布田天神・大正寺・長久寺

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布田天神・大正寺・長久寺

布田天神社の催し物の日(つくる市)であったが、週によって一の種類が違っていた。

布田天神では毎週日曜日に市が開かれるようだ。

且つては、天神様の縁日である毎月25日に市が開かれていたが、骨とう品、農機具、生活雑貨などの市で、12月には年の市として、正月用品、神棚などで使用する物、臼、杵、釜、蒸籠、鍋などの外、正月用品、鍬、釜など、かご、笊などの竹製品や農機具、弓破魔、羽子板などの季節の祝い品などの店が所狭しと並び、賑やかな市となっていた。また一の日には能が舞われていた。

入り口の大鳥居・市の案内看板

境内入り口の狛犬一対・牛の像

拝殿前の一対の狛犬は、寛政八年(1796年)に市の繁栄と商売繁盛を祈願して建立されました。

調布市内ではもっとも古い狛犬で、調布市有形文化財となっています。 願主は「惣氏子中」「惣商人中」とあり、今から二百年前、すでに天神の市が開かれていたことを物語っています。

金毘羅神社

菅原道真公は、丑の刻の御生誕で牛を大切された。

公薨去せられ葬送の途中、柩車の牛が臥して動かず、公の御霊が自ら鎮られる所を定められたと牛に関する神秘的伝説が数多く残ってる。

御祭神 少名毘古那神(スクナヒコナノカミ)

神産巣日神(カミムスビノカミ)の御子神であられます。大国主神(オオクニヌシノカミ)と兄弟神となり、相協力してこの国を作り堅められました。諸国を巡り、人々に多くの知恵や技術を授け、助け導かれました。経営の神、酒造の神、温泉の神、医薬の神として広く崇め祀られています。当社では古くより虫封じ、病気平癒、健康祈願、商売繁盛の神事が行われております。また、大国主神(大黒さま)と手を携える、恵比寿さまとして知られています。

布田天神パンフレットより

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境内末社について
金刀比羅神社社 大物主神(オオモノヌシノカミ)大黒様 海上交通、船、交通安全の守護神
大鳥神社 御祭神 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)開運、商売繁盛
稲荷神社 宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ) 五穀豊穣、商売繁盛
御嶽神社 櫛真知命(クシマチノミコト) 火災、盗難よけの守護神
祓戸神社 祓戸神(ハラエド神)   罪穢れ、災厄を清めてくださる神
疱瘡神社 疱瘡の神(ホウソウノ神)疫病を司り、疫病を鎮めてくださる神)
厳島神社 市杵嶋姫命(イチキシマヒメノミコト)田心姫命(タゴリヒメノミコト)湍津姫命(タギツヒメノミコト) 福徳、知恵、音楽の守護神、弁天さま、水神さま

布田天神パンフレットより

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疫病鎮静祈願 特別隷従御朱印
☆妖怪 クタベ
「4,5年以内に原因不明の難病が流行し、多数の死者が出るであろう。 しかし、わが姿を見たものだけは助かる。われの姿を絵にして、家に貼っておけばその難を逃れるであろう。」
☆妖怪 アマビエ
「私はアマビエというものである。これから6年間は豊作である。もし疫病がはやったら、人々に私の写し絵を見せよ」

布田天神パンフレットより

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金毘羅神社
大島神社
稲荷大明神

布田天神をお参りした後に大正寺を参拝する。

普段参拝する機会もなく過ごしてきたが、長久寺のお施餓鬼の時に列席いただいているお坊さんの中に大正寺のご住職がいらしたこともあり、最初は庭や本堂を参拝して帰るつもりであったが、西門を入ると京都の古刹に迷い込んだのではないかと思われるくらい、掃き清められた参道、整備が行き届いた庭があった。

紅葉の時期には素晴らしい景色を彷彿とさせられ、思わず写真に収めた。

その後、来客と会話をしていた、品を感じさせるご住職の奥さんと目が合い、お話をすることとなり、長久寺の檀家であることを伝えると、「宍戸さんですか」と言われ、感動し、長久寺との関係をお話ししてくださり、長久寺前住職と現住職と親しい間柄であることをお聞きした。また、真義真言宗であり同宗派であることが分かった。

御朱印を賜り丁寧に御礼の挨拶を行い下山した。

新義真言宗寺院の大正寺は、三栄山と号し、廣福山栄法寺と、紫雲山寶性寺、三栄山不動院の3ヶ寺が大正4年に合併、三栄山大正寺として創建した。

栄法寺は、当寺境内にもとよりあり、現在は墓域、布多天神社の別当寺を務めていた。現本堂は、栄法寺の本堂を、観音堂は不動院より移設したものといい、観音堂は多摩川三十三観音霊場8番札所に、恵比寿神は調布七福神の一つ、多摩八十八ヶ所霊場5番札所である。その後、長久寺を訪れ、住職さんとお話をさせていただき、御朱印を頂いた。

入り口・山門
池より観音堂を望む風景
入口より本堂の風景
六地蔵

郷学校とは、江戸時代中期ごろから明治時代前期にかけての教育機関のことで、寺子屋や私塾より公共性が高く、近郷でも数校を数えるにすぎない特色ある教育施設であった。
布田郷学校はそのなかの一つで、上布田の住人原豊穣の設立した育英学校を、明治4年(1871)栄法寺を校舎として開設された。
布田郷学校は、発足するにあたり、原豊穣等五宿の有力者たちが中心となって、近郷の村々の協力を得て開校したものであるが、この郷学校は養豚所を経営(出資者は近隣の篤志者からの出資金を元手に運営され、三鷹からは、吉野泰蔵、渡辺万助、吉野幸次郎、宮川軍二などがいた。)することによって得た収益を学校の運営費にあて、授業料を一切とらなかったという特色のある学校であった。
養豚所の経営不振から明治7年閉鎖し、公立布田学校(現在の第一小学校の前身)となるまで、公立学校に代わる重要な役割を果たしてきた。

調布市教育委員会掲示より

明治4年7月、明治新政府は新日本建設のために文教行政を司る文部省を設置、明治5年新しい学校制度「学制」が交付された。子供全員を就学させる四民平等、教育の機会均等を目指した。当時設立されたのが、三鷹では、時習校(牟礼村・下連雀 真福寺 高橋亭之助)、明月校(新川村しゅく・烏山村 新川威徳院)、仙流校(中仙川村・新川本村)、連雀校(井口新田・上連雀村 井口院)、大沢校(大沢村・野崎村 長久寺)に整理され、調布では、布田学校当初栄法学舎と言い、栄法寺を使用、国領学校(含翠学舎)、石原学校(開心学舎)、深大寺学校(深大寺多門院)、滝坂学校(金子村滝坂)が郷学校として開設された。その後明治22年市町村制施行により村内学校の統廃合が進められ、明治24年に東三鷹小学校、明治25年に西三鷹小学校が開設された。また、学校運営は、学校の先生の給料が払われなくなったりすることもある厳しい状況であった。さらに就学率も低く、義務教育を受け入れるだけの社会的、経済的環境になかったと言われている。

「三鷹の歴史」宍戸幸七著より
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