歳時記(3月の行事・農作業)

3月写真

3月(弥生 やよい )

このページは、歳時記(3月の行事・農作業)をテーマに記載しています。

目次

行事一覧

3日 ひな祭り

上巳の節句(じょうしのせっく)

上巳は同じ陽の数(奇数)が重なる3月3日と定められた。桃の節句にひな人形を飾るお祭りで、女の子の成長を祝う祭りだ。

5日 七十二候 啓蟄

啓蟄

二十四(節)気の一つ、陽暦3月6日ごろ。3月になり、日差しが徐々に暖かくなり、気温や地温が上がると、春の気配を感じた冬ごもりの虫(蟄虫)が地中から這い出てくることを意味する節気。冬の寒さに耐えていた動植物が春の到来を感じて活動し始め、動物や昆虫が地中での活動が始まり外に出てくる。また草花や木々の芽が膨らみ始めるころとなる。

この頃になると、土を剥いでみると球根や、宿根草などの植物は、しっかりと根を張り、地下水を吸い上げ、いつでも目を出すことができるように、土の中で、しっかりとした芽が大きく育っている。

5~9日 初候 蟄虫啓戸 (すごもりのむしとをひらく)

「蟄虫」は冬ごもりをしている虫、蛇やカエルなどを含む小さな生き物が陽気に誘われ顔を出すさま。

10~14日 次候 桃初笑 (ももはじめてさく)

桃が咲き始める時期、花が咲くことも「笑う」といった。

15~19日 末候 菜虫化蝶 (なむしちょうとなる)

青虫が羽化してモンシロチョウになる時期

17日 彼岸の入り(彼岸17日から23日まで、なか日を中日という)

この時期に先祖の霊が家に帰ってくるとされ、仏壇に花を飾り、食事の膳をお供えしお迎えをする。牡丹餅、饅頭、うどん、などの御馳走を作りお供えし、線香をともし供養を行う。7日目お帰りの日には、新粉でお別れ団子を作り、7つお供えをし、家族そろって、お寺へ詣で、お墓参りをする。

彼岸の最中には親類の者が先祖供養のために、行き来する。兄弟や親類の者が集まり、情報交換や世間話に花を咲かせ、にぎやかな日々を過ごす。

17日 墓掃除

墓所の掃除、草取り、墓石の掃除などを行う。(宍戸家では毎年回り順により登板が決まり、除草剤の散布を前もって行い、朝7時より揃って墓掃除を行ってきたが、生活様式が変化し、全員揃うことが難しくなった。)
日頃の仏、ご先祖への不義理に、菩提寺の彼岸会の法要に添い、卒塔婆を菩提寺にお願いし、墓参りの時に墓に備える家も多い。

18日 彼岸の入り、墓参り

18日~24日 春の彼岸

春分の日を中日とする一週間が春の彼岸である。仏教の目標とする、悟り、成仏を目指すべき理想の彼の岸に例える。煩悩に覆われた子の岸から彼の岸を望み見る機会がお彼岸である。彼岸は「川のむくぎし」を意味する仏教用語で、生死を超越できない人間界・此岸に対し、解脱して悟りを開いた涅槃の境地のことを言う。
仏教では、西に阿弥陀仏の極楽浄土があるとし、太陽が真東から真西に沈む日に、落日を通して極楽浄土と交わることができると考えたことから由来する。
日頃の生活を顧み、先祖の功績に感謝を行う日でもあり、先祖供養のために墓参りを行う。

20日 春分・彼岸中日

「春分の日」は国民の祝日で、日本の祝日法に「自然をたたえ、生物をいつくしむ日」と定められている。太陽が真東から上り、真西に沈み、昼と夜の長さがほぼ同じとなる。「暑さ寒さも彼岸まで」と言葉にある様に本格的に暖かくなる。

20日 七十二候

春分最近では見かけることが少なくなっているが、稲や麦を啄むことから農家にとっては嫌われるが、子育てをする、春から夏にかけて、害虫を食べてくれる雀が、巣をつくり始める季節。

20~24日 初候 雀始巣 (すずめはじめてすくう)

雀が軒先や隙間にに巣を作り出す季節

21日 彼岸の中日

ご近所や親類の彼岸参りを行う。新しい仏さんが発生したお宅は、卒塔婆を用意し、ご近所の者がお参りに伺う。また親類が集まり供養のための菩提寺のお経をお願いし、墓参りを行ってきた。

24日 彼岸の明け

彼岸には、ぼた餅、まんじゅう、五目飯を作り、仏壇にお供えをし、仏のご加護と先祖のご加護に感謝し、供養を行い、接客用の御馳走とし、自家用の食事とした。
彼岸の明けには、お土産ダンゴと称して、15個の米粉で作っただんごを仏壇にお供えする。

25~29日 次候 桜始開 (さくらはじめてひらく)

桜が花開く時期となり、「花冷え」「花曇り」「桜雨」「花嵐」「花筏」など、さくらに関わる季節の言葉も多い時期。

30~4月4日 末候 雷乃発生 (かみなりすなわちこえをはっする)

雷が鳴り始める季節 初めての雷を「初雷」「春雷」ともいわれる。

暮らしの記憶

雛祭り

今年に3月3日のひな祭りは議会中のために準備が十分に行うことができなかった。

深大寺の厄除元三大師大祭(やくよけがんざんだいしたいさい)毎年3月3日~4日に行われ、深大寺だるま市(日本三大だるま市の一つ)として知られ、寺最大の行事であり、300店程の店が軒を並べて10万人前後の人々が訪れると言われているが、コロナカ禍の開催となって、高崎などからくる達磨販売業者も少なく、人でも激減した。達磨の目入れは江戸中期、300年前から存在すると言われる。

願掛けの際に梵字で「ア」、願いが叶ったら「ウン」の字を入れる。今年は議会開催中の為3月4日のお参りとなった。例年ではお練り行列や元三大師御影供(がんざんだいしみえく)がとり行われるところであるが、今年も昨年に引き続き、コロナ禍の中であることから、お練り行列は中止となった。深大寺本堂の中を通り、壁画を鑑賞し太子堂に入り、読経を頂きお参り、お参りを済ませた。

上巳の節句(上司の節句)

お雛様

上司は同じ日の数(奇数)が重なる3月3日と定められた。桃の節句に雛人形を飾るお祭りで、女の子の成長を祝う祭りだ。中国から伝わり、旧暦3月の最初の実の日を上巳と言い、身を浄め、酒を飲み、邪気を払う風習の「上巳の祓」(じょうしのはらえ)と日本の平安時代から行われている、厄を人形に移して祓う風習の「曲水の宴」(ごくすいのえん)と貴族の女子が人形で遊ぶ「雛あそび」(ひいなあそび)が結びついたもので、室町時代から行われ、雛を飾る風習が庶民の間で行われるようになったのは江戸時代と言われ、五節句に数えられるようになり、ひな人形や飾りは次第に手の込んだものとなったと言われている。

段雛飾りと桃の花

桃の花

桃の花が雛壇に飾られるのは、桃が沢山の実を付ける事から強い生命力の象徴と言われ、その香りには厄除けの力があるとされてきた。日本でも古くから魔除けの持つ木とされ、「古事記」には「伊弉諾尊」(いざなみのみこと)が黄泉の国から逃げ帰った際、桃の実を投げて黄泉軍(よもついくさ)を撃退したとの記述がある。

雛壇には、赤い毛氈を敷き、一段目に内裏雛(関東では左側に男雛、右側に女雛、間に桃の花一対、雪洞)、二段目に三人官女(内裏雛につかえる宮廷女官)、三段目に五人囃(能を奏でる楽団、左より太鼓、大鼓、小鼓、笛、謡)、四段目に随身(警護の武官、左に右大臣、右に左大臣、間に対の膳、菱餅)五段目に仕丁(外出時の従者左より台傘、沓台、立傘、左に橘、右に桜、6,7段目に雛道具を飾る。

立春ころから2月中旬までに親子一緒に楽しく飾り付け、3月3日の節句が終わったらできるだけ早く片付ける。「しまい遅れるとお嫁に行くのが遅くなる」と言われる。迷信に近く、片付けをきちんとできる子に子供に、良いお嫁さんになるようにとの願いであると言われている。人形の保存のためには、衣服の糊がふやけ剥がれぬように、高温多湿の場所は避け、色の退職、変色を防ぐため、直射日光が当たる場所を避ける必要がある。

桃の花は開花時期がずれる事から、2月中ごろに切り取り、ふろ場や苗床で加温し、開花を速めて、雛祭りに開花するように工夫を行う。

桃の花の春化処理

雛善と料理

雛壇の前に膳を出し、三色の餅の入った雑煮、蛤の吸い物(汚れた海には住まないことから純潔の意味し、2枚の貝殻がピタリと合い、夫婦和合の象徴)、春の素材をふんだんに使った、ちらし寿司(酢飯に、桃色の桜でんぶ、黄色の錦糸卵、ほぐした鮭の身、筑紫、牛蒡の煮もの、人参、菜の花などを混ぜる。)を並べ、華やいで祝い、下げて家族で楽しい時を過ごした。

深大寺だるま市

だるま市

深大寺のだるま市の歴史については、病や穢れを祓うとされている。深く探求したことがない。深大寺山門から寺の中に入ると、参道の両側に所狭しと大小様々なだるまを陳列する業者が並び、さらに境内いっぱいに店を開いている。売り子は大きな声で客を呼び込み、客は何とか値切って買おうと、掛け合いが行われている。達磨を買う事や楽しみはお参りが終わってのことと前に進む。

深大寺御本堂参拝

正面に線香の煙がもうもうとたっている上屋がかかった線香を焚く大きな香炉、常香楼がある。小銭を賽銭箱に入れ、一本の線香をとり炉にそっと入れ、このけむりを自分の身にたぐりよせて、病を持つところに漂わせて平癒を願い、穢れを払い清めることとしている。正面に大きな本堂があり、手を合わせて日ごろの御加護に感謝し、家内安全や商売繁盛などを祈り、誓うことにしている。

お大師様参拝

次に左に折れ、だるまを売る業者と客の間を進み、元三大師をお祭りしている大きな建物元三大師堂では諸願成就の大護摩供養が終日厳修され、焚かれるゴマの為に堂内は真っ黒で、蝋燭が灯されているがなお暗く、焚かれる護摩の炎が、艶めかしく感じる。

賓頭廬尊者へ縋る

お大師様お参りを済ませ、外に安置された木彫りの賓頭廬尊者(びんずるそんじゃ)はインドの僧侶で医学的にも大変すぐれたお力を持っているといわれ、大勢の病人を救ったところから悪いところをなでると「病気平癒」の霊験があると古くから言われています。毎日たくさんの人になでられて、表面はつるつるに磨かれ、ひかっており、参拝客には「おびんずるさん」と呼び、自分の病の場所を「なでなでなで」擦り、同じ場所を「なでなでなで」すると「病気が治る」と言われ、親しまれている。仏像をさすり、健康を願いお参りを済ます。

だるまの購入

やっとだるまを買うことになる。だるまを買い求める人は毎年同じ場所で買い求めるのが普通である。

だるまは、よく見ると産地は同じでも、顔の形に、端正な、苦シャットしているなど、また、髭の書き方に特徴があり、縁起を担いだり、好みの違いにより買う場所を決めている。売り子の口上や姿にも特徴があり、赤い衣服に赤い鉢巻そこに1万円札をたくさん挟んだ売り子などが居り、自分の売り場に呼び込んでいる。そこでは、祈願の文言「家内安全」「病気平癒」「商売繁盛」などの文字を金字でだるまの裏に書いくれるよう依頼すると、後ろや奥に座った年寄りが見事な文字で書いてくれる。代金は交渉により決まる。買い手は毎年買っていることを告げ、値引きをし、また、小さなだるまをサービスでもらえるように交渉する。買い手はまけてくれた分だけは、希和物であることから、ご祝儀として置いてゆくことが多い。また、だるまの目を入れるのにもそれぞれの家で特徴があり、近所のある家は、買うとすぐに両眼を入れる家がある、その理由は、たまたま、間違えてどちらの目を先に入れるのかがはっきりせずに両眼を入れてしまった年があり、その年が、近年にない大豊作で有ったことからそれ以来手に入れるとすぐに両眼を入れることにしているという。

ピンクのマリと黒財布 おもちゃを強請る

だるまを買った後は、親の手を引き、おもちゃをねだるのが習慣だった。いくつの時であったか、おもちゃ売り場で、姉がピンクのゴム毬を抱えて、これがほしいと駄々をこね、困惑した父はそれを買い求め「おまえは何がほしい」と言い、私はなぜか、これだと言い、お金など持ったことの無いのに、いくつも口のある、黒いビニールでできた財布を買ってもらった。嬉しくて、近所の兄さんに見せに行ったら、1円札を1枚入れてくれた思い出は鮮明に覚えており、いい加減大きく成長するまで大事に持っていたが、いつの間にか行方知らずとなった。

麩菓子の「さくらんぼう」、ピンクの爆弾あられの「達磨オコシ」

それがすむと最後に、父は、外側に黒砂糖を塗り、桜の木の肌のように加工した「さくらんぼう」という麩菓子とコメや粟を爆弾でふくらまし、ピンク色に着色し、黒大豆を目にはめ込めた、だるまの形に固めたおこしを買うのがしきたりであった。これは父に聞くと、自分が子供のころには買う事が出来ずに色と姿に愛着と郷愁があると言い、自分がなくなるまで、毎年買うのが習慣であった。

近藤勇の天然理心流の奉納試合 日露戦争出兵兵士の「武運長久」額

子供たちは少し成長すると、境内で行われていた、近藤勇の天然理心流の奉納試合を見物した。お大師様のお堂の外側の右側の壁に、大きな額があり、日露戦争へ出兵した兵士の武運長久を祈念したものが掲げられている。そこには、天然理心流の門人であり、日露戦争に従軍した、お祖父さんの名前が書かれている。残念ながら、長い風雨に耐えているが、名前は読み取りにくくなっている。

お化け屋敷やサーカス小屋と各種売店

土差周り(度差周り)で小屋をかけて行われていた、大きな鉄のかごの中をバイクがぐるぐる回り、犬の芸、像の芸などが行われるサーカス、や「親の因果が子に報い、かわいそうな子はこの子でござい…」などの口上で客を呼び込む、ろくろっ首のお姉さん、蛇を丸ごと鼻から口へ通す人、ガラスをバリバリ食べる人、手の無い人、小さな小人・・などが出てくる「化け物屋敷」を見るのが楽しみであった。いまではそれらの小屋がかかることはない。また、野菜や植え木の苗、植え木を売る業者がたくさん並んでおり、見て回り、必要なものを買い求めた。

七味唐辛子を売る店があり、辛さの希望を伝えると独特の口上を述べながら、調合をしてくれる。しかし見ているとどの辛さでも同じように行おその辛さに違いがあるとは思えない調合ぶりである。それも面白いものだ。

お大師様の御開帳・中開帳のお参り

御開帳は五十年に一度、その間に二五年目に中開帳が行われる。平成二十一年には元三大師一〇二五年御遠忌中開帳が執行され、二十五年ぶりに深大寺元三大師堂内陣御厨子の御戸帳が開かれ、坐像にして二メートル、鎌倉時代中期以降のものと言われ、左手に独鈷(とっこ)を持ち、両手で数珠をまさぐる姿の像とのことです。僧形の古像としては他に例を見ない魁偉巨大なるお姿を一目拝そうと、僅か一週間の開帳期間に十三万人もの善男善女が押し寄せたと言われる。その中開帳の日にたまたま縁あって、女房とお参りすることができたのは、大きな御縁をいただいたものと感謝している。ご近所でありながら、御開帳を逃すと一生に一度も古像にお参りをしないで一生を終えてしまう所であった。これを御縁にさらにお参りの度数を増やすきっかけとなった。

深沙大王・深沙堂

時により、御本尊、元三大師、お不動様、水子地蔵、長男の結婚はここをお参りした後に決まったことから、深大寺の寺号も深沙大王に由来する深沙堂に祀られる秘仏(秘仏中の秘仏で誰も参拝、見た者がいないと言われる。また、お堂の天井には竜が描かれている)を参拝し、名物の深大寺そばを食べることとしている。

春分

「春分の日」は国民の祝日で、日本の祝日法に「自然をたたえ、生物をいつくしむ日」と定められている。太陽が真東から上り、真西に沈み、昼と夜の長さがほぼ同じとなる。「暑さ寒さも彼岸まで」と言葉にある様に本格的に暖かくなる。

彼岸会(ひがんえ、おひがん)

梵語のハラミタを漢訳した到彼岸のことで、「涅槃経(ねはんきょう)に「生死(しょうじ)をもって此岸となし、涅槃を持って彼岸となす」と説かれております。われわれ大衆が色々煩悩にとらわれて生死の海にさまよう事を此岸と言い、その海を越えて悟りの岸に達することを到彼岸と言う。まさに彼岸とは人生の理想の境地のことです。冬から春へ、夏から秋へ移り変わる季節の分け目、春分と秋分を中心にした前後3日計7日間を彼岸会とする。(新義真言宗 新義こよみより)また、春分と秋分の日は太陽が真東から上り、真西に沈むことから、この世とあの世が最も通じやすいとされ、この日が先祖供養の日とされている。お寺では法要が行われる。

お彼岸供養

この時期に先祖の霊が家に帰ってくるとされ、仏壇に花を飾り、食事の膳をお供えしお迎えをする。牡丹餅、饅頭、うどん、などの御馳走を作りお供えし、線香をともし供養を行う。7日目お帰りの日には、新粉でお別れ団子を作り、7つお供えをし、家族そろって、お寺へ詣で、お墓参りをする。

彼岸の最中には親類の者が先祖供養のために、行き来する。兄弟や親類の者が集まり、情報交換や世間話に花を咲かせ、にぎやかな日々を過ごす。

初彼岸

葬式が行われた家には、お葬式の後、49日の供養が終わり、最初の彼岸を初彼岸として、寺に供養を願い、近所の一家や親類は、供養に線香を手向けに伺う。また初めての盆を新盆とし、寺の住職さんが仏壇で供養の読経を行い供養を願う。また、近所の一家の者や親類は、供養に線香を手向けに伺うこととなっている。

先祖供養の方法

四事供養は先祖の御恩に感謝の心を持って行う事。

一、献花、仏前に成果を、枯れないうちに取り換え、いつも絶やさずに。

二、献香、仏前に線香を、また、お灯明を忘れることなく灯す。

三、献水、仏前に甘露水、お茶やお水をお供えする。

四、献供、仏前に御供米、果物、野菜、お菓子などお供えする。

四事供養(新義真言宗 新義こよみより)

牡丹餅

牡丹餅

小豆で作った餡の色がこの時期に咲くボタンに似ていることから、牡丹餅と言われている(他に諸説ある。)小豆の赤色は邪気を払い、災難から身を守ると言われて来ました。

小豆で作った餡は漉し餡として使う。餅米を炊き上げ、すりこぎでコメを潰して、小さく一握り代の塊としその周りに餡で包む。以前は飯茶わん一杯分の大きさで有ったことから、大変大きなものであった。また、小豆の餡だけでなく、芯に小豆のお餡を入れむすびを作り、すり下ろしたゴマ、黄粉などをまぶしたものも作られた。

お別れ団子

7日目お帰りの日には、新粉でお別れ団子を作り、7つお供えをする。(また、彼岸会の時だけでなく、お葬式、お盆の時、霊や仏が帰るときにはお別れ団子と称して、ダンゴ、飴玉などもお供えする。

お塔婆(おとうば、卒都婆)

お塔婆(おとうば、卒都婆)

お塔婆は仏さまのお姿を象徴したもので、一基立てれば、仏像を一体作ったと同じこととなる。お塔婆にお寺でお経をあげて頂いて、御先祖のお墓の傍らに建てれば、先祖の霊が安らかに往生できるという、深い尊い意味がある。この施主の真心は、遠い御先祖にも喜ばれ、施主自身の罪障を消滅し、福徳を招くもとになる。故人の冥福を祈り、その追善供養のためのお塔婆であることから、年季法要の時や春秋のお彼岸、お盆、お施餓鬼には、また墓前に特別の報告をするときには塔婆を建てる事がよく、功徳を積むこととなる。

新義真言宗 新義こよみより

墓参

一番大事なことは、お墓参りのときには先にお寺の御本尊様に参詣し、御先祖の成仏をお祈りし、御先祖様の墓参りをすること。その理由は、御先祖の御霊は、御本尊様のもとで、朝夕御住職の読経を弔問し、成仏の修行に努めている。その聖なる修錬道場が御本堂で有ることからである。また、御先祖様の御霊を供養するためのみならず、我々が目的を達成できるようにと陰ながら御助力下さるご先祖に感謝の誠をささげるためでもある。お墓参りには、幼い純真な心に先祖崇拝の精神を育むとてもよい機会となることから、家族で訪れることが望ましい。

墓地

「先祖の御形代(みかたしろ)」ともいう聖域であることから、普段より、草取りや掃除を行い、お花やお線香を供え、お塔婆を建て、報恩謝徳の心を持って、合唱、礼拝をおこなうこと。

むくどり

椋鳥は、1年を通して、いつでもこの地域で生息し、みる事ができる鳥である。冬が近ずくと畑に10羽から15羽程度で群れとなって飛来する。スズメやながい尾を上下に振りながら歩く、白鶺鴒(はくせきれい)を体の大きさを武器に追い散らすが鳩には近づかない。オス、メスははっきりと見極める事は出来ないが、寒さが厳しくなると、2羽で行動し、畑や家の周りで、「キィッ、キィッ」と1羽を追いかけ、その後は落ち着いて、並んで木や電線に止まったり、えさをついばむ姿が見られる事から、つがいになったと想像することができる。

椋鳥が大繁殖

椋鳥の大繁殖した時期があった。三鷹市が下水道を敷設する前は、どこの農家や畑にも肥溜めを作り、市民の排泄物を処理していた。また、当時は高速道路やゴロフ場、公共施設が大量に建設された時期で芝の需要が大きく、三鷹市内でも芝の栽培が大きく行われていた。持っていき場の無い糞尿が生のまま芝畑に流された。市役所南側には巨大なすいこみ式の肥溜めが作られ、し尿処理が行われていた。

さらに、市内では豚の肥育が行われどこでも吸いこみ式の溝がほられ、糞尿が処理されていた。そのようなことから、蚊の大発生、ハエの大発生、伝染病の発生などとともに、それらを餌とする鳥、特に椋鳥が大発生し、夕方になると、寝ぐらに向かい空で群舞いをする姿がみられ、空が真っ黒になるほどであり、鉄塔や電柱の電線に群れで隙間なく止まり、フンを落とすと下の道路や畑が付近が真っ白くなるほどであった。

肥育ブタの暴落と下水道

その後人間のし尿処理は下水道の敷設と共に進み、豚の肥育のし尿処理は、微生物を活用した処理を求められるようになった。オリンピックの前後に豚の価格が暴落し、えさ代がかさむ、環境問題などにより肥育豚の生産は壊滅的になった。

戸袋に椋鳥が営巣

椋鳥が戸袋に巣を作ったことがあった。気が付いた時には卵を産んであり、巣立ちまでそっとしておくことにしたが、日が経ち雛にかえり、そのころから、畳の上にダニがいる事に気がついて、物が腐っているような異様なにおいが発生し、かわいそうであるが巣立ちを待つことができず、巣を撤去することとしたが、戸袋にあったごみや糞は大量で、大きなかごにいっぱいあり、小さな虫やダニが大量発生していた。

すずめ

スズメはいつも家の周りを飛び回り、鳥小屋の鶏のえさを食べ、畑では大麦、小麦を、家の周りでは犬や猫の餌を、家の者がなべに残ったコメや麦を庭にまくとそれを食べていた。だからといって何も恨みを買う鳥ではなかった。

小さな鳥はえさを食べずにいると一日も生きてはいない、死んでしまうと言われ、ものほしそうに丸い眼をした顔を向けられるとかわいい姿に、何か微笑みを感じる鳥であった。

「寒」を過ぎるといつのまにか2匹で木の枝の間を飛び回り、地に降りてえさを見つけながら、ついばんでいる。その内に、屋根の隙間や木の祠に草や細い枝をくわえては出入りし、巣作りに励む姿を見ると春を感じたものだ。

時折には巣を覗き込み、卵を産んでいないかを確かめて見る。いつの間にか卵を産み、「んんんん」と餌をねだる小さな声が聞こえてくると、まだ目が開いていない、羽が生え揃わず、裸で嘴が黄色い雛鳥が、親の帰りを待っており、親が巣にもどると、声をあげて口を大きく開いて餌をねだる。親鳥はせわしなく巣を出入りし、えさを運び雛にえさを与えている。ひな鳥は時に他の雛により巣から追い出されたりすることもあった。そのひな鳥を可哀想だと拾い上げ、擦り餌やご飯粒、小さな虫などを口に入れてはみるが、育つことはなかった。原因は、まず体温調節ができなかったのではないか、給餌の種類や方法が親鳥と違っていたと考えていた。ひな鳥は、羽が親鳥と同様な色になり、大きさも親鳥に近くなり、くちばしの黄色の部分がなくなると、いよいよ巣立ちの準備が始まり、巣から顔を出したり、屋根伝いに出てきたりするようになる。このようなときに、巣から落ちてしまったひな鳥は、何でも食べる事が出来て、巣立ちができ空に舞い上がり、木の枝へと飛んで行った。巣立ちのころには、春の花が咲き木々の芽が動き出し、小さな虫たちも活動始めるころで、餌の獲得がしやすいころとなっている。小さな鳥たちは、太陽が昇ると夕方日が傾くまで餌を探し、啄んでいる。畑では大麦小麦を群れで舞い降りて来て、餌にしていた。缶を叩いたり、大声を出して一度追い払うと「バット」と飛び立ち、どこかに隠れ、人の気配がなくなるとまたやって来て、いたちごっこであった。夕方になると、どこかで飛び立つと次の群れが飛び立ち、大きな群れとなって、寝床の雑木林の常緑樹の木の枝や竹やぶに入る。その中は泣き声で騒々しい状態で、いつしかしだいに静かになる。

竹やぶのスズメとり

スズメが寝床の竹やぶに入り静かになったころ、子供のころは、周りに街灯も無く、月明りだけであったから、竹やぶの中は真っ暗であった。スズメが寝床の竹やぶに入り静かになったころに丸太を持ち、かすかな月明りを頼りに竹やぶに入り、めぼしい竹を思い切り丸太で力いっぱいたたくと、スズメが地面に落ちて、羽をばたつかせる。それを急いで捕まえた。鳥は鳥目で暗いところでは目が利かないものと考えていたが結構な数を捕獲できた。次の日に焼いて食べたが、次の日にはほぼ死んでいた。

雲雀(ひばり)

暖かい日差しの中で、どこまでも青い空に天高く雲雀がさえずり、西の彼方に白い富士山が見え、奥多摩の山並みが黒く連なっている。畑はまだ冬の名残を残し、小松菜や白菜の黄色い菜の花が咲き、大根の白い花が咲き、麦が成長し、花を包んでいる茎が太さを増し、雑木林では、思い思いの色に変化して、木々の新芽が出始めるころである。春の風景を醸し出している。

父や、おじいさんから、雲雀は農作物を食い荒らし被害をもたらす虫を食べてくれることから、有益な益鳥であるから虐めてはいけないと教えられた。空高く舞い上がり、さえずる雲雀が下りて来ても、周りを見渡してもなかなか巣の在り処がわからない。父から、雲雀は雛を守るために、直接巣にかえると、雛に危害が加えられる危険があるため、巣から遠くに降りて、地面を歩きながらえさを捕獲し、危険の無いことを確認して巣にもどると教えられた。

「上り泣き」、「舞い泣き」、「下り泣き」

鳴き声は、空に舞い上がるときは、垂直に上昇し、あげ雲雀と言い、「上り泣き」、上空で羽ばたきながら泣く「舞い泣き」いくつもの形式がある、降りるときは垂直に下降し、「下り泣き」とそれぞれに泣き方が違う。上空でさえずるときはいくつもの形式を組み合わせ、長時間さえずり続ける。聞いていると、さえずりの斑があるなど、上手、下手があり聞き手を楽しませてくれた。

畑の農道や麦の作の間に雲雀のさえずりを楽しみながら、あおむけに横たわっていると、青い空に吸い込まれるような気持になり、周りの太陽の光を受けた麦の緑にひと時我を忘れるような気分になりながら、雲雀の「下り泣き」を待っていると、垂直急降下をして地面に降り立つ、警戒をし、周りをきょろきょろしながら、餌を探し、捕獲しながら歩いている。真っ直ぐには巣に近づかない。

腹ばいになって雲雀の行く先を観察していると、巣は麦の根元に、細い草屋根を丸く積み重ね、真ん中を凹ましてできている。その中に雛鳥が一所に大きな黄色いくちばしのついた、羽が生え揃わないピンク色の雛鳥が、丸く体を寄せ合い、静かに親鳥の帰りを待っていた。親鳥が来るまでは静かであった雛鳥も、親が帰ると一斉に黄色いくちばしを上に向け大きく開けて、「ぴいぴい」と餌をせがんで泣き出すと、親鳥は、開いたくちばしに自分のくちばしを突っ込みえさを何度も雛鳥にも与えていた。またすぐに巣を離れ、あるいて巣から離れた所から飛び立ち「上り泣き」を行い天高く舞い上がった。飽きることなく、あおむけに横になり雲雀を目で追いながら、さえずりを楽しんでいた。しだいに雛鳥も大きく成長してくると、親に煮た羽も成長してくる頃、そっと手のひらに包み込むようにすると、雛の体温が手に伝わり、温かさに驚きいつまでもそっと握っていた。親鳥が雛が小さいときは、虫を一度自分で食べてから吐き出して餌を与えていたものが、大きくなると虫をそのまま与えるようになる。そのころになると、蟻、青虫、毛虫などを捕まえて巣に置いておくと、死んでいるものは与えず、生きている新鮮なものだけをちぎって与える。さらに雛が大きくなると、くちばしの黄色い部分も消えるころには、置いておいた青虫やミミズをそのまま雛に与えていた。そのころになると巣立ちの準備で、ひな鳥たちも巣から離れる事もあり、近いところに出て歩き、餌を探して地面をついばんで歩き始めるといつのまにか巣立ち、巣にもどることはなくなってしまった。

辛夷の花・ウドの栽培

冬の花は、サザンカや山椿が代表して、冬の寒い中で花を開く。春の兆しを感じる、寒が明け、春一番が吹くころになると開花するのが辛夷の花だ。

辛夷の花は、葉が出る前に、寒い冬の間に花の蕾や新芽を毛皮をまとうように包み成長し膨らみを帯びてくる。

その皮を破り新芽が出る前に小さな2枚の葉の先に開花する。白い花弁には小さな白い産毛があり、青い空に映えて、光を受けて光り輝いて見える。受粉が終わると花弁を落とし、緑色のさやの中に種ができる。この頃に冬の寒さから守られていた皮を破り新芽が出てくる。初夏には大きな葉へと成長する。種の入った莢は大きく成長し、莢が割れ、だいだい色の種が見えるようになると鳥たちが餌とし、または地上に落下する。落下したさやをみると、握りこぶし条の凸凹があり、外側が緑色に黒いところがあり、莢の中にだいだい色の種が見えると、異様な虫や幼虫や芋虫のようにも見える。兄弟や近所の友達に「毛虫」と言って放り投げて、驚かしたり、からかったりして、じゃれあって遊んだものである。近くに寄ってみると辛夷の種の莢であることにホッとしたものだ。

うど栽培

武蔵野地区では大変古くから栽培されていた。嗜好品として、高級食材として価値が高く、高値と産地を守るために「嫁はやってもうどの根は腐ってもやるな」と言われ、特産地を守ってきた。我が家ではウドの栽培を行っていたが、新品種を手に入れたのは徳農家の好意、食用にいただいた商品にならないものから増殖した。

ウインチ式のウド堀機

鍬一本で出来るだけ根を切らないように堀あげていたものだが、大変な労力を必要とした。その後、1馬力のガソリンエンジンでウインチで、Uの字型の刃を引く、ウド堀機が発明され、掘り取りも機械化され、労力も軽減された。堀あげられたウドの根は畑に山積みし土をかぶせ、地温で凍結から守り、乾燥を避けて、軟化栽培の臥せ込まで保管された。

土伏せ式軟化栽培

軟化処理は、「土伏せ方式」で行われ、幅2尺(60㎝)で長さ10間(20m)の溝を掘り、落ち葉と霧わらを詰め、糠を播き、下肥をたっぷりとまき踏み込み、厚さ1尺5寸(15㎝)ほどとなる様に行い、その上に土を2寸(5~6㎝)の厚さで覆う。この踏み込みの糠や切り藁は、発行を速め即効性の肥料ともなり、落ち葉と共に発行を助長させ、発酵熱を維持するためのものである。

その上に、掘り取ったウドの根を芽を上にしてそろえて隙間なくびしりと並べ、2寸(5~6㎝)土をかぶせ、さらに藁2寸(5~6㎝)敷き詰め、その上に蓆をかぶせる方法で行われた。伏せ込を終えた溝の中は、下肥を十分にまいておかなければ、発酵熱と、発芽による水分の吸収されることから乾燥が激しくなり、時に発芽や茎の伸長に影響し、水を散布する良い方法がなく、雨が降るのを待つのみのこともあった。

軟化処理の加温

温度をくわえる方法は、臥せ込を行った溝の淵を3寸(9㎝)空け、5寸(15㎝)幅、深さ1.5~2尺(45~60㎝)の溝を掘り、乾燥した落ち葉ともみ殻を詰め、日を付け、平均に火が回り、煙が出るころに、空気が通る穴をあけた藁俵をかぶせ上に土をかける。ほぼ一晩燻り続き、煙が穴から出ていた。平均に煙が出ているかを確認し、出ていないところは俵を持ちあげ、空気を入れて火の調節を行った。ウドは顔ンと発酵熱により発芽が促され、新たに根を新調し、肥料を吸収して発芽し、茎を伸長した。

発育と土寄せ

茎が伸びてくるとかぶせた土に割れ目ができてくると発育に斑を作る、冷たい風が入らぬように、また、光が入らぬように土寄せを行う仕事となる。

この土寄せは、父が市場へ行くことから学校へ行く前の私の仕事となり、背丈の低い私にとっては重労働であった。最初はうどの丈も短く土寄せも楽であったが、丈が長くなるころは、地面を削り土寄せを行う事から、地面も低くなり土を持ちあげる距離と高さが倍増し(火山灰土であることから、上部は乾燥し崩れやすくなり、土の傾斜角度が緩くないと、いくら土を盛っても崩れてしまうためすそが長くなる)重労働であった。

約1カ月程度で草丈が2尺(60センチ)になると出荷期になる。出荷は、1月から4月まで行われ、高級料亭での旬の高級食材としての需要も多く収益性の高い作物で有った。

ウドの出荷作業

うどの出荷姿は、「東京うど」として共同出荷があったが、出荷量が少ないことから、近隣の市場への個別出荷を行った。太さと草丈をそろえ、1貫目を一束とし、傷がつかぬよう新聞紙をあて藁で根基と中間を結束する方法をとった。夕刻に収穫したのち夜に荷づくりが行われた。うどの出荷黄は土間にある小縁側に大きな図りを置いて作業が行われたために、父は相撲の実況放送(当時は、双葉山、朝潮、若乃花、柏戸などの強豪力士がいた。またラジオの子供番組では、吉永小百合の赤胴鈴の介、浪曲などが流れていた。)を聞きながら行い、子供たちは小声でおしゃべりやじゃれ合っていたが、時により度を超すと呼ばれて拳骨をもらった。

夏のウドの畝間の草取り

地表が葉に覆われていることから、草の量が少なく、厚い中でも日陰で有り、子供の手伝いとしては楽しいことでもあった。葉の下の作間にあおむけに寝そべって上を見ると、上から太陽の光を受けて、古い固い葉と新しい葉の緑の濃さのコントレストが大変綺麗であった。草をむしっていると、成長の違う大小のアブラムシや粉児らみの仲間、色々な色をしたカメムシやテントウムシ、あり、ごみ虫、は虫、カミキリムシが茎や葉居り、花は、長い花柄にちいさなしろいぼんぼりをつけたような花であった。そこには普段見る事のない、ゾウムシや、くまんばち、ミツバチ、アブラムシとあり、シジミチョウなどが花の蜜を吸っていた。その当時の正確な昆虫の名前がわからないが、昆虫が沢山の種類がいた。葉の隙間から見える青空、輝く太陽がぎらぎらとし、心地よく過ごすことができ、楽しみの一つであった。

ウド料理

ウドは高級食材として、殆んどを市場出荷を行った。家庭で食べるのは出荷できない、短いもの、細いもの、折れてしまったものを食べた。皮をむき、味噌をつけて生で食べる。薄く短冊状に切り、甘酢で軽く熱を通す、薄いみそと軽く熱を通す、甘みそ和え、甘酢和え、てんぷらをする、皮は千切りにし、きんぴらに仕上げる。

うどばしと名がついた橋形マガを浄水にあり、そのわきの橋のたもとに、武蔵のウド、東京うどの記念碑がある。 表、むさしのは月のいるべき隅もなし   草より出でて草にこそ入れ  古歌より   略、180年前より、落葉の温熱を利用した軟化独活(うど)を栽培、特産地の名を留めるために、独活橋と命名された。昭和四十年3月二十五日とある。 裏、世話人の中に野崎在住の清水酉三氏の名前がある。

東京ウド物語 「東京うど生産組合連合会創立45周年記念誌」

三つ葉の栽培と天文台正門東側山葵田(羽沢)

三つ葉

ミツバは、山の中や雑木林に生育する植物で、大変かお栄が強く、季節感が有り、食味もシャキシャキとした歯触りも良い。古くから畑作物として栽培され栽培されていたがその起源はわからない。ウドは穂がでな

三つ葉の播種、肥育

雑木林の中などで反日蔭などでも生育する性質を生かし、夏果菜のトマトを定植した後に作間に種を平均にばらまき藁を敷き発芽させ、成長を待ち、トマトへの追い肥と共に施肥を行い根株の育成に努める。7月にはトマトの収穫が終わり、その残渣を片づけたのちに施肥を行い晩秋まで肥育する。

根起こしとお釜風

最初の水霜により地上部が枯れたのちに根を掘り起こし、土をすっかり叩き落とす。作業は綿入れ反転などですっかり防寒し、手ぬぐいをほっかぶりして、畑に座り込み作業を行った。霜の降りる季節で、手や足も凍るように冷たい、苦しい作業でもあった。

この季節は、昔のことだから今と比べると大変気温も低くなり、この辺りでは言わなくなってしまったが、季節風の「おかま風」が吹いた。「おかま風」とは、北西に位置する榛名山の火口を抜け、雪の上を通り、冷やされた風が渡ってくる風を言う。

なんか栽培・金糸三つ葉

その後ミツバの室で軟化栽培を行い、30センチ程度に成長したものを根つきのまま、根を平らに並べ、根際を藁で結束し、荷造りを行う。荷づくりが終わると根を水洗いして市場に出荷した。

ミツバの軟化栽培は、徳利条の三つ葉用穴倉や室に目を上に向け、高さを均一にし、びっしりと並べて伏せ込を行う。

三つ葉穴・三つ葉穴倉

三つ葉栽培用穴倉は、火山灰土壌で粘性が強い土の赤土層が深いことから徳利状の穴倉が作られた。入口は1メートルの真四角の立坑を作り、深さ3メートル、半径2メートルの天井の高さ1メートル20センチの徳利状の穴で、穴倉や室は冬場でも中の温度が15~17度程度あるが、発芽を促し成長を速めるために、すみや練炭を焚き加温した。加温用の炭や練炭の使用は発生する炭酸ガス、一酸化炭素ガスは大変危険で、確認しないで中に入るとガスによるガス中毒を引き起こす命に関わることもあった。また、光を一切当てずに管理を行い「金糸三つ葉」として市場出荷を行った。

近所の農家では穴倉を掘って軟化栽培を行ったが、我が家では三つ葉用の穴倉は作らず、幅1間(180センチ)苗床を作り、落ち葉や切り藁、糠などで下肥を撒いて踏み込みを行い土をかけその上に根株を芽を上にして平にびっしりと並べビニールの障子をかけ、むしろなどで覆い、軟化栽培を行った。また、別に畑に3尺(90センチ)幅の短冊状に目を上に根株をびっしりと並べ土をかぶせ、季に応じたものを荷造りし出荷をした。

天文台正門前東側の山葵田(羽沢)と三つ葉の根洗い

ミツバは根を洗い、土を落として出荷するのが手段であった。ミツバの根を洗う場所は、天文台の東側にあった大きな沢(羽沢)で、一番奥の水が大量に音を立てて湧き出している湧き水を利用した。天文台の東側から沢に降りる処があった。急な崖となり、雑木林に覆われていた。株立ちのケヤキのそばには水神様の祠があり、その脇を入ると5メートルもある穴があり、爆弾の落ちた穴で不発弾が埋まっていると言われていた。底にはなぜか川エビがいて、スルメやカエルの足を餌にしてエビ釣りをして遊ぶことをした。

さらに下に降りると水路(西側の水路)を渡ると左側にワサビ田、右側に田圃(水田)で、畦を進むと東側の水路へ出た。その水量が多く、流れも速い水路で土を洗い落した。寒い冬の間でも水温は15~17度あり、作業をするには格好の場所であった。近くの三つ葉栽培農家の人が並んで、板を水路に渡し掛け、水に足を入れて、三つ葉の根を洗う作業を行っていた。

水路掃除

三つ葉を洗った水路は土が大量に残されるために、土の除去作業が行われた。水路の底にたまった土を救い上げ通路に積み上げ、なお残る土は水をかき混ぜ土とともに流す作業である。

山葵田とお祖父さん

大きなワサビ田はおじいさんが大きく手伝いをして作ったと話していた。ワサビ田は、大きな石は、水の湧き口や水路の壁面の石垣を作るために使い、鍬を使い、砂を沈め、表面に小石の層ができるように作り、水が常に全面を平均に流れるように平らに作ることが苦労であり、重労働だったと話してくれた。

水は石垣の石の間から湧き出し、その近くには赤茶色の沢ガニ(卵を抱えたメスをとってはいけないと言われていた。)が沢山いて、東側の水路はもともとの湧水が流れる水路であり、冬でも縁取りをするように緑の草が水辺に生えていて、その草の陰にトンボのヤゴが沢山いた。水底は砂岩でできているかと思うような微細な砂が石のように締まって固まってできていて、その上に砂を撒いた様であった。水はその上を流れ、そこには沢山のタニシが生息し、アメリカザリガニや小魚がいるのが見えるほどきれいに澄んだ水であった。水の湧き口から西に水を流す西側の水路はワサビ田を作るときに作ったもので両岸が石積みされていた。夏には蛇が多くいて大いに驚かされたもので、蛍の季節には沢山の蛍が飛び交い、わざわざ沢に暗い中を降りて干渉し、その景色に驚き、感動した。当時は電灯一つない深暗の暗闇となり蛍の光がまぶしいほどであった。

宅地開発と住宅化

その後時代の変化、市の深井戸の掘削により湧水がとまり、沢は埋め立てられ、住宅地となってしまった。あの景色が二度と見る事が出来ないのは大変残念に思うと同時に貴重な資源財産を失った残念なものだと思い起こしている。

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