広島平和記念日

我が家に歩きの中で最も古く、太い木が禅寺丸のカキの木である。我が家が大正12年に隣から引っ越してきたときに、一緒に移植された柿木で、言い伝えに寄れば、100年以上生きてきた木である。
其の太さと、なぜ禅寺丸であるのかに興味を持ち、禅寺丸が気の原木があると言う、王禅寺を訪ねた。川崎市の等地域は新興住宅地として開発されているものの、尾根筋にある生活度道路などのために分かりずく、寺としては古いが、観光地化が進められておらず、地名は広く使われているが解りず楽、到着までに苦労した。

王禅寺(おうぜんじ)は、川崎市麻生区王禅寺940にある真言宗豊山派の寺院。正式名は星宿山蓮華蔵院王禅寺。
「王禅寺」は付近一帯の地名にもなっており、「東の高野山」とも呼ばれた。
寺紋は三つ葉葵。
日本最古の甘柿の品種と言われている禅寺丸が発見された寺として知られ、境内には国の登録記念物に登録された原木が残っている。

 中世には、久良岐(くらぎ)郡金沢(現在の横浜市金沢区)称名寺の末寺として、禅・律・真言の三宗兼学の道場として栄え、戦国時代には小田原の北条氏によって都筑郡麻生(あさお)郷に30貫文の寺領が安堵され、関東の高野山と呼ばれていた。
最盛期には真言密教を修行する七堂伽藍を持つ学問寺として檀家を持たず、近隣の末寺36ヵ寺の本寺(大寺)として、末寺からの上納により運営されていた。
延喜21年(921年)高野山の熊空上人により真言宗の寺となる。
江戸時代幕府より三十石の朱印与えられた。徳川幕府の歴代の将軍(徳川家康を始めとし、後の13人の将軍)の位牌を奉り、将軍家より葵の御紋の使用を与えられた。

柿生(かきお)の地名のおこり本堂前の庭には、禅寺丸柿の原木(国登録記念物/かながわの名木100選)が現在も保存されています。

禅寺丸柿の発見から150年あまり後の応安3(1370)年・建徳元(1370)年、朝廷は元弘3(1333)年の新田義貞の鎌倉攻めの兵火により灰燼と帰した王禅寺の再建を称名寺の等海上人に命じました。
用材をもとめて王禅寺の裏山に入った等海上人は熟した柿の実を見つけて口にしたところ、あまりに美味であったため、寺に持ち帰り植え、村の人々にも栽培を勧め、近隣にまで広めたといわれている。近世には、江戸の市場へも出荷し、年間100両ほどの売り上げとなり、村人の貴重な現金収入源となっていた。

 禅寺丸柿の原木の傍らには、王禅寺の自然を愛し度々訪れた北原白秋(1885~1942年)によって執筆された『王禅寺に想う』(昭和10年)の句碑が建立されています、この句碑には、白秋自筆による「柿生」の句が刻まれており、昭和42(1967)年11月2日に白秋の門人「白菊会」の人々によって建立されたものです。

本堂に掲げられている額(本堂全体写真は撮影できなかった)[

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