高幡不動に行きお参りと、毎月第3日曜日(今年はコロナウイルス禍のため不定期であった。)に開催されている、古着や古道具の店が並ぶ「ござれ市」を見学した。

調布駅より京王線に乗り「高幡不動駅」で下車、商店街を通り五重の塔を目指して進むと川崎街道にあたる。

信号機の前に立つと高畑不動尊の全景が目に入る。川崎街道を渡ると目の前が「高幡山」の扁額が掲げられている仁王門である。大香炉を横目に不動堂に向かい参拝する。

不動様は幕で隠れていたが前回来た時に拝見したので略し、奥伝に向かったが、前回、土方歳三・近藤勇などの天然理心流に関わる展示、寺宝が展示されているが、見学したので省略し、上杉顕頸の墓所を参拝、道すがら出展されているござれ市を見て回り、希望の物はなかなか無いが、瓶のかけらを売っているなど、面白いものが目に留まった。

その後、五部権現社、山門をくぐり、大日堂を参拝(一定の場所に立ち、手をたたくと音が帰ってくる「鳴り龍」が描かれている)、聖天堂、太子堂、虚空蔵院、五重塔を順に参拝する。その後、近藤勇、土方歳三の碑、土方歳三像を参拝。

目次

高幡不動尊金剛寺

平安時代初期に、天台宗最澄の弟子である円仁慈覚大師が清和天皇の勅願により統治を投函鎮護の霊譲渡と定めて不動堂を建立し不動明王を安置したのが始まり。

その後、台風や火災に見舞われたが再建され、江戸時代には関東十一壇林・火防の不動尊として広く庶民の信仰を集めた。門末36ヶ寺を従えた大寺院であったが、火災により多くの伽藍が焼失し、その後復興に努め昭和50年代に復興が加速し現在の寺観となったと聞く。

本来であれば総門から境内に入り大日堂を最初にお参りすべきと考えていたが、見上げるような仁王門から境内に入ることとした。

扁額には高幡山時され、両側に仁王様が収められた門の前で一礼をして境内へと進む。

水屋、線香の煙がたなびく大香炉が並び、不動堂である。堂の中には、金色の道内に、火防不動、汗かき不動とも呼ばれる霊験多岐にわたる不動明王座像(古来日本一の不動三尊と言われ、関東不動信仰濫觴の霊像と言われる。)が剣を立てて持ち端座し両脇にこんがら童子像、せいたか童子像が祀られている。

不動明王は大日如来の化身であり、密教の最高の尊格であり、五大明王の中心仏である。

怒りに満ちた顔に目は左右違った方向を見ている片方を窄めて居る。

牙が上下互い違いに出ており、体は黒く(本来は青黒い)右手に剣、左手に縄を持ち、光背ははばたくような形の迦楼羅炎である。

矜羯羅(こんがら)童子・矜羯羅(こんがら)童子

八大童子とは不動明王に使える童子で(眷属・脇侍)、中国で撰述された「聖無動尊一字出生八大童子秘要法品」という経軌をよりどころとしている。

八大童子(どうじ)が不動明王より出生し、仏の智恵である四智と、金剛界大日如来の周りを取り囲む四波羅蜜(しはらみつ)菩薩の役割を司ることが説かれている。さらに八大童子の真言・像法(姿)・供養法についても記されている。

矜羯羅(こんがら)童子

15歳の童子(どうじ)のようで、頭には蓮華の冠を戴き、体は白く合掌した手には独鈷杵を持ち、天衣と袈裟で厳飾する。

またその性格は小心者で従順であるとされ、童子像の穏やかで親近感のある表情にそれがあらわされている。

制多迦(せいたか)童子

姿は肉身が紅蓮華(ぐれんげ)のような赤色で、頭髪を五つに束ねる五髻(けい)とし、左手に縛日羅(ばざら)(金剛杵)を、右手に金剛棒を持つ。

制多伽童子が不動明王の真の心を知らない衆生に対して忿怒の心を込めて接するとされることから、「悪性の者」と説かれるが、しかし童子像は微塵も「悪性」を感じさせることはなく、颯爽として非常に理知的な印象を受ける。

目次