頃中に世の中が騒然とする中で、疫病退散のご利益で知られる元三大師が東京国立博物館・平成館に出開帳を行った。

伝教大師1200年大遠忌記念 特別展「最澄と天台宗のすべて」が開催され、その中で天台宗の歴史と深大寺の関係が展示された。深大寺「元三大師像」が205年前(文化13年)江戸両国で、「元三大師像」と胎内仏「鬼大使像」が出開帳された。「その丈、5寸ばかり、両足の爪先を立て、膝を搗き前こごみに座したる裸形の夜叉のごとし…その様、異形にして恐ろしき容体、まこと降魔の像と言えるもよろしきなり…この降魔の像は元来元三大師木造の腹籠めのよしなり…(江戸の様子・遊歴雑記)元三大師が鬼のごとく身を変えたお姿だと言われている。見るからに小ぶりでしかしながら細部にわたり彫刻された姿は見事な出来栄えで、異様な凄む鬼そのものではないかと思える。50年に一度の御開帳を待たずに参拝できたことは大変な幸運であった。「鬼大使像」は元三大師の胎内仏であったと言われる。この像がつくられた時から胎内に納められていたものと考えられるが、元三大師を製作する時の思いや願主は、目的、意義づけはなんであったのか、体内にあって、人の目に触れることの無い仏様である。参拝する人に何を伝えたかったのか。風貌は、筋肉隆々で、締め込み一本、頭の上に水球を置き、牛の角のような大きな角を持ち、鬼の面のように彫が深く、口は耳まで裂け、歯・牙をむきだしている顔立ちである。背筋をまっすぐに、右の手に宝棒(独鈷杵ではないかと考えるが?)を持ち、太ももに両手を突っ張る様に置き、追立の指の爪は伸び、尖っている。両膝を搗き、足は爪が伸び、つま先を立て、かかとの上に尻を置いた姿、まさに鬼の形相でいつでも飛び掛かる姿勢、前を見据えている、鬼そのもののように見える。人々が驚きおののくのは無理もない。



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由緒

元久2年(1205年)武蔵野開拓にあたり、菅原道真公の徳を敬い社殿を造り、天満宮とした。と伝えられている。創建された。天正11年(1583年)賀茂下出雲入道勝重という人が、小金井の地に住み大いに開拓に努力し、里人と共に資金を集め社殿を修築した、菅原道真を祀る天満宮。

宝暦元年(1751年)当時の名匠である江戸神田に住む粉川市正康信に、 道真公の坐像(高さ42.4センチ)の彫刻を依頼、現在これが御神体として祀られている。

また、御本堂は宝暦年間の造営であるが、拝殿は明治27年に建てられてたものである。その後、御本殿は平成4年に氏子の協力をえて改築工事が施されている。平成14年御神忌千百年記念事業をして、参道敷石改修と大太鼓を製作。境内には多数の末社が祀られている。

石臼塚

昭和48年生活用具であった臼を一同に集めたもので、臼には、米を脱穀する「からうす」、精白する「陣がらうす」、餅をつく「たちうす」、精粉する「石うす」があります。

疱瘡神社

この建物は戦前国民小学校(現在小金井第一小学校)の奉安倉(教育勅語が納められていたもの)を再設置された。銅板に御大典記念昭和三年十一月建之。小金井小学校同窓会と刻まれている現在では非常にめずらしい建物である。

稲荷神社

御神祭は宇迦之御魂神で「宇迦」とは「食べもの」を意味し、 日本人の主食の米の生成をお守りくださる神様。五穀豊穣、産業興隆、除災招福の神として崇敬されている。

熊野神社

御神祭は伊邪那岐命、伊邪那美命で、病気平癒、安産の神として崇敬されている。

大鷲神社

御神祭は天児屋根命で「お酉さま」と呼ばれ、商売繁盛の神様で、 大鷲神社の社殿は、旧中島飛行機三鷹研究所内にあった社を譲り受けたと伝わっている。

小金井神社ホームぺージより
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