トレーニングをすることとした

畑作業がトラクターが使用できなかったので、トレーニングをすることとした(約17000歩)。

途中、白糸台地域で、常夜灯なのか大きな灯篭があったので、四方に書かれた文字などを丁寧に見てみると、西側に諏訪大明神、南側は判読できず、東側に稲荷大明神と記載されているが他は判読できない。

建立者の氏名は田中姓だけが読み取れるが、近隣には田中姓の家が多い。

自宅絵帰る途中で旧陸軍 調布飛行場 白糸台掩体壕を見学した。終戦後、調布飛行場周辺の掩体壕も、多くは取り壊され、現在は三鷹市の都立武蔵野の森公園に2基(大沢1号・2号掩体壕)、府中市内に2基、計4基の有蓋掩体壕が残るのみとなりました。そのうちの1基がこの旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕(以下、「白糸台掩体壕」といいます。)です。

白糸台掩体壕は、旧所有者が繰り返し補修を行ってきたことから、これまで良好な状態で保存されてきました。府中市では平成18(2006)年の平和都市宣言20周年を機に、白糸台掩体壕の保存・公有地化を決定し、平成19年12月から平成20年3月まで、その構造などを確認するための調査を実施しました。その結果、戦闘機「飛燕」とほぼ同じ規格で造られていたことが判明したほか、排水設備や砂利敷き、誘導路、実際に機体を収納していたことを示すタイヤの痕跡が発見され、平成20(2008)年に市に史跡に指定しました。その後、コンクリートや鉄筋の保存修理工事を経て、平成23(2011)年度に保存整備を実施し、平成24年(2012)年3月より一般公開を開始しました。終戦から長い年月が経過し、戦争の記憶が風化していくなか、戦争遺跡を文化財として保存・活用していく気運は経過し、戦争の記憶が風化していくなか、戦争遺跡を文化財として保存・活用していく気運は全国各地で高まっています。戦争の悲惨さや平和の尊さを通義の世代へと語り継いでいくための貴重な歴史遺産として、市民の皆様と共同で白糸台掩体壕を永く保存・活用していくため、今後ともご理解・ご協力をお願いいたします。平成24年3月 府中市教育委員会設置看板より

調布飛行場は昭和13(1938)年に東京府によって、東京府北多摩群多摩村(府中市)・調布町・三鷹村(三鷹市)にまたがる約50万坪の広大な土地に計画され、農地や寺院などの民有地を買収する形で進められた。昭和16年(1941)年4月に官民共同の飛行場として設置されたが、同年8月には陸軍専用の飛行場として使用されるようになり、帝都防空の拠点として「飛行第244戦隊」が置かれ、三式戦闘機「飛燕」など多数の戦闘機が配備された。戦争末期には、鹿児島県の知覧基地への中継点として、特攻隊の訓練も行われた。

終戦後は進駐軍に接収され、飛行場西側の府中市域には、軍に野菜などを供給するための「調布水耕農場」が建設されました。

その後昭和39(1964)年の東京オリンピック開催に伴い、代々木にあったアメリカ軍居住用施設がこの地に移転し、「関東村」と呼ばれました。関東村は昭和49(1974)年12月にアメリカ軍より全面返還され、跡地には大学・病院・福祉施設などが建設されました。

平成13(2001)年には「東京都調布飛行場」として正式開港し、現在は伊豆諸島方面への空の玄関口として小型機が運行されています。

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