歳時記(4月の行事・農作業)

4月写真

4月 (卯月うづき)

このページは、歳時記(4月の行事・農作業)をテーマに記載しています。

目次

行事一覧

二十四節気

旧暦は、月の満ち欠けによりひと月を構成し、半月ごとに季節の移り変わりを示すのが「二十四節気」で、二十四節気は「節」と「中」に分けられる。節は季節の指標を、中は月名を決める。

八節  二分 春分・秋分  二至 夏至・冬至  四立 立春・立夏・立秋・立冬

七十二候

立春雨水啓蟄春分清明穀雨
立夏小満芒種夏至小暑大暑
立秋猛暑白露秋分寒露霜降
立冬小雪大雪冬至小寒大寒

卯月(きさらぎ)卯の花が咲くころ、稲の種を撒く月、植月(うつき)ともいわれる。

七十二候 清明

5~9日 玄鳥至 (つばめきたる) 

燕が、南の国から日本にわたってくる季節。家の軒先や風の当たらないところに巣をつくると繫栄すると言われる。

10~14日 鴻雁北(こうがんかえる)

雁が北へ帰る。

15~19日 虹始見(にじがはじめてあらわる)

雨の少ない冬は虹が珍しく、色も薄い。初めての虹を「初虹」と言い、幾分色も濃くなるが、消えやすい。

1日

年度替わり、噓を言っても良い日

8日 花まつり・灌仏会

仏教の祖、釈迦牟尼の生まれた日、釈迦はインドのヒマやら南麓の迦毘羅(かぴら)誕生、幼名を悉達多(しったるた)と言い、二十九歳で城を出、三十五歳で仏教の悟りを開き、後八十歳で入滅するまで四十五年間布教に専念した

29日 昭和の日・昭和天皇誕生日

昭和の激動、多難の時代を歩まれ、太平の基を切り開かれた昭和天皇誕生日

七十二候 穀雨

20~24日 初候 葭始生(あしはじめてしょうず)

葭が芽を出し始める季節。「古事記」には、まだ天地が混とんとした状態の中から、葭の芽が生えるように神が生まれたと記されている。

25~29日 次候 霜止出苗(しもやみてなえいずる)

霜もおりなくなり、稲の苗が成長する時期。

30~5月4日 末候 牡丹華(ぼたんはなさく)

牡丹の花が咲く季節。

暮らしの記憶

農家の庭

農家の庭は脱穀や麦乾し、小豆、大豆、ゴマ、落花生などの他の雑穀類の脱穀、乾燥などの作業の為、苗床を作る敷地として活用するために広く平らに作られていた。毎日、竹箒で掃き清めるのが子供たちの朝の仕事とされた。秋から冬には落ち葉が多く、その落ち葉を掃きためては1ヶ所に積み込み、堆肥を作る材料ともなったが、あまりきれいに掃くと庭の土まではき取り、庭が凹んでしまうこともあった。また、小学生のころには、広い庭で、小さなゴムまりを使った、三角ベースが行われ、友達がたくさん集まる良い遊び場ともなった。また、ハンミョウの幼虫が3ミリメートル程の小さな穴をたくさんあけることから、にらの細い葉やのびるの葉を穴に差し込むと、幼虫が下から押し出そうとしてかみついて押し上げ、それを見て吊り上げるハンミョウ釣りを行うなど遊びの場ともなった。また回りは生垣、雑木の植え込みとなっており、昆虫を蜂蜜でおびき寄せ、落とし穴をつくり、昆虫採集を行い観察をするのが楽しみであった。

花まつり(灌仏会)・ヨモギ餅・草餅

4月8日 お釈迦様のご誕生を祝う聖日である。釈迦誕生の際には天から、九頭の龍がやってきて甘露の雨を注ぎ、産湯に使わせたというという古事にならって、色々な草花の花で飾った花御堂に、右手で天を差し、左手で地を差し手いる誕生仏を水盤の上に安置し、柄杓で甘茶を灌ぎかける処から灌仏会と言い、別名で、仏生会(ぶっしょうえ)、浴物会(よくぶつえ)、龍崋会(りゅうげえ)とも言われる。お釈迦様は、生まれてすぐに、七歩いて、右手で天を、左手で地を差して「天井天下唯我独尊」(皆それぞれがかけがえのない存在である)と唱えたと言われている。

日本では、仁明天皇の御代。承和7年(840)4月8日に、清涼殿で初めて灌仏会が修せられました。その後、毎年宮中の恒例行事となり、しだいに民間でも行われるようになりました。

甘茶

甘茶

甘茶づるの葉から作られた甘茶は、甘茶を飲むと病気をしないと言われ、家に持ち帰り家族で飲むなどの参拝者もおり、寺で誕生仏に、柄杓で甘茶を灌ぎ、甘茶を御馳走になった。

蓬餅(よもぎもち、よもぎだんご)

花まつり(灌仏会)の日は草餅を食べる日と決まっていた。前日に蓬の新芽を取りに行くのは子供の役割であった。現在とは違い、雑木林の淵や畑のふちに自生しているものを摘み集めた。母は、前日に小豆をゆで始めて準備を進め、餡子をつくり置きした。次の日の朝早くから起きだして、色がしっかり残るように蓬の芽に熱湯をかけ、臼や杵を出して行うこともない量なので、もち米を蒸し、すり鉢に入れ、擂粉木でもちにし、色がしっかり残るように蓬の芽に熱湯をかけたものを餅に加え生地をつくった。生地を丸め、それを丸く広げて、真ん中に玉状にした餡を置き、二つ折りにし、蓬団子を作り、朝食に食べた。

夏果菜の植え付け

植え付け

霜の心配も薄らぐこの時期に夏果菜の定植が行われた。それぞれの苗を育苗床から、たっぷりと散水し、根を切らぬように掘り取り、かごに詰め畑まで運び定植した。スイカ、キュウリは鉢植えで育苗した。ピーマン、ナスは育苗どこに直植えで育苗。苗はしっかりと張っており、植え痛みの心配はなかった。今ではビニールトンネルがあるが、当時は農業資材も数多く販売しておらず、ビニールなども高価だった。霜よけ被覆材は薄い蝋引きのハトロン紙で三画の帽子をつくり、定植後竹を細く割り骨に用いた。すでに元肥を鋤きこんだところに定植をするが、1~2週間のうちに施肥を行い、土寄せを行う。トンネルにするための資材も、1年生育した竹を、一定の幅に割り使用した。

この時期はどこの畑にも参画星が並んでいた。

すいかの栽培・三鷹はスイカの大産地

すいか

春になると夏果菜の植え付けが始まる。植え付けは4月8日前後に植え付けられることが多く、霜の被害には気を付ける必要があり、実際に被害も発生した年もあった。

スイカはの植え付けは現在のようにビニールトンネルで、霜や風から守られることはなかった。

戦後の東京近郊の農業は、人口の増加するのに伴い農業として、活力、生産量が最大であった期間は昭和35年ごろまでであった。ホウレンソウ、小松菜などの葉物野菜、スイカ、キュウリ、カボチャなどの夏果菜、カブ、大根、白菜などの秋、冬野菜、ミツバ、ウドなどの軟化栽培による野菜など、その他の野菜で有った。

近郊農業と野菜生産

スイカの生産は、どの農家も栽培し大生産地化した。またその裏作の白菜の生産も大産地化した。スイカの生産は出荷量がピークを迎えた後は長年同一作物を生産してきたことによる、生育障害や秀品率の低下を起こすなどの課題が顕在化してきた。また、鉄道や道路網の整備が進み、地方で生産される農産物が東京に流れ込むこととなり、近郊農業は次第と衰退してきた。結果として近郊農業は変化を余儀なくされ、野菜栽培では収益性が下落し、生活経済にも大きく影響をきたし、生産性の高い、高収益の農業作物が求められ、豚の肥育を行う養豚業や柘植の木の球ちらし栽培を始めとする、植え木生産へと変化した。同時に人口増加を受けて、アパート経営が始まり、農家の経済を支えることとなった。

夏果菜の播種、育苗用苗床・育苗床について

夏果菜の発芽温度20度以上の確保

夏果菜の発芽温度は20度以上が求められたことや、生育の早期化が求められたことから、発芽温度の確保と温室効果を高めるための育苗用床が作られ活用された。苗床作りは、1月に苗床を作る場所を、四方を保温と風から守るために藁や麦わらの垣根を作り囲う事からが始められた。発芽促進用の苗床は、南傾斜に障子がかぶせられるように作られ、暮れに葛掃きで集められた落ち葉を三〇センチメートル程度の厚さに下肥をかけ、藁やぬかを撒き踏み込みを行い、上に熱が逃げる事のないように、床泥(苗床に踏み込んだ腐葉土を1~2年自然に発行した堆肥)を五センチメートル程度の厚さで敷きつめ作られた。

ビニールの障子をかけ、むしろで覆い保温に努めると醗酵により徐々に発熱が始まり、一週間ほどで二〇度を超える温度となりピークを迎え、二週間ほどで、二〇度を少し超える温度で一定してくる。種を箱にまいたものを置くと、3日ほど経過すると発芽が始まる。発芽後は、床の内部の温度が上がり過ぎないように、温度管理が求められ、高温や太陽光による被害の発生があり、丁寧な管理が求められた。

夕顔の台木の活用

スイカの根の発達は必要なだけはあるものの、より多くの収穫を望むには不十分であることから、根が強靭で樹勢の強い夕顔の根を活用する、夕顔を台木とする接ぎ穂方法による栽培法が用いられた。

スイカの育苗は、発芽した夕顔の苗が二葉の内に鉢に一本づつ植え、発芽したスイカの苗を切り取り穂として、夕顔の苗の芽を欠き、生長点である所に穴をあけスイカの穂を挿すという接ぎ穂が行われ、育苗用の苗床に並べられ、温度管理、水くれの管理に毎日心掛けた。この接ぎ穂の活着には細かな技術が求められ、その後の生育に大きく影響した。本葉が五枚程度になるまで苗床で育苗し、作を切り、基肥と堆肥を積み、畑に定植を行った。

三角帽子

定植時期がまだ霜や風を警戒しなければならない時期であった為に、細く割った竹を骨としてセロハン紙をかぶせたドームを作り霜や風を防いだ。セロハン紙は事前に、1辺が60センチ程度の紙を三角に切り、その1辺を糊づけして準備をしておいた。糊で貼る作業は子供たちの仕事となった。

子供たちは、植え付けた後から竹の骨を挿し、3角形の紙を被せ、風に飛ばされぬように土を寄せる作業を行った。苗を植え付け、白い3角形のドームが規則正しく並んだ畑となった。ドームの中の気温の上昇により中の苗が焦げてしまわぬように、頂点に穴をあけ温度調節を行った。また苗が成長して中がいっぱいになると紙を破り生育の邪魔にならぬように紙を破り伸長を助けた。この頃になると追い肥をし、ドームを撤去し、草の発芽を抑えるために、スイカに泥が跳ねぬように全面に敷き藁をした。一本の苗から4~5本の枝が出、その枝1本に一つのスイカが収穫できるよう管理を行った。

摘果した実を味噌漬けに

必要以上の身は小さな内に切り取り、糠づけなどにしてお新香として食べた。気温が低いと受粉率が悪く、結実しても球が落ちてしまう事もあった。枝が畑全体に広がり、葉で覆われてくると球が大きく成長する。

収獲

市場出荷・スイカの玉磨き

スイカの出荷

7月に入り梅雨明け頃に収穫が始まる。球を指ではじいて充実度を確認し収穫する。最盛期には、1家が総出で収穫、子供たちは大きなスイカを抱えて運び出す。子供が成長すると、互いにスイカを投げて運ぶようになる。はしゃいで落としたり、割れたスイカを分けて食べるなど、大騒ぎをしながらの作業であった。収穫したスイカは、リヤカーに積み家まで運び、温度が当たらず光の当たらない物置きに積み込んで置いた。一枝に一つのスイカを成らすことに心掛けたが、その枝の先に、スイカが結実することがあった。これを売らなりスイカと言い、実の大きさも小さめで、味も落ちるために多くは出荷することなく、自家用に消費した。

スイカの市場出荷は、子供たちがスイカの表面の白い粉を落とし、光り輝くように磨き、「東京スイカ」のラベルを貼る作業を行った。夕方出荷する物は学校が終わると作業を行い、朝出荷するときは、学校への登校が始まる前に行った。出荷はほぼ7月中に終了した。

スイカの畑の保冷庫

畑に手伝いに行く日は、朝早く起きて、茶の木の陰などで日の当たらぬ所に穴を掘り、朝梅雨で冷えたスイカを埋めておくと保冷庫代わりになり、10時までには効果が高く、3時にはその効果は低下したが、食べるには温まることのないスイカが食べられた。

この時期に親類や知人の来客があると、お茶代わりにスイカが切って出され、帰りにはお土産として差し上げるのが通例となった。

スイカの食べ合わせ

西瓜の食べ合わせについて、天ぷらとスイカは食べ合わせが悪いと言った。油の多いものと水分の多いものを一緒に食べると、胃液が薄まり消化不良を引き起こす可能性があると言われている。

ひばり

子供たちは売らなりのスイカを使い、中の肉を欠きだし、竹で格子を作り虫籠を作り、クワガタ、セミなどの昆虫を入れ、飼う虫籠を作った。また、顔の形に、芽、鼻、口をくりぬき、中の肉を欠きだして蟷螂を作り、夜になると蝋燭に火をともし、夜の遊びを楽しんだ。

うら成りスイカ、カボチャ。夕顔の蟷螂作り、虫籠作り

黄色いなのは長崎、取り残しの大根からウキが伸び白い花が咲くころになると、冬を乗り越えた麦が分けつが終わり、茎が抽苔し、茎の上部が膨らみ始め、木々の芽が膨らみ、それぞれの木々の若葉がが木々の個性を発揮し、色形が違う個性を発揮しながら動き出すころころになると、真っ青な空にひばりがのぼり、盛んに囀りだす。父から、ひばりは作物を食い荒らす虫を食べてくれることから、有益な鳥であるから、いじめてはいけないと言われていた。

ひばりは、飛び立ったところや、舞い降りたところに巣はなく、巣から離れたところから飛び立ち、舞い降り、きょろきょろしながら巣に近づき、離れてゆく。麦の株間に仰向けに寝転んでヒバリの降りてくるのを気長に待ち、ひばりが泣き終わるのを待ちながら、舞い降りた地点から、麦の株間から、行動を観察し、巣のありかを見つける。巣は麦の根元に、昨年の麦や草の根っこを丸く椀状に網巣をつくっていた。親雲雀が子ひばりにえさを与えて巣から遠ざかるのを待って、巣の中を観察すると巣の中には、早いときには、茶色のまだら模様の小さな卵が2~3個あり、卵から孵化した巣には、黄色いくちばしを思いきり広げた子ひばりが、こちらを向いてピーピーなき餌をねだるのであった。不思議なことに、親が巣を離れた時には、声も立てずに静かにしている。幾分大きくなった雛に、青虫や、ありんこを与えても食べない、巣にそれを置いておいても口をつけていないことが多く、親鳥が持ってくるエサは空に上がり、下りする間に空中に飛んでいる虫を捕獲して、飲み込み、消化液とともに吐き出し幼鳥にあったえさを与えているのではないかと想像していた。

雲雀の由来

和名は晴れた日(日晴り)に囀ることに由来する説や、囀りの音に由来すると言われている。繁殖期が始まるとオスが囀りながら高く上がって行く「揚げ雲雀」と呼ばれる縄張り宣言の行動は古くから親しまれている。空の上で長時間停空飛翔(ホバリング)したり、空から地上に降りる時を「下り雲雀」といわれ、さえずる声が違う。

大麦と小麦

大麦と小麦の写真

大麦と小麦は10月初めに播種する。播種前には家族全員がふろを使った後に温度を調節し、種もみを湯に朝まで浸した後水を切り播種を行った。残り湯の温度が種もみの発芽を促し、しっかりと水分を吸収させる役割があったものと考える。発芽して水分を吸い上げるための根がしっかり伸びていることが大変大事で、土の中の温かい水分を吸い上げ、凍結や寒さから自らの体を守る為に、霜柱が立ち土から抜かれてしまわないように守るためにしっかりと根を伸長させなくてはならない。

そのために播種時期を間違えると、発芽が遅くなったり、霜により持ちあげられる被害が起きた。年を越した寒に入るころから、発芽した苗の、霜柱、凍結の被害を抑えるために、「麦踏み」が行われ、子供たちの仕事となった。子どもたちは、遊び半分に行い、競争をしたりすると飛び飛びに靴の跡が付くように、しっかりと麦踏みが行われず、いい加減さが親に解ってしまい、やり直すこととなってしまう。また運動靴で作業を行うため土が靴の中に入ってしまう。靴下も足も靴の中も泥だらけとなり、また叱られることとなった。

3月頃になると、寒い冬を越えてきた一本の苗が分けつ(茎が根の近くから枝分かれすること)をはじめ、4月には腰を切り分けつした芽や茎がまっすぐ上を向いてすくすくと伸びてくる。5月には、麦の穂が膨らみ始め、出穂する。6月には麦秋を迎え、麦刈、脱穀、麦乾しと作業が続く。

麦刈は大麦は梅雨の前に、小麦は梅雨の晴れ間にと言われた。

6月の梅雨のながい雨が続く事や、田の農作業と重なり、作業が遅れてしまうと、湿気を吸って穂から発芽したり、刈り取った後、ぼっち(麦の穂を上にして積み込む方法)に長く積み置くと発芽してしまう事もあって、天気が気になる毎日であった。発芽してしまったものは味、収量も落ちる。

ぼうち(棒打ち・脱穀)

脱穀ぼうち(先がくるくる回る、くるり棒と言う道具で麦の穂をたたき、籾を落とす脱穀を行った名称の名残)、脱穀機は戦後に購入したと聞いている。その前は、棒打ち、千波子機などを使用していたとも聞いているが、脱穀機は高価なものであったので、近所の農家と共同で購入し、順番を決めて使用したそうだが、策杖の多い農家が優先し、時間的にも天気の状況により、自由度がない、思う日にちに使えないなどの不満があったとも聞く。そのためにその後は個人所有として、各農家が購入し、使用することとなった。

脱穀機は、1馬力のモーター(どこかで中古品を買い求めた。)を動力とし、長いベルトで繋げられ動力をドラム(脱粒させるための爪めが付いたドラム状のもの、回転させることで脱粒を行った。)につながり機会を駆動させた。ベルトは長く、輪になっておりつなぎの部分は金属でつながっていたために、「ぺった、ぺった}とと音をさせて回転した。脱穀機の投入口から、一株ごとに、籾を先に入れ、籾が落ちるとわらはかたづけられ、籾は扇風機により選別され、充実した美濃は言った籾は、網より下に落ち、のげや葉は機械の先から噴出される仕組みであった。父は、脱穀役で子供は機械の下にたまった籾を箕に掻き出し、貯蔵場まで運び、前に吐き出された藁ごみを熊手で書き、置き場所へと運んだ。吐き出される麦ごみは、土もろともに吐き出され、子供はその埃にかまわず、風を受けるのがおかしくて、はしゃぎ遊ぶ、早速、父から叱られるのが常であった。

脱穀された籾は、唐箕といわれる選別機(内蔵する四枚羽の板がハンドルと連動して回転するようになっており、唐箕の上部に配した漏斗(じょうご)から少しずつ穀物を落下させ、そこに横から風を送ることで、藁屑や実のない籾などの軽いものを吹き飛ばし実の詰まった重い穀粒だけを手前に落とすのが基本的な原理である。) にかけさらに選別を行った。

麦の作間の利用

麦の作間を利用して独活の種根を植え付け、麦を収穫、スイカの植え付けをしたのちに、三角帽子を取り去り、麦を青刈りし、好き藁代わりに活用し、ピーマンを作間に植え付け、風邪から守る役割、病気の繁殖から株を守り、麦を収穫した。このように麦の収穫後の作物の生育を守るために活用するために作間は決められた。麦の作間を活用することは、作業性が悪い半面、風邪から作物を守る、空気の移動を少ない株間に植え付けを行い、病気の繁殖から守るなどの効果を活用したものである。

唐箕(とうみ)

中国で開発されたといわれており、宋応星の『天工開物』に「風扇車」として最初の記述が見られる。

日本では、佐瀬与次右衛門の『会津農書』(1684年刊)で紹介されたのが最初である。『和漢三才図会』(1712年刊)にも記載されており、そのころから日本の農家にも広がっていったと考えられ、近世期から現代まで使われてきた。稲作が機械化したのちも唐箕は豆やソバ等の選別に使われ、現在でも農機メーカーからかつての木製のものと基本的に同じ構造の唐箕が市販されている。価格は数万円程度である。

内蔵する四枚羽の板がハンドルと連動して回転するようになっており[1]、唐箕の上部に配した漏斗(じょうご)から少しずつ穀物を落下させ、そこに横から風を送ることで、藁屑や実のない籾などの軽いものを吹き飛ばし実の詰まった重い穀粒だけを手前に落とすのが基本的な原理である。 落下させる穀物の流量を調節する弁が漏斗の下部に配置されており、穀物が落下しないように止めることも出来る。漏斗の下には穀物を唐箕の外に取りだす樋が2本配置されており、風に飛ばされずに重力で真下に落下した穀物を受けとめる樋が一番樋、風によって少しだけ横に飛ばされる、しいな等の軽い穀物や、選別の不完全なものを受けとめる樋が二番樋とそれぞれ呼ばれる。藁屑、籾殻、蕎麦殻、豆殻等の軽いものは、風に乗ってそのまま機外に排出される。

使い方は、風車を回転させるクランク状のハンドルを右手で回転させながら、左手で漏斗から落下する穀物の流量を調整するのが基本である。良好な選別を得るためには、風車の回転数と落下させる流量の調整にある程度の慣れを要する。現代の唐箕は、風車を電動モータで駆動するものもある。

この脱穀した穀物を風選する原理は、脱穀と選別を同時に行う自動脱穀機にも応用され、現代のコンバインやハーベスター等の農業機械の脱穀機にも、穀物の最終的な選別機構として使用されている。これら現代の脱穀機においても、選別の済んだ穀物を一番、選別が不完全で再選別を要する穀物を二番と呼ぶのは唐箕の名残りであり、風選の風を発生させる風車を唐箕ファンと呼んだりする。

出典:フリー百科事典「ウィキペディア」

脱穀の日の昼食、おやつ

脱穀は梅雨の合間に家族全員で行う仕事であり、お茶を飲む時の菓子や昼飯のおかずが普段と違い、大変楽しみであった。

菓子は、前日の残った麦飯にうどん粉をつなぎとして団子を作り、焼きあげて、砂糖で甘く味付けられた甘辛醤油を付けて食べるやきもち、ほうろく鍋を使い、うどん粉に卵を混ぜ、重層でふっくらと焼きあげ、砂糖を付けて食べるパン(やきもち)などであった。

昼飯は、麦飯に煮干しで出汁をとり、ざく切りしたネギの入った醤油味の水とんであった。水とんの団子はうどん粉を水で溶き、スプーンで汁の中に落としただけのもので、固練りを好んだが、硬すぎると心にうどん粉のだまができる。芯までしっかりとゆだるようにするには熱湯で粉を練るのがコツで有った。団子は湯がくことをしないために汁にとろみが付き、そのとろみを味わった。

脱穀は、長いベルトの先に1馬力の真っ黒な電機モーターを動力源とした、「千代田式脱穀記」と名がついた脱穀機で行われた。ベルトは決められたように等間隔の間をおいて「ペッた、ペッ田」と心地よく音を立てて脱穀機に動力を伝え、回転させていた。音はベルトを輪につなぐ金具がぷーリーを通過するたびに発するものであった。脱穀機のプーリーとモーターのプーリーが平行にならないと外れてしまう、荷重がかかると固定しているものがずれを生じてしまう事から、常に観察していなければならず、その調節が必要となった。

脱穀機は口から麦の穂を入れると金具の突起が付いたドラムが回転し、麦の穂から籾を落とし、籾の先に付いたノゲを落とすもので、格子の下の回転翼から来る風によって、格子の下に思い籾を落とし、不要な土、ノゲ、茎、葉などを機会の中から外へ吹き出す方法であった。子供は、機誡の横に、作業がしやすくなるように麦の束を運び、吹き出されるごみの前で、熊手を使い運び出し、たまった籾を見を使い他のところに運び貯蔵することが仕事であった。子供たちは、作業の手伝いや、周りを駆け回り、危険な機械の近くで大はしゃぎをするもので、機械の音で声は聞こえないことも多く、幾度となく父や母は、げんこつをくれる事や棒でたたくのが仕事でもあった。

アイスキャンデイ売り

この季節にはよく小さなリヤカーに保冷庫を積んで、「ちリン、ちリン」と鐘を鳴らして、アイスキャンディ売りが回ってきた。普段は「腹を壊すから駄目だ。」「あのおじさんはおしっこをした後に手を洗ってなかったから駄目だ。」などと言って買ってくれることはないのだが、脱穀の日には、何とか拝み倒して買ってもらう事が出来た。私は元来腹が丈夫でなかったことから、食べると早速腹の調子がおかしくなり、腹痛を起こすことになった。原因は、キャンディー売りの不衛生から来るものなのか、食べ慣れない冷たい氷を食べたためなのか、明確ではない。

籾の天日干し・麦乾し

脱穀を終わった籾は、唐箕(細かいごみと籾を選別する機械)を使い籾だけに選別し、まだ活動をしており、積み込むと蒸れて発熱し、品質を悪化させるため、乾燥させ活動を止め、休眠状態にするために、籾をむしろに広げ乾燥させる(麦乾し)を1週間程度行った。麦乾しは、庭一杯に蓆を広げ、その上に麦を広げ乾燥させた。夕方には、籾をむしろ1枚1枚に寄せて、仕舞い込み、朝になると出して広げる作業を子どもたちが行った。雨が降り出すと大変で、急いで家に帰り仕舞い込む作業を大急ぎで行った。

乾燥が終わると、袋や俵に60キログラム詰めて貯蔵し、必要に応じて、水車に持っていき、粉や、押し麦、引き割を作ってもらって、粉は饅頭やうどんを作り、押し麦や引き割は麦飯として食べた。お盆には、新しく取れた小麦を粉にひいてもらい、新粉のまんじゅうをつくり、うどんを客や家族で味わい、出来の良さを確認し、「今年の粉はうまいな。」と話がはずむことであった。

俵のしめ方

農家の庭・子どものあそび場

農家の庭は脱穀や麦乾し、小豆、大豆、ゴマ、落花生などの他の雑穀類の脱穀、乾燥などの作業の為、苗床を作る敷地として活用するために広く平らに作られていた。毎日、竹箒で掃き清めるのが子供たちの朝の仕事とされた。秋から冬には落ち葉が多く、その落ち葉を掃きためては1ヶ所に積み込み、堆肥を作る材料ともなった。また、小学生のころには、広い庭で、小さなゴムまりを使った、三角ベースが行われ、友達がたくさん集まる良い遊び場ともなった。また、ハンミョウ幼虫が小さな穴をたくさんあけることから、ハンミョウ釣りを行うなど昆虫観察や遊びの場ともなった。

花まつり(灌仏会)・ヨモギ餅

4月8日 お釈迦様のご誕生を祝う聖日である。釈迦誕生の際には天から、九頭の龍がやってきて甘露の雨を注ぎ、産湯に使わせたというという事にならって、色々な草花の花で飾った花御堂に、右手で天を差し、左手で地を差し手いる誕生仏を水盤の上に安置し、柄杓で甘茶を灌ぎかける処から灌仏会と言い、別名で、仏生会(ぶっしょうえ)、浴物会(よくぶつえ)、龍崋会(りゅうげえ)とも言われる。お釈迦様は、生まれてすぐに、④法に七歩いて、右手で天を、左手で地を差して「天井天下唯我独尊」(皆それぞれがかけがえのない存在である)と唱えたと言われている。

日本では、仁明天皇の御代。承和7年(840)4月8日に、清涼殿で初めて灌仏会が修せられました。その後、毎年宮中の恒例行事となり、しだいに民間でも行われるようになりました。

甘茶づるの葉から作られた甘茶は、甘茶を飲むと病気をしないと言われ、家に持ち帰り家族で飲むなどの参拝者もおり、寺で誕生仏に、柄杓で甘茶を灌ぎ、甘茶を御馳走になりさらには分けて頂いた。

蓬餅(よもぎもち、よもぎだんご)

前日に蓬の新芽を取りに行くのは子供の役割であった。現在とは違い、雑木林の淵や畑のふちに自生しているものを摘み集めた。母は、前日に小豆をゆで始めて準備を進め、餡子をつくり置きした。

次の日の朝早くから起きだして、色がしっかり残るように蓬の芽に熱湯をかけ、熱湯でこねた米粉に加え、生地をつくった。記事を丸め、それを丸く広げて、真ん中に玉状にした餡を置き、二つ折りにし、せいろで蒸かし終ると朝職に食べた。

すいかの栽培

春になると夏果菜の植え付けが始まる。植え付けは4月8日前後に植え付けられることが多く、霜の被害には気を付ける必要があり、実際に被害も発生した年もあった。

スイカの植え付けは現在のようにビニールトンネルで、霜や風から守られることはなかった。

戦後の東京近郊の農業は、人口の増加に伴い農業として、活力、生産量が最大であった期間は昭和35年ごろまでであった。ホウレンソウ、小松菜などの葉物野菜、スイカ、キュウリ、カボチャなどの夏果菜、カブ、大根、白菜などの秋、冬野菜、ミツバ、ウドなどの軟化栽培による野菜など、その他の野菜で有った。

スイカの大生産地と都市化による農業の弱体化

スイカの生産は、どの農家も栽培し大生産地化した。またその裏作の白菜の生産も大産地化した。スイカの生産は出荷量がピークを迎えた後は長年同一作物を生産してきたことによる、生育障害や秀品率の低下を起こすなどの課題が顕在化してきた。また、鉄道や道路網の整備が進み、地方で生産される農産物が東京に流れ込むこととなり、近郊農業は次第と衰退してきた。結果として近郊農業は変化を余儀なくされ、野菜栽培では収益性が下落し、生活経済にも大きく影響をきたし、生産性の高い、高収益の農業作物が求められ、豚の肥育を行う養豚業や柘植の木の球ちらし栽培を始めとする、植木生産へと変化した。同時に人口増加を受けて、アパート経営が始まり、農家の経済を支えることとなった。

夏果菜の播種、育苗用、苗床・育苗床について

夏果菜の発芽温度は20度以上が求められたことや、生育の早期化が求められたことから、発芽温度の確保と温室効果を高めるための育苗用床が作られ活用された。苗床作りは、1月に苗床を作る場所を、四方を保温と風から守るために藁や麦わらの垣根を作り囲う事からが時められた。発芽促進用の苗床は、南傾斜に障子がかぶせられるように作られ、暮れに葛葉黄で集められた落ち葉を三〇センチメートル程度の厚さに下肥をかけ、藁やぬかを撒き踏み込みを行い、上に熱が逃げる事のないように土を五センチメートル程度の厚さで敷きつめ作られた。

ビニールの障子をかけ、むしろで覆い保温に努めると醗酵により徐々に発熱が始まり、一週間ほどで二〇度を超える温度となりピークを迎え、二週間ほどで、二〇度を少し超える温度で一定してくる。種を箱にまいたものを置くと、3日ほど経過すると発芽が始まる。発芽後は、床の内部の温度が上がり過ぎないように、温度管理が求められ、高温や太陽光による被害の発生があり、丁寧な管理が求められた。

夕顔の台木の活用

スイカの根の発達は必要なだけはあるものの、より多くの収穫を望むには不十分であることから、根が強靭で樹勢の強い夕顔の根を活用する、夕顔を台木とする接ぎ穂方法による栽培法が用いられた。

スイカの育苗は、発芽した夕顔の苗が二葉の内に鉢に一本づつ植え、発芽したスイカの苗を切り取り穂として、夕顔の苗の芽を欠き、生長点である所に穴をあけスイカの穂を挿すという接ぎ穂が行われ、育苗用の苗床に並べられ、温度管理、水くれの管理に毎日心掛けた。この接ぎ穂の活着には細かな技術が求められ、その後の生育に大きく影響した。本葉が五枚程度になるまで苗床で育苗し、作を切り、基肥と堆肥を積み、畑に定植を行った。

セロハン三角ドーム

定植時期がまだ霜や風を警戒しなければならない時期であった為に、細く割った竹を骨としてセロハン紙をかぶせたドームを作り霜や風を防いだ。セロハン紙は事前に、1辺が60センチ程度の紙を三角に切り、その1辺を糊づけして準備をしておいた。糊で貼る作業は子供たちの仕事となった。子供たちは、植え付けた後から竹の骨を挿し、3角形の紙を被せ、風に飛ばされぬように土を寄せる作業を行った。苗を植え付け、白い3角形のドームが規則正しく並んだ畑となった。ドームの中の気温の上昇により中の苗が焦げてしまわぬように、頂点に穴をあけ温度調節を行った。また苗が成長して中がいっぱいになると紙を破り生育の邪魔にならぬように紙を破り伸長を助けた。この頃になると追い肥をし、ドームを撤去し、草の発芽を抑えるために、スイカに泥が跳ねぬように全面に敷き藁をした。一本の苗から4~5本の枝が出、その枝1本に一つのスイカが収穫できるよう管理を行った。必要以上の実は小さな内に切り取り、糠づけなどにしてお新香として食べた。気温が低いと受粉率が悪く、結実しても球が落ちてしまう事もあった。枝が畑全体に広がり、葉で覆われてくると球が大きく成長する。7月に入り梅雨明け頃に収穫が始まる。球を指ではじいて充実度を確認し収穫する。最盛期には、1家が総出で収穫、子供たちは大きなスイカを抱えて運び出す。子供が成長すると、互いにスイカを投げて運ぶようになる。はしゃいで落としたり、割れたスイカを分けて食べるなど、大騒ぎをしながらの作業であった。収穫したスイカは、リヤカーに積み家まで運び、温度が低い、光の当たらない納屋に積み込んで置いた。一枝に一つのスイカを成らすことに心掛けたが、その枝の先に、スイカが結実することがあった。これを末成りスイカと言い、実の大きさも小さめで、味も落ちるために多くは出荷することなく、自家用に消費した。

スイカの市場出荷は、子供たちがスイカの表面の白い粉を落とし、光り輝くように磨き、「東京スイカ」のラベルを貼る作業を行った。夕方出荷する物は学校が終わると作業を行い、朝出荷するときは、学校への登校が始まる前に行った。出荷はほぼ7月中に終了した。

スイカの畑の保冷庫

畑に手伝いに行く日は、朝早く起きて、茶の木の陰などで日の当たらぬ所に穴を掘り、朝梅雨で冷えたスイカを埋めておくと保冷庫代わりになり、10時までには効果が高く、3時にはその効果は低下したが、食べるには温まることのないスイカが食べられた。

この時期に親類や知人の来客があると、お茶代わりにスイカが切って出され、帰りにはお土産として差し上げるのが通例となった。

子供たちは売らなりのスイカを使い、中の肉を欠きだし、竹で格子を作り虫籠を作り、クワガタ、セミなどの昆虫を入れ、飼う虫籠を作った。また、顔の形に、芽、鼻、口をくりぬき、中の肉を欠きだして蟷螂を作り、夜になると蝋燭に火をともし、夜の遊びを楽しんだ。

うら成りスイカ、カボチャの蟷螂作り、虫籠作り

子供たちは売らなりのスイカを使い、中の肉を欠きだし、竹で格子を作り虫籠を作り、クワガタ、セミなどの昆虫を入れ、飼う虫籠を作った。また、顔の形に、芽、鼻、口をくりぬき、中の肉を欠きだして蟷螂を作り、夜になると蝋燭に火をともし、夜の遊びを楽しんだ。

ひばり

暖かい日差しの中で、どこまでも青い空に天高く雲雀がさえずり、西の彼方に白い富士山が見え、奥多摩の山並みが黒く連なっている。黄色い菜の花が咲き、取り残しの大根から茎が伸び白い花が咲くころになると、冬を乗り越えた麦が分けつが終わり、茎が抽苔し、茎の上部が膨らみ始め、木々の芽が膨らみ、それぞれの木々の若葉が木々の個性を発揮し、色形が違う個性を発揮しながら動き出し、木々の新芽が出始めるころである。春の風景を醸し出している。

このころになると、真っ青な空にひばりがのぼり、盛んに囀りだす。父やお祖父さんから、ひばりは作物を食い荒らす虫を食べてくれることから、有益な鳥であるから、いじめてはいけないと言われていた。

ひばりは、飛び立ったところや、舞い降りたところに巣はなく、巣から離れたところから飛び立ち、舞い降り、きょろきょろしながら巣に近づき、離れてゆく。麦の株間に仰向けに寝転んでヒバリの降りてくるのを気長に待ち、ひばりが泣き終わるのを待ちながら、舞い降りた地点から、麦の株間から、行動を観察し、巣のありかを見つける。巣は麦の根元に、昨年の麦や草の根っこを丸く椀状に網巣をつくっていた。親雲雀が子ひばりにえさを与えて巣から遠ざかるのを待って、巣の中を観察すると巣の中には、早いときには、茶色のまだら模様の小さな卵が2~3個あり、卵から孵化した巣には、黄色いくちばしを思いきり広げた子ひばりが、こちらを向いてピーピーなき餌をねだるのであった。不思議なことに、親が巣を離れた時には、声も立てずに静かにしている。幾分大きくなった雛に、青虫や、ありんこを与えても食べない、巣にそれを置いておいても口をつけていないことが多く、親鳥が持ってくるエサは空に阿賀庵する間兄空中に飛んでいる虫を捕獲して、飲み込み、消化液とともに吐き出し幼鳥にあったえさを与えているのであないかと想像していたが、主は穀類を好み、虫なども食べることが後でわかった。

雲雀の由来

和名は晴れた日(日晴り)に囀ることに由来する説や、囀りの音に由来すると言われている。繁殖期が始まるとオスが囀りながら高く上がって行く「揚げ雲雀」と呼ばれる縄張り宣言の行動は古くから親しまれている。空の上で長時間停空飛翔(ホバリング)したり、空から地上に降りる時を「下り雲雀」といわれ、さえずる声が違う。

「上り泣き」、「舞い泣き」、「下り泣き」

鳴き声は、空に舞い上がるときは、垂直に上昇し、あげ雲雀と言い、「上り泣き」、上空で羽ばたきながら泣く「舞い泣き」いくつもの形式がある、降りるときは垂直に下降し、「下り泣き」とそれぞれに泣き方が違う。上空でさえずるときはいくつもの形式を組み合わせ、長時間さえずり続ける。聞いていると、さえずりの斑があるなど、上手、下手があり聞き手を楽しませてくれた。

畑の農道や麦の作の間に雲雀のさえずりを楽しみながら、あおむけに横たわっていると、青い空に吸い込まれるような気持になり、周りの太陽の光を受けた麦の緑にひと時我を忘れるような気分になりながら、雲雀の「下り泣き」を待っていると、垂直急降下をして地面に降り立つ、警戒をし、周りをきょろきょろしながら、餌を探し、捕獲しながら歩いている。真っ直ぐには巣に近づかない。

腹ばいになって雲雀の行く先を観察していると、巣は麦の根元に、細い草屋根を丸く積み重ね、真ん中を凹ましてできている。その中に雛鳥が一所に大きな黄色いくちばしのついた、羽が生え揃わないピンク色の雛鳥が、丸く体を寄せ合い、静かに親鳥の帰りを待っていた。親鳥が来るまでは静かであった雛鳥も、親が帰ると一斉に黄色いくちばしを上に向け大きく開けて、「ぴいぴい」と餌をせがんで泣き出すと、親鳥は、開いたくちばしに自分のくちばしを、突っ込みえさを何度も雛鳥にも与えていた。またすぐに巣を離れ、あるいて巣から離れた所から飛び立ち「上り泣き」を行い天高く舞い上がった。飽きることなく、あおむけに横になり雲雀を目で追いながら、さえずりを楽しんでいた。しだいに雛鳥も大きく成長してくると、親に煮た羽も成長してくる頃、そっと手のひらに包み込むようにすると、雛の体温が手に伝わり、温かさに驚きいつまでもそっと握っていた。親鳥が、雛が小さいときは、虫を一度自分で食べてから吐き出して餌を与えていたものが、大きくなると虫をそのまま与えるようになる。そのころになると、蟻、青虫、毛虫などを捕まえて巣に置いておくと、死んでいるものは与えず、生きている新鮮なものだけをちぎって与える。さらに雛が大きくなると、くちばしの黄色い部分も消えるころには、置いておいた青虫やミミズをそのまま雛に与えていた。そのころになると巣立ちの準備で、ひな鳥たちも巣から離れる事もあり、近いところに出て歩き、餌を探して地面をついばんで歩き始めるといつのまにか巣立ち、巣にもどることはなくなってしまった。

すずめ

スズメはいつも家の周りを飛び回り、鳥小屋の鶏のえさを食べ、畑では大麦、小麦を、家の周りでは犬や猫の餌を、家の者がなべに残ったコメや麦を庭にまくとそれを食べていた。だからといって何も恨みを買う鳥ではなかった。

小さな鳥はえさを食べずにいると一日も生きてはいない、死んでしまうと言われ、ものほしそうに丸い眼をした顔を向けられるとかわいい姿に、何か微笑みを感じる鳥であった。

営巣

「寒」を過ぎるといつのまにか2匹で木の枝の間を飛び回り、地に降りてえさを見つけながら、ついばんでいる。その内に、屋根の隙間や木の祠に草や細い枝をくわえては出入りし、巣作りに励む姿を見ると春を感じたものだ。枯れ草などを口に銜え、軒下や屋根の隙間、木の枝の間に運び込み、盛んに巣作りにいそしむ姿が見られるようになり、時折には巣を覗き込み、卵を産んでいないかを確かめて見る。卵が生まれるのを楽しみにしていた。

子育て

小さな声が聞こえると、巣の中には、目が明かない、体の大きさに比べると大きな黄色いくちばしをもった、「んんんん」と餌をねだる小さな声が聞こえてくると、まだ目が開いていない、毛の生え切らないあづき色した幼鳥がいて、羽毛の生え揃わない、幼鳥を温めており、身を寄せ合い、裸で嘴が黄色い雛鳥が、親の帰りを待っており、親が巣にもどると、声をあげて口を大きく開いて餌をねだる。親鳥はせわしなく入れ変わり外に飛び出し、えさを持ち帰り、口移しで、えさを与えている。

ひな鳥は時に他の雛により巣から追い出されたりすることもあった。そのひな鳥を可哀想だと拾い上げ、擦り餌やご飯粒、小さな虫などを口に入れてはみるが、育つことはなかった。雛が何かの原因ですから出てしまうことがあり、元の巣へ返してあげることもあった。巣へ返すことができなかった場合、その雛を何とか成長まで面倒を見ようと試みるが、大方の場合は死んでしまうことが多かった。

巣立ちに近い雛は、小さな虫や米粒などを与えると、よく食べた。羽がしっかりとしてくると、巣の中で飛び立つ練習をするようになると、親鳥は、青虫などのえさをそのまま与えていた。巣立ちは、意外に早く、まだしっかり飛ぶことができない幼鳥もおり、地面に降り立ち、歩き回っているものを捕まえて、当時は猫などの動物から守るために、捕まえて、あり、青虫、アブラムシ、米粒を与え、成長を助け、巣立ちするのを助けたことがある。

原因は、まず体温調節ができなかったのではないか、給餌の種類や方法が親鳥と違っていたと考えていた。

巣立ちに近い雛は、小さな虫や米粒などを与えると、よく食べた。羽がしっかりとしてくると、巣の中で飛び立つ練習をするようになると、親鳥は、青虫などのえさをそのまま与えていた。巣立ちは、意外に早く、まだしっかり飛ぶことができない幼鳥もおり、地面に降り立ち、歩き回っているものを捕まえて、当時は猫などの動物から守るために捕まえ、あり、青虫、アブラムシ、米粒を与え、成長を助け、似鳥立ちするのを助けたことがある。

巣立ち

空に舞い上がり、木の枝へと飛んで行った。巣立ちのころには、春の花が咲き木々の芽が動き出し、小さな虫たちも活動始めるころで、餌の獲得がしやすいころとなっている。小さな鳥たちは、太陽が昇ると夕方日が傾くまで餌を探し、啄んでいる。畑では大麦小麦を群れで舞い降りて来て、餌にしていた。缶を叩いたり、大声を出して一度追い払うと「バット」と飛び立ち、どこかに隠れ、人の気配がなくなるとまたやって来て、いたちごっこであった。

雀のお宿

小麦を生産しているころは、スズメの数も多くおり、小麦を食べる音が聞こえるような数が畑に舞い降り、脅しの音を出すと一斉に飛び立ち、何日もしないで、食べつくされてしまうのではないかと思えるほどであった。夕方になるとねぐらに帰るために一斉にに飛び立ち、小さな群れが集まり、夕方の空の色が変わるほど、大群が空を覆った。群れで活動することが多く、木の枝にとまっても寄り添いているのは、体温保持のため、危険を察知するため、えさの確保がしやすいためと思われる。雀は近くの広葉樹の木のえだや竹藪をねぐらとしており、寝静まることはなく、さえずりがいつまでも続き、騒々しいものであった。

夕方になると、どこかで飛び立つと次の群れが飛び立ち、大きな群れとなって、寝床の雑木林の常緑樹の木の枝や竹やぶに入る。その中は泣き声で騒々しい状態で、いつしかしだいに静かになる。

竹やぶのスズメとり

スズメが寝床の竹やぶに入り静かになったころ、子供のころは、周りに街灯も無く、月明りだけであったから、竹やぶの中は真っ暗であった。スズメが寝床の竹やぶに入り静かになったころに丸太を持ち、かすかな月明りを頼りに竹やぶに入り、めぼしい竹を思い切り丸太で力いっぱいたたくと、スズメが地面に落ちて、羽をばたつかせる。それを急いで捕まえた。鳥は鳥目で暗いところでは目が利かないものと考えていたが結構な数を捕獲できた。次の日に焼いて食べたが、次の日にはほぼ死んでいた。

雀取り(バッタん返し)・霞網・焼き鳥

庭で、かごを売ア返しにして、その下にえさ、米粒などを撒き、スズメを誘い込む仕掛けをつくり、入り口に小枝に糸を付け、その端を離れたところで持ち、スズメがそこに入るとひもを引き、かごをかぶせて捕獲した。大方はうまくいくことはなかったが、遊びとしては、いろいろ工夫することで面白く遊んだものでした。また、現在では使用禁止となっているが、当時では畑の端にカスミ網を張ると大量に捕獲でき、焼いて食べた。食べ方は、捕獲して、ンあるべく早期に、まずできるだけ毛を手でむしり取り、腹を裂いて、背中にある{どり」といわれる部位を取り、炭火で焼き、生醤油を付けて食べる。

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