長野県善光寺参詣

前日に友人より、「前立本尊」絶対秘仏と同じ形をした、真中に阿弥陀如来像、右に観音菩薩、左に勢至菩薩が並ぶ仏像の7年に一度の御開帳が行われることを知り急遽参拝を思い立ち参詣した。

武蔵境より東京駅へ行き、7:52発JR北陸新幹線はくたか553号金沢行きに乗車、9時30分に長野着、バスに乗車、善光寺大門前で下車。

雨が降る予報であったが、晴れ上がり行動しやすくなるので大いに喜ばしく、この参詣を待っていてくれていたのではないかとさえ感じ、仁王門へ続く参道の右側には、「坊」の名が付く宿坊が並ぶ、各宿坊はそれぞれが寺で、住職が居り,御本尊をお祀りする一つの寺で、歴史と風格がある。右側は「善光寺大本願」があり、善光寺を護持する浄土宗の本坊で、会期は蘇我馬子の娘と言われる尼僧寺院。代々皇室とゆかりがある住職で「尼公上人」と呼ばれ、善光寺住職を兼ねる。

「大勧進」善光寺を護持する天大一山の本坊で、住職は善光寺の住職も兼ね、「貫主(かんす)」と呼ばれる。
御開帳期間中は厄除けのご利益があるとされる不動明王と縁を結ぶ「結縁柱」が建立されていたがお参りをすることができなかったが、遠くから手を合わせお参りしたこととした。

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仁王門

仁王門は、宝暦2年(1752)に建立されたが、弘化4年(1847)の善光寺大地震で焼失し、その後、元治元年(1864)年に再建されるも、明治24年(1891)の火災でまた焼失。

現在のものは大正7年(1918)に再建され、高さは13.6メートル、間口13メートル、奥行き7メートルのけやき造り。
向かって左に「阿形像」、右に「吽形像」を配置した仁王門。仁王像と、その背後にある三宝荒神・三面大黒天は高村光雲(高村光太郎の父)・米原雲海の作です。阿吽が一般的な配置と逆なのは、冬至の朝、すべての始まりを象徴する「阿形像」に朝日があたり、終わりを象徴する「吽形像」に夕日があたるようにつくられているともいわれている。

仁王門を通り、1700年に寄進された7777枚の石畳の仲見世通りには、両側に各種の土産のを販売する店舗や飲食店が並ぶ、それぞれの奥の通り釈迦堂通り、阿闍梨池通りには「院」の名が付いた寺院が並んでいる。
仁王門を通ると、目の前に大きな山門が目に入る。10時前ではあるが既に人が並んで御開帳を待っている。右側には、ぬれ仏・六地蔵、その奥に寛慶寺の大きな屋根が見える。(寛慶寺(かんけいじ)は、正式名称は、寿福山無量院寛慶寺で、善光寺東門に隣接し、浄土宗(鎮西派)、知恩院を総本山と仰ぐ。仁王門にある仁王尊像は明治初期の神仏分離令によって現在の戸隠神社から移設されたもので、表門は善光寺大勧進から移築したものであると言われている。)文殊菩薩が安置されており、お参りすべきであったが、本堂参拝に焦り忘れてしまった。





山門をやっとすぎると一般御開帳参拝時間となり、まず回向柱に触れようとする参拝者の長蛇の列であった。

回向柱は、本堂の前に立つ、1尺5寸角(約45センチ幅)高さ33尺役10メートルの柱で、3月27日(日)に受け入れ式を済ませてあった。上部4面に書かれた梵字、漢文は、宇宙の構成要素の「空・風・火・水・地」を意味する。

上部に白い布が巻かれており、本堂へと続き5色の糸へと変わり、さらに近位と変わり前立本尊の右手中指に繋がっている。

そのために回向柱に触れることは前立本尊に触れるのと同じ功徳があるとされている。

回向柱に触れ、世界平和、日本の安寧発展、家族の平穏無事を祈念した。

前には大きな航路が据えられていて、その上には勇壮な獅子が置かれている。その後、本堂内陣に於いて前立本尊参拝のため本堂へ入る。
善光寺御本尊「一光三尊阿弥陀如来」を中心に、右に観音菩薩、左に勢至菩薩が並び、インドで姿を現し、百済から、欽明13(552)年に仏教伝来とともに日本に渡った。

その100年後に絶対秘仏となり以降だれも目にしたことがない。

前立本尊はご宝庫に安置され、7年に一度お開帳される。150畳の内陣に入るとその広さに驚く、ない内陣には入ることができず、須弥壇の上におわす姿は遠く、暗くはっきりと見ることができなかったが、手を合わせお参りを済ませた。

その後、内々陣の右側より奥に進み、御戒壇巡りを行った。

入口より下を見ると真っ暗悩みが見え、足で探りながら階段を降りると、足元を照らすいくつかの明かりを頼りに、暗闇の中をすり足で壁に伝いながら歩いてゆくと、大きな錠前に手が触れる。錠前に触れると、御本尊と結縁さえ手極楽往生が約束されると言われる。

前立本尊は、御開帳前日4月2日に「前立本尊遷座式」が行われ、御宝庫より白装束の男性が厨子を担ぎ本堂へと運び、本堂では一山の住職が厨子を担ぎ内々陣へと運びお遷する。

4月3日早朝6時より「開闢大法要」が行われ厨子が開かれる。その後10時より各宗派の僧侶により「開闢大法要」が行われる。

4月23日(土)中日庭儀大法要(浄土宗)、5月7日(土)中日庭儀大法要(天台宗)、6月29日(水)結願大法要 御開帳中最も重要な法要で、豪華な衣装を纏った稚児行列、一山住職の行列があり、回向柱の前で、善光寺を守る天台州・浄土宗のそれぞれの僧侶によって法要が行われ、僧侶に差し掛けられる真っ赤な傘の列や散華など極楽世界を醸し出し、最も華やかと言われる。人々と縁を結び、極楽浄土への道を授けた前立本尊は、午後5時の夕座法要を最後に厨子の扉が閉められる。

6月30日(木)前立本尊御環座式 宝庫へお帰りとなる。




参拝後は善光寺表参道リ両側の店を散策しながら、途中にあるそば店で昼食をとり、土産の根元八幡屋磯五郎本店に立ち寄り、名物の「七味唐辛子」を購入する。

一旦長野駅に戻り、喫茶でコヒーを飲みながら観光案内を見ながら午後の行動を検討し、善光寺から歩いてゆける美術館・長野美術館本館・東山魁夷館があったことに気が付いたが、今一度戻ることはせずに他の場所を検討した。

雨模様の予測であったが降らぬことを祈りながら、象山神社を参拝することとし、バスに乗り、田舎のバス通りで長い時間乗ったので、早起きのせいか居眠りしながであった。

長野駅善光寺口3番乗り場からアルピコ交通松代行き(30番)30分、松代駅(廃線となった駅舎がそのまま残されている。)下車徒歩3分象山神社前で下車し歩いて神社にむかう。
急に雨が本降りとなり、バス停に戻り、タクシー会社に電話をし、タクシーで長野駅に戻る。象山についての博物館社を見学することなく引き上げることとした。

・「日に一たび移れば、千載再来の今なく、形神既に離るれば、萬古再来の我なし、学芸事業、豈愁愁たる可けんや」
時刻は一度移れば二度と帰って来ない、生命は一度絶えれば二度と生きられないから学芸の修得も、事業の実施も、決して悠々としては居られない、という意味を唱えた。
・「自分は二十歳にして一国に属することを知り、三十歳にして天下に属することを知り、そして四十歳になって世界に属することを知った」象山は、20歳で自分は藩に属している、30歳になったときに日本に属している、そして40歳になって世界に属している。自分の生涯を例え、地方、国、世界という3つの視点を持つことの重要性を表した。
23歳で佐藤一斎の塾に入門、渡辺崋山、藤田東湖東都親交、名前を象山と号する。江戸お玉が池に象山院を開き、41才で木挽町に開塾、勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰、橋本佐内など維新の英才たちを輩出した。54歳幕府の命で京都に上る。将軍家重・一橋慶喜・山階の宮・中川の宮に公武合体開国を解き活躍中、三条木屋町で尊攘派の凶刃に倒れた。尊王戒告の捨て石となって非業の最期を遂げる。大正2年象山純色50年債を契機に、元大審院長横田英雄博士を主唱に神社建設が発起され、昭和13年に権者として創建された。

象山の言葉(ホームページより移記)

佐久間象山公像・象山神社大鳥居より本殿を望む




本殿・平成30年、(株)AOKIホールディングス青木擴憲・寶久より奉納された憂国者像

松代藩8代藩主真田幸貫公・佐久間象山・並びに門下生吉田松陰・勝海舟。橋本佐内・小林寅三郎・坂本龍馬












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