須町(推定の樹齢約380年とされ、カキノキの古木としては大きいものの1つ、木を保護し、1964年(昭和39年)4月28日に、東京都の天然記念物に指定された)にも古木が残っている。

屋敷内には、多くの梅の木や柿木が植えられその実を市場出荷していたことがある。名残のカキの木の一本である。父は調布の多摩川の先の農家から、次郎柿、富有柿の枝を頂き、接ぎ木をして増やし栽培をした。種類は次郎柿である。

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