馬頭観世音(石造物)の新川明王山 威徳院 境内地への移設が完了(5月20日)したとの通知を頂いた。

馬頭観世音(石造物)の新川明王山 威徳院 境内地への移設が完了(5月20日)したとの通知を頂いた。

あって不足ながらもお手伝いをした関係での通知であった。訪問させていただき、手を合わせ、本堂にもお参りをさせていただいた。

元々は、三鷹市下連雀9-5(旧下連雀399)にあったものが数回移設された後、市役所で文化財として保存されていた。

ご住職の先々代からの悲願であったと言われ、当時の歴史、文化を伝える文化財としても大きな意義があると移設を実施されたと聞く。

赤木穆(ぼく)「野仏第4集」「馬頭観音に名を刻まれた盗賊ども」

1869年明治2年、慶応4年6月11日4人組の浪人が三鷹に出没、殺傷したり食品を奪ったりの悪行を働いた。

ある日、大沢で強盗をしたのち、野崎八幡の裏で寝ていたところを村人に取り囲まれ、天然理心流第5代を継いだ近藤勇五郎らが4人を切り殺した(関東御取締御役所への届け出書「野川村にて盗賊四人殺候節 御届出書慶応四辰年六月十二日」が残っている)。

遺体は下連雀の馬捨て場に埋められた。

下連雀村・野川村・北野村の人々が明治6年馬頭観音文字等を再建した際、憐れんで、背面に戒名を刻んだのであろうと記されている。

同時に背が効く用が行われ、位牌が作られたと伝えられている。

ご住職は、1歳違いであるが、青年団活動を一緒に行い50年間のお付き合いである。

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